第1話 狸

 狐狸は化かすそうな。

 往昔の物語にも、犬だの猫だの雉子だの鶴だの、むじなや狼やいたち、蛇、蛙、果ては鯉魚りぎょふなに蟹さえ人身に化けるものがある。が、多くは報恩譚なり復讐譚で、ただ悪戯を専らにして化ける与太者はおよそ狐狸くらいのものである。牛だの馬だのという、のっそりして気性穏やかなのは人のために働くだけで化けもしないかわりに牛頭ごず馬頭めずという地獄の獄卒があって、人が死してのちは立場が変わる。狐狸に次いで化けるのが猫だが「化け猫」さえ悪戯で化けはしない。必ず恩と讐の二語を纏うものである。これだけ沢山の獣が化けられるなら一体に獣はなべて化けられるものを強いて化けていないだけなのだろうか?

 あるいは獣が化けるなどということは全く人間の幻だろう。殊に狸はとんだとばっちりかもしれない。というのも狐の化物を中国では「狐狸精こりせい」とも書くそうで、どういうわけか妖狐の化物を指すに「狸」の一字がくわえられている。それを誤解した本邦の人達が狸も大きに化かすだろうと思ったのかもしれない。本当は狸など化かさないのかもしれない。


 と、私がそう穿って思うのも、曾祖母からこんな話を聞いたからである。

 曾祖母は明治年間の生まれで、私が十の時に儚くなってしまったが、終生髪は結い、出生地を「駿河」や「駿府」と言う人であった。

 曾祖母がまだ少女時代、大正年間の話だそうだ。

 朝、布団の中でうつらうつらしている。頭の中でわんわんと人の声が鳴る。それが次第にはっきりしてくる。夢の声ではない、どうも外で大騒ぎが起こっているらしい。

 なんの騒ぎと言えば、人殺しの騒動であった。鄙びた漁村だが、人の軋轢はあり、さては網元のあの人とあちらの奥さんが……と曾祖母が妄想をたくましゅうして、ようようのっそり起きた時、豈図らんや、二つ年上のある女性――十三と言ったと思うが、それが数えか満かは覚えていない――が、狂乱して小刀を振り回していると聞いてキッと目が覚めた。そんな馬鹿なあの姉さんがと思ってあわてて外へ出るが、本当に、気も狂って、ギラギラしたものを振り回している女を見つけた。それが如何にも情けない振り回し方で、やけっぱちで、ひたすら誰もいない空を切っていたそうである。やがて取り押さえられた。

 どうやら、その女(いや、少女だ)は身ごもっていて、相手の男がどうしても知らぬ存ぜぬを貫くから凶行に及んだ、という話である。

 殺されたのは、五十絡みの妻も子も孫もある、およそ穏やかで人好きのする漁師だった。そんな温厚な男も一皮を剥げば野獣だというものか、暗夜に見つけた少女を手篭めにしてのち、暴力で言うことを聞かして何度も事に及びいよいよ孕ませた、ついに殺される所以はあったということである。

 ところで、公の話とは別に風聞で村の内だけで聞かれた話がある。

 その風聞では孕ませたのはその温厚な男ではなく「狸」だという。なんでも彼女が憎き相手の下腹部をえぐって殺した時刻、異様に大きくふてぶてしい狸が彼女の家の縁下から慌てて逃げ出したのを、家族のすべてが見ていたそうで、まったく肝を潰したという。

 少女は以前に拝み屋の世話になったことがあり、その拝み屋も噂を聞いてからはほうぼうに「あれは憑物のせいで可哀想なことになったから、あまり責めるものではない」と言い含め、いよいよ村長まで「あの男がそんなことをするわけはないから、これはやっぱり……」と言うようになった。

 曾祖母は「馬鹿な!」と思った。「その狸はただの狸だ!」

 だが、村ではおおかた村長のような考え方をする人が主流になり、ついに狸狩りが行われて、大きな狸が殺され、悪狸の供養塔が立った。その男を殺した娘がどうなったのか詳らかなことは誰も語らなかったが、ただ「死んだそうだ」といつごろからか言われるようになった。

 また隙間風のようにいつの間にか「大狸が縁の下から這々の体で逃げ出して、藪に入った。と、『おお、冷や汗をかいた』とつぶやく声が聞こえた」とか「生まれた子供にはしっぽが生えていたのを誰にも知られぬように産婆が葬った」と語られるようになったそうである。


 狸の供養塔も杉の卒塔婆のようなものだったせいか、数年で朽ちた。この話も一時は皆知っていたが、そのうち誰も話題にすることもなくなり、年月とともに知っている人も亡くなって、もう今では自分しか覚えてないだろう、と曾祖母は言ったものだ。

 それから「みんな化物の話なんて言うのはこんなものだよ」と締めくくった。

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