第23話「瑞夏」(2)のがれ得ぬ宿命


「またお会いできて光栄です。……あの時はお世話になりました」


「杏子さんを操って私を呼び寄せたのね?卑怯だわ」


「いかにもその通り。今度は、あの時のようにはいきませんよ」


 ヴィクターは、私の方へ向けて右手をゆっくりとつき出した。手には鞭らしき物が握られていた。今度こそ、わたしの息の根を止めるつもりなのだろう。


「ディオダディを爆破したのは、あなたなの?」


 わたしが問いを放つと、ヴィクターは面食らったような表情になった。


「そうですね……私かもしれません。しかし、指示を出したのは私ではありませんよ。バイロン様です」


「バイロン?……バイロンって、一体誰?」


 初めて聞く名だった。戦闘中だというのに、わたしは膨れ上がる疑問を抑えることができなかった。


「それを知ってどうするというんです。これからあなたは死ぬというのに」


 ヴィクターは問いには応えず、せせら笑った。落ち着け、とわたしは自分に言い聞かせた。挑発に乗ってしまったら、相手の思うつぼだ。


「さあ、どこへでもお好きなところにお逃げなさい。……もっとも場所の都合上、広さには限りがありますがね」


 ヴィクターはそう言うと、愉快そうに喉をくっくっと鳴らした。わたしは杏子の身体をそっと床に横たえると、ヴィクターに向かって身がまえた。


 あの鞭は、どのくらいまで届くのだろうか。背を向けたら即座にアウトだろう。常に視野にヴィクターの姿を収めつつ、円を描くように逃げ続けるしかない。


 ……でも、その先は?反撃せずにいれば、いずれは捕まってなぶり殺しにされてしまうのだ。


「どの方向に逃げるか、決まりましたか?」


 ヴィクターは楽しげに言うと、手首を小刻みに振った。ひゅんひゅんと空気の鳴る音がして、ヴィクターの前を鞭の残像が行き交った。


 わたしは強い焦燥を覚えた。悔しいがヴィクターの言う通り、この狭い空間で鞭の攻撃から逃げられるとは思えない。

 つまり、逃げるという選択肢はないということだ。


「ではそろそろ、行きますよ」


 鞭の動きがさらに早まり、ぴしぴしとコンクリートを叩く音が聞こえた。


 逃げられないなら――戦うまでだ。


 覚悟を決めた瞬間、身体の奥深いところで何かが爆発した。全身の組織が細胞単位で伸び縮みする感覚があり、大腿の筋肉がうねりながら膨れ上がった。同時に、最初は残像しか見えなかった鞭の動きが、徐々に見えるようになり始めた。


「動かないなら、そこで死ぬがいい!」


 ヴィクターが腕をしならせた。わたしは鞭が繰り出されるタイミングで後ろに跳んだ。


「ちっ!」 


 鞭がわたしの身体の前で空を切った。ヴィクターは舌を鳴らすと、前傾姿勢で突っ込んできた。わたしは膝を曲げて力をためると、前に向かって大きく跳躍した。


「なにっ?」


 わたしはヴィクターの頭上を飛び越え、身体を捻りながら背後に降り立った。同時に毛髪が凄まじい勢いで伸び、ヴィクターに襲いかかった。


「ぐあっ!」


 振り向いたヴィクターの首にわたしの髪が生き物のように絡みついた。わたしは髪の一部をつかむと、勢いよく手前に引いた。

 うっというくぐもった叫びとともに、バランスを崩したヴィクターがコンクリートの上に倒れこむのが見えた。


 わたしは絡みついた髪を引きはがそうともがいているヴィクターに歩み寄り、馬乗りになった。同時に右手の爪が尖りながら伸び始め、みるみるうちに十センチ以上の長さになった。わたしは爪の先を、ためらうことなくヴィクターの首筋に押し当てた。


「勝負あったようね」


 わたしは心の中で「殺さなければ殺される」と、自分に言い聞かせた。


「それで勝ったつもりか……ばかめ」


 食いしばった歯の隙間から、ヴィクターが地を這うような声音で言った。次の瞬間、ヴィクターの左腕がぶるりと震え、五本の指がうねりながらわたしに襲いかかった。ヴィクターの指はわたしの手首に触手のように絡みつくと、みしみしと凄まじい力で締め上げた。


「身体を変化させられるのは、自分だけだと思ってたんですか?」


 ヴィクターはわたしの手首を拘束したまま、勢いよく腕を振った。わたしの身体はいともたやすく宙に浮き、コンクリートの上に叩きつけられた。


「さあ、後はどんな武器があります?私を倒せる奥の手がまだありますか?」


 ヴィクターの指はわたしを開放すると、するすると手元に戻った。わたしはどうにか立ち上がると、ヴィクターと向き合った。すでにヴィクターは鞭を拾いあげており、不敵な笑みを浮かべていた。


