第19話「姫那」(3)怪人と小さな猫


 書店の休憩ベンチに腰を下ろし、わたしは五道院玄人にメールを打った。


『ちょっと相談に乗ってもらいたいのですが、お暇な日時を教えていただけませんか』


 玄人にメールをするのは初めてだった。


 不思議なことがあるたびに研究室を訪ねたり、食堂で待ち伏せるというのはさすがに気が引けた。向こうが暇なときによく行く場所があれば、出向いていこうという算段だった。


 しばらくすると、着信表示が現れた。画面を見ると、二文字だけ表示されていた。


『今だ』


 なんだこれは。まるで意味がわからない。今ならいいという事か。


『今って、今、都合がいいんですか?どこに行ったらいいんですか?』


 返信を送ると、間髪を入れずに答えが返ってきた。


『今、都合がいいわけじゃない。今以外の時間帯はもっと都合が悪いのだ。だから消去法で、今だ』


 例によって回りくどい表現だった。わたしはそれ以上、突っ込むことをせずに『どこへ行ったらいいんですか』と聞いた。


『F区の『アナ』というカフェにいる。番地を書き送るから、ナビで見つけて来るように』


 どうやら今、玄人は研究室にはおらず、出先からのようだった。F区と言えば、陽苗がレギュラーを持っているミニFM局のある地域だ。わたしはニコラとの戦いを思い出し、暗い気分になった。


『お仕事中じゃないんですか』


 一応、気を遣った問いを投げかけると、しばらくして突然、電話の着信音が鳴り響いた。


「大事な仕事中だよ。あまりに忙しくて君の手も借りたいほどだ。すぐ来てくれたまえ」


「わたしは聞きたいことがあって行くんです。……そもそも私に手伝える仕事なんてあるんですか」


 わたしはいくぶん、むっとしながら言った。やはりそう簡単に慣れられるものではない。


「あるとも。意見を述べてくれればいい。怪奇現象は君の得意分野だろう」


「怪奇現象?」


「ああ。このあたりで数日前に怪異を目撃した人がいてね。なんでも人間くらいの大きさの、犬に似た生き物が走り回っていたというんだ。人によっては服を着ていたとか、言葉のような物を喋っていたとか言う人もいる。これが怪異でなくてなんだろう」


 わたしは背筋が冷えるのを覚えた。あの一件を目撃していた人がいるのだ。わたしの姿も見られたのだろうか。だとしたら、わたしも怪物と思われたかもしれない。


「あの……五道院先生の研究って、そういう事を調べるんですか?」


「馬鹿な。僕の専門は電気生理学だ。怪異の調査は趣味だ。趣味ほど重要な仕事はない」


「五道院さんは、本当にそんな怪物がいるとお思いですか」


「ふふふ。いたらどんなに面白いだろうと思うがね。怪異とは大抵の場合、なんてことない現象が人の想像を経て物語となったものだ。僕はどんな現象が、どんな経緯を経て怪異となったのか、その道筋に興味があるのだ。服を着た獣?そいつはどこからやって来て、どこへ消えた?……考えるだけで楽しくなってくるじゃないか」


 わたしは拍子抜けするとともに、少しだけ安堵を覚えた。それなら、よくある研究といっていい。もしここで「それは目撃した人が語ったそのまんまです。人間の大きさの犬がいたんです」と言ったらどんな感想が返ってくるだろうか。


「……で、来るのかい、来ないのかい?」


「行きます。三十分以内に行きます」


「よろしい。では待っているとしよう」


 わたしは電話を切り、太い息を吐き出した。いくら五道院でも、わたしが遭遇した怪異を解き明かすことはできないだろう。もちろんわたしも、そんな期待はしていなかった。


                ※


「ふむ、面白い。なかなかいいじゃないか、今度の『謎』は」


 わたしの話を聞き終えるなり、玄人はそう感想を述べた。

 窓を大きく取った道路側の席は、午後の日差しが溢れていた。


「それで君は何が知りたい?」


 玄人はハニーティーを口に運びながら言った。『アナ』はハチミツを使ったメニューが売りのようだった。


「全部です……と言いたいところですけど、とりあえず『ほこら』の中から人が消えたという謎を知りたいです」


「ふむ、三十分もあったら、ここまでの移動中に解けるかなと思ったが、駄目だったか」


 相変わらず、人の神経を逆なでする物言いだ。自信に裏打ちされているというよりは、単に無神経なだけなのではないか。


「五道院さんは、全部わかっているんですか」


「わかるとも!謎の獣に比べたら、五歳児向けのなぞなぞ絵本くらいの難易度だよ。……ああ、あそこにいる奴も一種の『獣』だな」


 玄人はそう言うと、カウンターに近い、作りつけの棚を目で示した。

 

 ―― 獣?


