第11話 地獄

 地獄に近づいたことがある、と彼は言った。

 私はこれまでに数人ほど「地獄を見た」という人にあったことがある。

 その九割は生き地獄、この世の地獄のことだ。それらは吐き気を催すような人間による地獄で、おぞましさは目をそらしたくなる。地獄という表現以外なにものでもないものだ。

 そうではなく、「本物の地獄」を垣間見たという人も二人ほどいた。それは空間としての「地獄」だ。


 五年ほど前の夏、彼は一人で某山へ入った。それは個人の所有地で山屋にとっては丘のような山であるが、しばらくキャンプや登山から遠のいていたので「うちの山なら使っていいよ」という申し出を受けたかたちだった。

 頂上まで一時間から二時間。なんでもない坂なら三十分でいけるだろうが、舗装路でもなく、踏み固められているわけでもない。中々いい具合だ。山を三つ縦走してテントを張った。ここらへんでもクマは出るだろう、それよりもイノシシの方が怖いかな、などと考えていたが無事、朝を迎えることが出来た。

 朝食をすませて荷物をまとめる。さて……と思った時、すっと冷たい風が吹いた。

 身が縮むほどの凍てつく風だ。

 どこからだろう、と荷物をおいたまま少し風上を探ってみた。二三分歩いてみると、それが穴から吹いているものだとわかった。

 えー、これってもしかして風穴じゃないか。こんなところにもできるもんなのかなあ、とかなりワクワクしながら近付く。

 こぶし大の大きさの穴だが、明らかにそこから冷たい風が出ている。

 洞窟自体は珍しいものではないが、冷たい風もしくは暖かい風が吹き出す「風穴ふうけつ」が出来るには条件があり、簡単に見つかるものでもない。

 もう少し探してみたらもっと大きな穴が見つかるかもしれないなあ、これはラッキーだ。穴の状態を調べてみようと顔を近づけたときだ。

 奇妙な音がした。

 それは奇妙という言葉でしか言えないものだった。

 聞いたことのない音だ。

 オーケストラの低音部がどこか遠くの壊れたテレビからノイズ混じりで聞こえてくるような……海の底で爆音のホワイトノイズが鳴っているような……。

 風穴の向こう側の出口から聞こえるのかな?

 いや、待てよ。

 さらに耳をすます。

 もっと別の……。

「うわぁっ!」

 飛び退いて、背中からころんだ。

 ビックリした。

 立ち上がると、ふと二三人の人影が見えた。中年の男女で呆然と自分の方を見ている。気恥ずかしくなって会釈さえせずそそくさと荷物のところまで戻った。

 まだ心臓がバクバクいってる。

 微かに、だが、間違いなく……あれは悲鳴だった。

 ものすごい数の人間の悲鳴だ。

 奇妙な音の下からうっすらと聞こえていた。

 彼は、ふっと「地獄」という言葉を思い出した。

 その言葉に頭を締めつけられながらひたすらもと来た道を戻った。


 山の所有者に挨拶に行き、おずおずと風穴を見つけた話をした。ふうん、と興味なさげだ。他にも人を見かけたから、案外知られているんじゃないのか、と言うと手応えがある。

「またか。なんだか時々勝手に人の山に入るやつがいるんだよ。ゼンマイだのキノコだの取りに来てるんだか。軽装でふらふらやってくるんだとさ。どっから来てんだか。君、車とか見なかったか」

「いえ」

「だろう。上手く見つからないところに止めるんだよ。いつかきっちり言ってやろうと思ってんだ」

「はあ」

 しかし、見つからずに止める場所なんて思いつかないし、わざわざあんな山奥まで山菜を取りに行くものだろうか。だとしたら、何をしにあそこまで行くのだろうか。考えると、なんだか気味が悪かった。

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