第5話 味

 人には味蕾みらいというものがある。舌にあって刺激を感知する器官である。味蕾に与えられた刺激が脳に行き、前頭葉味覚野がその刺激を「味」という形式で理解する。

 のみならず、「味」は記憶や五感との連合により判断される。単に味蕾一つからの情報で「味」なるものが決まるわけではない。イナゴの甘露煮など食べ付けている人にとっては小エビのそれと同じようなものであるが、虫そのものの姿から「虫」の記憶やイメージに覆われてしまうとどうしても食べられない……という人もいる。蛸が好きな人々もいれば、そのヌルヌルして不気味なイメージを食べられない人もいる。それは人肉にも言える。人の肉もただの肉に違いない。「食べる」とは文化をも口にふくむことである。

 そもそも私たちはそれぞれ違った脳の中身を持っている。遺伝なり記憶なり経験なりで脳の中身は異なっている。「正解の脳」というものもない。仮にその平均を出せたとしても、それは平均であって、平均とは正しさの基準ではない。

 「味」というものは脳の中にしか存在しないのだから、その人にとっての「味」しか存在せず、客観的に正しい味、正解の味など存在しないのであろう。


 枕が長い。こんな話をしたのも年上の友人の話を思い出したからだ。彼はある海岸町の出身であった。

「血の味がするんだ」

 潮のせいか、と私が言うと、彼は「ああ、そうか。時期だよ」と不思議な答え方をした。

 なんでも8月のある時期になると海の水が血の味になるという。そのころは漁師も海に出ないならわしなのだったとか(今ではそんなこともあるまいが)。

「ふぅん、そうかい」と答えたが、ふと思い当たって「お盆のころか?」と問う。

「そうそう」

「で、なにか謂れがあるんだろう」

「なんだったか、平家がどうとか」

「壇ノ浦じゃないだろう、君のところ」

「そうだけど、落人だったはずだよ。どこにでもあるもんだね、そういうのは。それで、お盆が過ぎると朽ちた舟に乗って、ほら、極楽……」

「補陀落? 東方妙喜世界かな?」

「どうかな。ま、ともかく船に乗って浄土へ行くんだよ」

「毎年?」

「そりゃ、迎え火で帰ってくるからね。その盆の間に海に入ると血の味がする。源氏を切った血か、切られた血か、ともかく幽霊の血の味がするんだと」

「ふうん」

 で……、と試すように言う。

「実際には?」

「赤潮が多い時期だから、そういう話が生まれたんだろうね」

「違う違う……味だよ」

「急くなよ、そこが面白いところだ。するのさ、血の味が」

「ほう。そうきた」

「マジだぜ。まったく吐き気のするくらい血の、あの鉄分の、なんともいえないドロっとした味がするんだ。俺も友達も父さんも爺さんも婆さんも、近所の人もみんな知ってる。ところがさ、この海岸辺の人しかその味を感じないんだよ。よそから来た人は感じないんだ。他の地方から引っ越してきた人でもダメだね。重代の土地がある人じゃないと。もういっぺん来て、舐めてみな。きっと海の味しかしないだろうから」

「海の味しかしなかったらなんにも面白くないじゃないか」

「だろう?」と笑う。「で、種明かしの段だよ」

「種があるかい」

「ある。ようするに刷り込みさ。夏場の海水って、それこそ赤潮の出るような時期の海なんてちっと気持ち悪いような水なんだよ、濁ってて。それにもともとしょっぱいだろう。俺なんてそもそも血を舐めたことなんてなぁ……そうな、一回あるかないかだよ。まあ味なんてはっきりと覚えてないんだ。でも、海を舐めてああ血の味だと思うわけ。なんでか? みんながそうだって言うからだよ。子供の頃から聞かされて、みんなが血だ血だという環境にいるから、その海岸辺の人間だけ盆の海の水が血の味だって思うのさ。それが種」

「はぁん、集団催眠みたいなものか」

「そうだね。俺みたいのはしばらく土地を離れていても戻って盆の頃に海に入ったら、あ、血の味だ、って思うけど、もうそういう話を聞かなくなった最近の子供は……と言っても、君くらいの年だけだど……そのくらいの連中から下は、もう血の味なんかしないんだから」

「じゃあ皆だまされてたっていうか、嘘を信じてたってわけだ」

「信じるもなにも本当に血の味がするんだから、別にそれは嘘じゃあないよ。血の味がするのは本当のことさ」

「でもただの海水だろう?」

「君にとってはね」


 とやこう言いあったが、今思い返して、確かに彼が血の味だと感じたならそれは血の味に違いないと思い直した次第である。そのわけが長い枕になった、というのがこの話の仕組み。

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