第2話 狐

 狐に化かされた話も聞いたことがある。十五年ほど前だろう。

 話自体は余程前の話で、たしか明治の中頃だったと思う。

 富山のさる漁村に一人男が来た。五十過ぎで、おそらく馬喰であろうということだった。その男が死んだ。

 村にいたのは一日だけであった。着いて、漁の小屋を一夜借りて、次の日には死んでいたのである。

 それがなんで狐の話かといえば、この男の死に様のせいだった。

 朝まだきに一人漁師が小屋におもむくと、既に旅人の姿はない。随分早くに発ったのだろう、と思ったが、草履が転がっている。はてな、と思って、およそ行く方であろう金沢方面へしばらく歩いてみると、血の池に浮いた死体を見つけた。

 裸である。仰向けで死んでいる。その顔はクソまみれでドロドロになっている、両足は細かな傷が無数についてい、それがずっと胸のあたりにまで上がって、妙な切り傷だらけで死んでいる。

 死因は大量の血を吐いてのことだろう。顔中の糞は、汚臭がなければそれと気付かないほど吐血に赤く染め上がっている。

 漁師は、おやっ、と身をかがめる。

 男の死体は勃起をして遺漏している。

 どうしたらこんな死に様になるのだろう、と恐ろしいながらじっと佇んで考え込まざるをえなかった。

 結句、どうしてそうなったのかは誰も明かせなかった。だれともなく、妖狐に騙されたのだろうと言い出した。その狐というのが、昔から住んでいる雌の大狐だという。全身が白くて、目が倍にも大きく、人に会うとものすごい顔つきをして声だけゲラゲラ空笑いをするのだという。

 なにか妙なことがあると妖狐の仕業だというのはこの村の癖のようなものであった。警察から村長を通して流言蜚語は慎むようにと諭された。それでも収まらないので、長老役の老人が「昔もそういうことがあったと聞く。だが、それも自分の生まれるよりもよっぽど昔でそう度々あることではない。化物の狐のことはよくわからないのだから、いい加減に喋るのはよくないことだ。いい加減なことを言うとなにか災いするかもしれない。それよりも死んだ馬喰の成仏をよく祈るべきだ」というようなことを問いて回って、ようやく収まったということであった。

 今でもこの男は女狐に騙されて殺された男ということになっているが、言うまでもなく、この話に狐は一度も登場していない。

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