第8話 苦汁
「俺、東京にいたの大学生の時だけなんですよ」
年下の知人と飲みながら、私はいつものように怖い話がないかと聞いてみた。
「結局地元には戻らなかったんですけどね、福岡行って、韓国行って、カナダ行って……まあ、それで、その大学生の時の話なんですけど」
入居したのは一人暮らし用の比較的新しいアパートだった。ひと月は何事もなく過ごしたが、ある日、水道水が苦いことに気づいた。
「ほら、東京ですから。都会の水はまずいなぁ、とか。そう思ってたんです」
ところが、まずくない日もある。普段はまずくない。まずくなるのは週末だけだ。
その苦さというのが、なんだかドロッとして腐ったような苦さなのである。生理的にゾッとするような味だった。
「それが苦いなぁ、って気付いてからどんどん不味くなるんですよね」
大家に苦情を言った。ところが他からはそんな苦情が出ていないという。水道屋を呼ぶ金もなし。どういうわけかなぁ、と思ったが、ふと見ていたテレビで味覚障害と脳卒中の関係をやっていたので慌てて病院へ行った。そこでも何もなし。なにやら薬を処方されたが、効き目もなし。なんでこんなことになっているんだろう? と首を傾げたまま、とにかく水道水を飲まないように過ごした。飲まなければ、何でもない。
それから二月した頃だろう、土曜はいつもバイトで疲れて帰ってくる。トイレへ向かう。知らない男がいた。
いや、いた気がした。
まばたきの瞬間にはもう消えていた。
だが脳裏にははっきりと短髪の太った中年が裸で立っているイメージが刻まれている。
しばらく立ちすくんだ。
えっ、いや、なんだ今の?
白昼夢?
はっきりと幽霊を見たという気にもなれないが、異様な体験をした実感がある。ぶわっと全身から冷や汗が出る。
うわっ。
洗面所のコップに水を注ぐ。一口飲んで落ち着こうとした。
苦い。
その苦さが、あの裸の中年男のイメージとなぜか結びついた。
「なんでかわかんないんですけど、あの……まあ、いわゆる体液ですよ、体液」
「体液?」
「あの、男性特有の……」
「うわ。……君、飲んだことあるの?」
「ないですよ! でもなんかもう絶対そうだろうなって。わかんないんですけど、すっごくそう思うんですよ」
それからも土曜になるとパッと一瞬だけ裸の中年男のイメージが浮かぶ。しかも、時には股間が……。
「あー、その、隆起した?」
「はい」
「いやぁ、それは苦労したね」
「でも出ていく金もないし、なんか世間でいう幽霊みたいにのっそり現れたり襲ってくるわけじゃなくってただの嫌なイメージなだけだったし、まあ水道水使わなきゃいいだけなんでね。無視しましたよ、無視。で、卒業してよそに移ったらなくなりました」
「その中年男の幽霊はどうしてそんな手の込んだセクハラしたんだろうねえ」
「セクハラっていうか性犯罪ですよ。マジで、何度か飲んでた思うと気が滅入りますよ。だって、ねえ?」
「いやいや、わからないじゃないの。君が勝手に苦さとアレを結びつけてるだけだろう?」
「わかるんですよぉ……いや、あの……ほんとのこと言うと……めっちゃ、その、おっさん自分でしてたイメージが頭のなかにあるんですよね……」
「うわ……」
「もー、めちゃくちゃしんどいんすから。でも金ないでしょ。お祓いとかっつってもどうしたらいいかわかんないし。それに印象だけだし。マジで幽霊見ましたとか言える感じじゃないし。我慢しましたよー!」
私の知っている話の中で、怖いかはともかく嫌な話の中の一つだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます