第24話「瑞夏」(3)ささやかな誓い
呼吸が落ち着くのを待って、わたしは立ち上がった。右手の骨はいつの間にか手の中に収まり、骨がつき破った穴には薄い膜ができていた。
わたしは杏子の身体を横たえた場所に向かった。杏子はまだ同じ場所でぐったりしていた。わたしは近寄り、意識を失っている杏子の傍らに屈むと、声をかけた。
「杏子さん……大丈夫ですか?」
わたしの呼びかけに、杏子はうっすらと目を開けた。
「あ……瑞夏ちゃん。ここは……どこ?」
「ディオダディの入っていたビルの屋上です。杏子さんは爆破事件の犯人に操られてここまでやってきたんです」
「えっ、どういうこと?……爆破の犯人?」
「詳しいことは後で説明します。一階まで階段で降りられますか?」
「少しだるいけど……ゆっくりだったら」
杏子はふらつきながら立ち上がった。階段室に戻るとわたしたちは、ゆっくりと階段を降り始めた。杏子が時折、何かもの言いたげに私の方を見たが、わたしはあえて気づかぬふりをした。説明するとなれば、わたしの身に起こったすべてを語らなければならない。
――たった今、人を殺したことも含めて。
わたしは心苦しさを覚えながら、先を急いだ。三階まで降りたところで、ふいにどこからかサイレンの音が聞こえてきた。わたしは、はっとした。
まさか、ヴィクターの死体がもう見つかったのではないか。わたしは足を止めると、杏子の方を振り返った。
「杏子さん、申し訳ないけどわたし、先に行きます。気を付けて帰って下さい」
そう言い置くと、わたしは残りの階段を全速力で駆け下りた。わたしはビルの外に飛び出すと、ヴィクターの落下した場所を探した。
サイレンはなかなか近づいてこなかった。あるいは、ヴィクターとは無関係のサイレンなのかもしれない。隣のビルとの境に回りこんだ時、わたしはアスファルトの上にうつぶせで倒れているヴィクターを発見した。
わたしはヴィクターの死体に歩み寄ると、死体の傍らに屈みこんだ。
――ごめんなさい。これしか方法がないの。
わたしはヴィクターの背広のポケットをまさぐった。ほどなく私の指は手帳らしき物を探り当てた。引っ張り出すと、小さなスケジュール帳が現れた。
わたしはおそるおそる、ページをめくった。白紙のページが多く、ごくたまに店の名前と思しき単語や、電話番号らしき数字が書き記されていた。
――空振りか。そう思った時だった。ページをめくる指が止まった。開かれたページには『×月△日 午後十時 バイロン』とあった。
――バイロン。
ヴィクターが言っていた、爆破事件の黒幕だ。手帳には続く記述があった。
『M区 インぺリアル記念病院 佐倉理事長』
この佐倉という人物が、バイロンなのだろうか。わたしは手帳を閉じると、ポケットにしまった。心臓の鼓動が知らず早まっていた。
どこからか再びサイレンの音が聞こえ始め、今度は徐々に大きくなってきた。わたしはヴィクターの死体を一瞥すると、サイレンの音とは逆の方角に向かって歩き出した。
※
病室の父は、いつもと同じように眠っていた。
わたしは父のベッドに歩み寄ると、床に膝をついて父の体に覆いかぶさった。
「お父さん。これがたぶん、最後の戦いになると思う。何があっても、驚かないでね」
わたしは目を閉じたままの父に語りかけた。ようやくここまでたどり着いたのだ。せめて『バイロン』が何者かだけでも確かめなければならない。たとえ、ヴィクターと同じように倒さねばならない羽目になったとしてもだ。
――行きなさい。
一瞬、父の声が聞こえたように思った。
――うん。行くね。わたしのために死んだ、みんなのためにも。
――自分のために、行きなさい。お前が今までしてきたように。
わたしは頷いた。わたしの願いは、わたしに命をくれたみんなの願いでもある。
――またね。お父さん。
わたしは病室を出た。もうここに来ることも、かなわないかもしれない。
※
「インペリアル記念病院?知ってますよ」
シェイカーからグラスにノンアルコールカクテルを注ぎながら、佑は言った。
「山の中にある、でっかい総合病院ですよね。地下鉄の駅で降りて、そこからバスで二十分くらいかかる……あそこが、何か?」
「ラジオ番組の取材で、理事長さんにお話をうかがいに行くんです」
わたしは口から出まかせを言った。理事長に会いに行くというのは本当だったが、取材ではなかった。わたしは理事長の
「そうだったんですか。……でも遠いですよ。なんだったら僕が車で送りましょう。いつですか?」
「そんな、とんでもない。お気持ちはありがたいですが、ご迷惑はかけられません」
わたしは顔の前で手を振った。関係ない人間を巻き込むわけにはいかない。
「気にすることないですよ。あの辺は昔から結構、縄張りにしてたんです。インペリアル病院にも何度も行ってますし、庭みたいなもんです」
「そうですか……じゃあ、片道だけお願いします」
行けばなにがしかのトラブルに巻き込まれる可能性がある。近くまで送ってもらったとしても、待たせるわけにはいかない。
「いえ、帰りもちゃんと送りますよ。用事が終わったら電話をくれれば、迎えに行きます。あの辺は知りあいも多いし、時間つぶしには困らないんです」
どうやら佑はあくまで、行き帰りの両方を考えているらしい。だが、とわたしは思った。
帰りには、私は死体になっているかもしれないのだ。
バイロンが何者なのかは知らないが、ヴィクター以上に凶暴な相手であればよくて相打ち、場合によっては手も足も出ないまま、あっさりと葬られてしまう可能性だってある。
「じゃあ、行く日と出発の時間が決まったら教えてください。迎えに行きます」
佑はそう言うと笑みを浮かべた。わたしは心苦しさを覚えつつ、頭を下げた。
嘘をついてごめんなさい。この戦いが終わって生きていたら、全てをお話しします。
〈第二十五話に続く〉
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