第29話「瑞夏」(8)めぐりあう記憶


「誰?」


 周囲を見回し、わたしはハッとした。暖炉の傍らに、先ほどまで倒れていた康昭がいた。どこから手に入れたのか、康昭の手には灯油の入ったポリタンクがあった。康昭はポリタンクの中身を床に撒こうとしていた。


「何してるのっ、やめてっ!」


 わたしは思わず叫んだ。康昭は灯油を撒く手を止め、こちらを見てにやりと笑った。


「どうせもう、何もかもおしまいなんだ。バイロンの息子とか言う小僧に脅されてくだらない芝居をしたが、いずれ脱税と医療ミスが明るみに出るところだったんだ。そうなれば私はおしまいだ。……何が理事長だ。こんな家など、いっそ灰になってしまえ」


 康昭は自虐的に言うと、歯をむき出して下卑た笑いを浮かべた。


「あんたも逃げるなら、今のうちだ。早く逃げないと、その小僧の死体ともども灰になってしまうぞ」


 わたしは康昭に飛びかかろうと身を乗り出した。……が、どうしてもママを離すことができなかった。その間、康昭は悠々と油をリビングに撒き続けた。刺激臭が鼻を衝き、まんべんなく油をまき終えた康昭は、カーペットの上に積まれた雑誌の束に、おもむろに火を放った。


「さて、私は一足先に失敬させてもらうよ」


 康昭は私たちに一瞥をくれると、小走りにリビングを立ち去った。


 とにかくこのままではいけない。わたしはママの上半身を抱き起すと、あたりを見回した。バイロン細胞が乗せられていたワゴンは小さく、ママの身体は乗りそうにもなかった。


 仕方なく入り口の所まで引きずっていこうとしたが、一向に距離は縮まらなかった。炎はカーペットに燃え移り、部屋のそこかしこでぽつぽつと火の手が上がり始めた。


 まずい。このままだと火勢より先に煙に巻かれてしまう。わたしの脳裏に、ライブハウスの爆発がありありと甦った。わたしは渾身の力でママの身体を引きずった。


「大丈夫か!」


 突然、背後から男性の声が響いた。振り返ると、そこに意外な人物が立っていた。


「五道院さん!」


 黒いジャンパー姿の玄人はわたしとママに駆け寄ると、ママの傍らにしゃがみ込んだ。


「すぐにここから脱出するんだ。いいね」


 玄人は厳しい口調で言った。すると声に反応したのか、ママがうっすらと目を開いた。


「玄人……やっと来てくれたのね」


「ああ。遅くなってすまない」


 わたしは耳を疑った。どういうこと?二人は知り合いだったの?


「十六年ぶりね。……あなた、ちっとも変わらないわ」


「麻理子、僕が間違っていた。あの時、草の根を分けてでも君を探し出すべきだった」 


「それはもう言わないで。あの時はお互い、ああするしかなかったのよ」


 ママは玄人の目を見つめ返し、ゆっくりとかぶりを振った。ママの目尻から涙が一筋流れ、頬を伝い落ちた。


 十六年前?……探し出すべきだった?


 わたしは混乱していた。玄人が十六年前に別れたママの恋人だとすると、その時ママのお腹にいた子供の父親ではないのか。ということは、わたしの……


 わたしが玄人に向かって口を開きかけた、その時だった。わたしたちのすぐ近くでひときわ大きな火の手が上がった。


「五道院さん、ママを二人で運び出しましょう。手伝って下さい」


 わたしの呼びかけに、玄人は黙ってかぶりを振った。わたしは驚き、問いを放った。


「どうしてです?急がないと、ママが……」


「彼女は僕は助ける。君は先に脱出したまえ。僕らもあとから行く」


「だって、二人がかりのほうが早く……」


「こんな時で申し訳ないが、少しの間、二人きりにさせてくれ。警察なら僕がもう呼んである。……さあ、早く行くんだ」


 わたしと玄人はしばし、見つめあった。この人が、わたしの、本当の……


「……わかりました。必ず来てくださいね」


 わたしは強い口調で言った。玄人が頷くのを確かめて、わたしはママの手を握った。


「ママ、会えてよかった。わたしは先に行くけど、ママも後から必ず来てね」


 ママは頷き、目を閉じた。わたしは踵を返すと、リビングの出入り口へと向かった。


 いがらっぽい煙が部屋のあちこちから押し寄せ、わたしは咳込んだ。


 建物を出て門の所までたどりついたわたしは、足を止めて背後を振り返った。

 外見には炎こそ出ていなかったが、リビング全体に火が回るのは時間の問題だった。


 どうして?……なぜ、出てこないの?早くしないと煙に巻かれて死んでしまうのに!


 わたしは焦れながら待った。……が、入り口から二人が出てくる気配はなかった。

 その時、わたしの目はある一点に釘づけになった。二階の窓に、玄人と思しき人影が見えたのだ。


 玄人はママを腕に抱きかかえているように見えた。――なぜ、二階に?


 わたしは建物に向かって駆け出そうとした。その瞬間、かちりと音がして、門の鉄柵がロックされた。誰かが内部から施錠したのだった。


「どうして!」


 わたしが叫ぶのと同時に、二階の窓のカーテンがさっと閉じられた。わたしは鉄柵を両手の拳で力任せに叩いた。

 やがて背後から救急車のサイレンが聞こえてきた。わたしはなすすべもなく、その場に膝から崩れ落ちた。


 やっと――やっと会えたというのに――


 わたしは嗚咽を漏らした。体中の細胞が、泣き叫んでいるような気がした。


             〈最終話に続く〉

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