第7話 言
理屈っぽい話ばかりしているのも悪いので、少し単純な物語を話そう。
この話を語ってくれたのは、なんと御年九十五になる老媼である。エビのように腰を曲げて、二本の杖で元気よく歩き回る。記憶力は多少鈍ってはいるが、昔のこともよく覚えているし総入れ歯だが健啖で胃腸も丈夫だ。
「不思議な事は色々あったけど、一番嫌なのはもう……どのくらい? 戦争は……
四十五年の初夏、彼女の弟が白木の箱に入って帰ってきた。中には石ころが一つ入ってるきり。ーーこれはつまり、戦死して骨も見つからない、ということである。ーー泣いたのは勿論だが、身体から活力がすぅーっと抜けていった。皿を洗うのも繕い物をするにも、また配給に並ぶときも、すっ……と身体から力が抜けて睡魔に襲われたようにじぃんと頭が鈍くなる。時には立っていられなくてしゃがみ込んだりもする。こういうのは彼女一人のことではなかった。夫や子供、父親を戦地で失った女性がこうなることはあった。もちろん当時もそれが「気を病んだ」という知識はあった。
「そうなっちまうのもしょうがないよ」
と、みな気遣ってくれたが、中には烈婦のような人がいて「そういうことではみんなの迷惑になる。お国の迷惑になる」と言ってはばからない人がいた。その言葉は珍しいものではなく、公にはこの人の主張のほうが「正しい」時代であった。それで、一度言い出す人がいると皆なんとなく引いてしまう。結果、彼女を情けない、怠け者、非国民、と責める言葉を誰も遮ることはできなかった。
彼女に寄り添う人は一人だけになった。
朝鮮人の女性だった。
富士山を目掛けて飛んでくるB29を見上げながら、「もうそろそろ終わりですよ」と言った。
「何を言ってるの」
「男の人達はみんなそう言ってますよ。こっちのホンマルが攻められてるのに、こっちはホンマルを攻めることさえできてないのに、どうして勝てるんだ、って」
「そんな馬鹿なこと言ってはダメよ」
「そう言ってますよ。私のこと朝鮮人だから気にしてないんです。言ってますよ」
「そうなの……日本は神国じゃないの」
「私のこと、朝鮮人だから犬臭いとかニンニク臭いとか言って馬鹿だと思ってるんですよ。だから平気で喋るんです。私もあまり話しませんから、日本語がわからないと思ってるんです」
「そんなことってあるかしら。でも……それで?」
「もう近々、日本は負けますよ」
「間違ってると思うわよ。それに一億玉砕の気さえあれば最後には勝つわよ」
「だって、ずっと海や島で戦っていて米本土は平気でいるのに日本にはしじゅう爆弾が降ってるのですよ。この調子が続いて、どうして勝てます?」
「それだとしても、そんなことを言ってはいけないわ。あなた朝鮮人だからって非国民だわ……」
と言ってがっくりと後悔した、非国民という言葉はまさに彼女にのしかかっていた批難だった。
「ごめんなさい」
「いいですよ」
「それで、男の人達はなんて言ってたの?」
今言った通りのことを繰り返した。敗戦の事実を知ってる我々からしたら当然のことだが、日本はもはや攻勢ではない。戦える男たちは町にはいない。今、身の回りにいるのは公務員か憲兵か障害者か老人たちであるが、この中には経験的に戦争の推移を知っている人達が少数ながらいた。しょっちゅう飛来するB29を見て、大本営がいくら「野戦」で戦果を上げていると言ってもこっちはもう「城攻め」されてるんだから、勝てるはずがない。勝てる理屈がない。そういう思いであの富士山に向かうキラキラした飛行機を見上げている人がいた。
「そうなのね」
内心の反発が腹から上がってくるが頭からは理解のできる話だなという重い納得が降りてくる。みんな一生懸命になってつらいことに耐えてきたのに、これじゃあ悲しい。あまりにもつらい。
「残念だわねえ」
それから彼女は寝付いてしまった。泣いたり騒いだりはしないが、思考が泥の川のように鈍い。二日も布団の中で過ごした。目が覚めると、枕元で父母や祖母が泣いている。どうしたのだろう、自分はよっぽど悪いのだろうか。
「あんた、どうしちゃったの」
「なにが?」
寝言を言っていたそうである。予言だった。
「あんた、日本が負けるって言ったのよ。普通じゃない雰囲気で、もう怖くて怖くて」
ああ、それは何でもない。ただのうわ言だ。……と、思ったのだが、なんだか奇妙な悔しさが湧いてきて「弟が……」と一言つぶやいた。しかし、いや、やはりそんな嘘はいけないと思って黙した。その沈黙が力になるとは知らず。家族はお互い目を見交わし「とにかく、警察や憲兵にバレないように」とささやきあった。
彼女はそれからも予言をした。それは全くの嘘だった。
「遠からず負ける」とか「今年いっぱいはもたない」とか「米兵が来る」とか……曖昧なことだが言うと、少しだけ気持ちが良かった。それは優越感に似たものだ。だれもが言えないことを言っている。
ついにそれが外へ漏れたが、彼女は知らなかった。
母親があたりで一番の富豪で旧町長の老人を連れてきた。
「弟が立つんだね、あんたの夢枕に。そうなんだろう?」
母親が暗い真剣な顔で話す。彼女もひっこみがつかなくなって「はい」と応える。老人はしばらく黙って
「官憲はそんなのもの信じないから、必ずしょっぴかれる。でも心配しなくてもいい。みんな知らぬ存ぜぬを通すから」
結局なんのお咎めもなく、夏のさなか、ラジオが戦の終わりを告げた。
「よく無事ですみましたね」
私が驚いて言うと「不思議なものよねえ。今考えてもどうして無事だったんだろうと思うわ。でもきっとみんな内心聞きたかったのよ」と答えた。
「みんな……いえ、みんなじゃないわね。ああ、もう嫌だ、終わってしまえ、と思ってる人もいたし、本当にこれは勝ち目がないと思ってる人もいたのよ。それで、そういう人たちが言ってたことを繰り返してたわけね。それをね、なんだかお告げみたいなもので言われるとうれしかったんでしょうね。だからやっぱり忍びなかったんじゃないかしら、わたしがお咎めを受けるの」
なるほど、それはきっとそうだろう。
「それで、その後どうなりました?」
「その後? ええ、ちょっとだけ有名になりましたよ。あすこの娘は弟の幽霊と会って、終戦を予め知ってたんだなんて。でもあっという間にみんな忘れちゃいましたよ。わたしももうそろそろ弟に会えそうだから、そうしたら大変だったこと話そうと思って。きっと大笑いよ」
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