「いい加減であきらめたらどうです。どうせあなたはもう人間ではないのでしょう?」


「そうよ。わたしは人間じゃない。わたしは念造人間、メアリーシェリー!」


 わたしはヴィクターを睨み付けた。いいだろう、殺すがいい。だが、わたしもただでは死なない。もう一人の化け物も道連れにしてやる。


 わたしは体勢を低くすると、ヴィクターの懐めがけて飛び込んだ。


「愚かな!」


 視界からヴィクターが消え、鞭がしなる音がした。わたしはその場で向きを変えると、でたらめな方向に跳んだ。身構えようとした瞬間、ヴィクターの鞭がわたしの左足を捉えた。そのまま強く前に引っ張られ、わたしはあっさりと床に転がされた。


「くくく……いいざまだ」


 ヴィクターは手すりの所まで後ずさると、鞭と一緒にわたしを引き寄せた。背中をコンクリートに強く擦りつけられ、わたしは悲鳴を上げた。ヴィクターは左手の指をわたしの首に巻き付けると、そのまま自分の頭上まで引っ張り上げた。


「信じられんな……本当にこの娘がテスラ兄弟を倒したのか?」


 ヴィクターの左腕がぐんと伸び、わたしの身体は手すりの向こう側で宙づりになった。


 わたしの足の下には何もなかった。ヴィクターが手を離せば、わたしははるか下の地面に真っ逆さまだ。高さはテスラの時の比ではなく、落ちれば間違いなく即死だろう。


「いい格好だ、お嬢さん」


 ヴィクターはわたしの顔を自分と同じ高さに下げると、サングラスを外した。吊り上がった目の中で、黄色く濁った瞳が獰猛な光を放った。


「このまま手を離してもいいのですが……この前の借りをまだ返してませんのでね」


 ヴィクターはそう言うと右手でわたしの顎を鷲掴みにした。左手の指が首からするりと外れ、今度は右の手首に絡みついた。

 ヴィクターはわたしの顎を支えている手をゆっくりと下げてゆき、手すりと同じ高さになったところでいきなり離した。


「ああっ!」


 右の肩に激痛が走った。つかまれた右手一本でわたしはぶら下げられていた。


「……こういう物があると、物騒でいけませんね」


 ヴィクターは舌なめずりをすると、鋭く尖ったわたしの爪を掴み、ねじ切るように力任せにむしりとった。


「うわああっ!」


 指先で激痛が爆発し、喉の奥から絶叫が迸った。目の前に火花が散り、右手の指全てが激しく脈打った。剥がれた爪の跡から鮮血が溢れだし、手首を伝った。


「やめて……やめて……」


 わたしはやっとのことでそれだけを口にした。こんな目に遭わせるくらいなら、いっそその手を離してほしい。


「ああ、痛ましいですねえ。……さて、そろそろ手が疲れました。そろそろ離したいのですが、よろしいでしょうか?」


 ヴィクターがそう語りかけた瞬間、右手の内側で、何かがうごめくような感覚があった。


 無駄だわ、もう爪なんかない、とわたしは思った。わたしの数少ない武器は、ビルの谷間でゴミになってしまった。


「テスラの痛みがもうすぐ味わえます。せいぜい地獄で化け物楽団でもおやりなさい。……では、ごきげんよう」


 ――もうだめだ、おしまいだ!


 諦めて目を閉じた、その時だった。右手の中でうごめいていた何かが、爆発的に膨れ上がった。次の瞬間、指先の肉が裂け、凄まじい衝撃とともに何かが勢いよく飛び出した。


「ぐああああっ!」


 ヴィクターの絶叫が空にこだました。目を開けると、そこには恐ろしい光景があった。


 わたしの指先から、皮膚を突き破って四本の骨が槍のように飛び出していたのだった。


 指の骨はまっすぐ上に向かって伸び、ヴィクターの首をあやまたずに射貫いていた。


「こ……の……化け物……め」


 ヴィクターはそう呻くと、ごぼっと喉を鳴らして大量の血を吐いた。両目が見開かれ、わたしの右手をつかんでいた指が緩んだ。


 わたしは激痛に堪えながら、血まみれの右手を手すりの支柱に巻き付けた。そして左手で右腕をつかみ、壁の細い溝につま先をかけた。


 ヴィクターの身体が大きく前に傾ぎ、手すりを乗り越えた。わたしは固く目を閉じた。

 次の瞬間、ヴィクターの身体はわたしの横をすり抜け、ビルの真下へ落下していった。


 どすん、という鈍い音が聞こえ、わたしはぎゅっと目を閉じた。わたしは苦痛に喘ぎながら、左手と足の力だけでどうにか手すりを乗り越えた。


 屋上に戻った私はコンクリートの上にひっくり返ると手足を伸ばし、荒い息を吐いた。


              〈第二十四話に続く〉

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