 そんなのどこにいるのと問いかけて、わたしは、はっとした。


 二十センチ四方ほどの四角い窪みの中に、時計やクラシックカーなどの小物に混じって一匹の白い猫がすっぽり収まっていた。


「あれ……置物じゃなかったんだ」


 わたしが声を上げると、それに応えるかのように猫が欠伸をした。


「あの連中は、狭い隙間を喜ぶからね。連中の体の柔らかさは見た目じゃ測れないよ。なにせ、自分の身体より小さいんじゃないかっていうスペースに、いつの間にか入りこんでいるんだからね。犬ではこうはいかない。――ああ、この間の怪異も、巨大な犬じゃなくて、白い猫だったらなあ!」


 玄人はわけのわからないことを言うと、ハニーティーを啜った。


「それで、謎の方はどうなったんですか」


「今、説明しただろう。その女の子はきっと、猫だったんだよ。以上」


 例によって突き放した物の言い方に、わたしは無性に苛立つのを覚えた。だが、玄人がヒント以上の物を決して与えようとしないことは、すでに充分すぎるほど学習していた。


「じゃあ、校庭に瞬間移動したトリックは?」


「そんな物は簡単だ。人間が建物の壁を突き抜けられるはずがないだろう。彼らは幻覚を見たんだよ!」


「幻ですって?」


「そうだ、二人のうち一人が「あそこに○○さんがいる!」と叫んだとしよう。背格好さえ似ていれば、もう一人はその人物を○○さんだと思うに違いない。校庭にいたのはいわば、消えた人間の形を借りた生き霊ってところだな」


 また生き霊か。とうてい科学者の口にする言葉とは思えない。わたしはげんなりした。


「お水のお代わりはいかがですか?」


 エプロンをつけた長身の男性が、サーバーを手に近づいてきた。口ひげを蓄えた風貌は、カフェの洒落た雰囲気によく合っていた。


「あ、どうもすみません。……素敵なお店ですね」


「ありがとうございます。月に二度ほど、私と妹とでライブ演奏も行っておりますので、よかったらいらしてください」


「妹さんと、ですか。いいなあ。ぜひ、伺わせてください」


「ポップスや外国民謡なんかを主にやってまして、僕がギターで、妹がヴォーカルです」


 そう言うと男性はカウンターの方にちらと目線をくれた。カウンターの内側では口ひげの男性によく似た可愛らしい女性が、かいがいしく立ち働いていた。


「以前、二人で『ハニーウィスパー』っていうユニットを作って、近くのミニFM局でレギュラー番組をやったりしてたんです」


 男性は照れながら、どこか嬉しそうに言った。


「よく似てらっしゃるし、絵になるユニットなんだろうなあ。うらやましいな」


「双子なもので、どうしようもないんです。あんまり似過ぎてるんで、僕はひげを生やし始めたんです」


 男性は照れくさそうに言った。双子ではないが、姫那と凛那の共演も、見てみたかったとわたしは思った。


「さて、これで大体の謎は解けただろう。そろそろ僕はお暇するが、君はどうする?」


「わたしは……猫と『ほこら』事件の関係が理解できるまで、もう少し粘ってみます」


「そうか。また怪事件に巻き込まれたら、いつでも報告してくれたまえ。それじゃ」


 あっさりと話を打ち切ると、玄人は席を立った。小さなショルダーバッグをひとつ下げ、ひょこひょこ歩いてゆく玄人の背を見ながら、ふとわたしは奇妙な感覚にとらわれた。


 以前、こんなふうに大きな背を見送ったことがある。行かないで、そう願ったような記憶がある。……あれは、いつだったろう。見ていたのは一体、誰の背中だったのだろう。


              〈第二十話に続く〉

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