第16話「明日香」最終回 戻れない夜


 初めて訪れる街の風景は、迷路のようだった。


 地下鉄の出口を一歩出ただけで方向がわからなくなり、わたしは足を止めた。


 目の前には交差点があり、近くのコンビニには番地表示もあるのだが、方向音痴のわたしには、そうしたガイドがまるで役に立たない。わたしは携帯を取り出し、表示されている地図を見た。


住所さえ入力すれば、目的地周辺の地図が表示されるのだが、そもそもその地図が、ちゃんと読めないのだった。


 わたしは携帯を縦にしたり横にしたりしてみた。ボディを回転させると、表示されている地図も一緒にぐるぐると回り、おかげでわたしは歩いては立ち止まりを繰り返さねばならなかった。


「ええい、なんて落ち着きのない地図なんだ。いいかげんで止まれ!」


 気がつくとわたしは、目印になるものが全くない住宅地の一角に迷い込んでいた。


 これからわたしは、陽苗がパーソナリティーをつとめているミニFM局の番組に、一言コメンテーターとして出演する予定だった。……が、肝心のミニFM局が住宅地の中にある上に、このあたりの地形はどこも似ているのだった。


「さて……ここはどこだ?」


 どの方向にも動けなくなったわたしは、その場でぐるぐると回った。完全に迷子だった。


「くそっ、同じような地形なんだから、もうここでもいいじゃんか」


 わたしは携帯に毒づいた。目的地はおそらく道一本へだてた裏、くらいの近さだ。なのにわたしにはたどり着けないのだった。わたしは画面上の目的地マークを、宝のありかでも見るような気持ちで睨み付けた。


 ――くくく……


 わたしの画面をなぞる指が止まった。

 なんだ?今の声は。

 背筋を、冷たい感触が這い上った。


 ――お困りのようですね。迷子のお嬢さん。


 わたしだ。わたしに話しかけているんだ!

 闇の奥から投げかけられた、くぐもった男性の声。わたしは見えざる悪意の存在に、思わず身構えた。


 ――姿が見えないのが不安ですか?それでは、お近くに参りましょう。


 声はささやくように言った。声が近づいているのに、足音が一向に聞こえなかった。


 ヴィクターだろうか?いや、それとも電車で見かけたあの二人組?


 コン。


 靴がマンホールの縁を踏む小さな音が聞こえた。音のしたほうに目を遣ると、街路灯の作る光の輪の中に、黒いつま先が見えた。


「こんばんは。ミス瑞夏」


 暗闇になれ始めたわたしの目に、細身のシルエットが飛び込んできた。


 黒い帽子にサングラス、ヴィクター同様に黒づくめの男性が目の前に立っていた。どうやら、電車でこちらを見ていた二人組の片割れらしかった。


「あなたは誰?ヴィクターの仲間?」


「察しがいいですね。……では、私の目的もおわかりでしょう」


「わたしを殺しに来たのね」


「まあ、答えを急ぐことはありません。……おそらく結果的にはそうなるでしょうが」


 不気味な言葉を口にすると、細身の男性はいきなり上着を脱ぎ始めた。


「……殺されるもんですか」


「そうですね。そのくらい元気が良い方が私も心苦しくなくてすみます。……では、まいりますよ。私の名はニコラ」


 ニコラと名乗った男はやおら身をかがめると、その場で四つん這いになった。


「はしたない格好で申し訳ない。……この方がスピードが出ますので」


 四つん這いになった途端、ニコラの体つきが変化を始めた。肩と臀部の筋肉がみるみる盛り上がり、背骨がアーチ型に湾曲した。


「さあ、どこへでもお逃げなさい。……私に喉笛を噛み切られないうちにね」


 ニコラの声にはぐるる、という唸り声が混じっていた。鼻先が前につき出し、サングラスが落ちた。わたしはじりじりと後ずさった。もはやニコラはスーツをまとった獣だった。


 ――どうする?何か武器になるものは?


 ニコラの凶悪な眼差しを受け止めながら、わたしは周囲をうかがった。視界の隅に角材のような棒きれがあった。


「行くぞっ」


 ニコラがうおっと吠え、わたしに向かって飛んだ。同時に、わたしは斜め後方に跳んでいた。以前のわたしでは考えられない動きだった。ヴィクターとの一戦以来、わたしはこうした無意識の動作が可能になっていた。


 わたしは顔を前に向けたまま棒切れを拾うと、相手を威嚇するようにつき出した。次の瞬間、棒を持つ手が凄まじい力で後方に持っていかれ、わたしはバランスを崩した。


「えっ?」


 大きくよろけたわたしは、慌てて体勢を立て直すと手の中を見た。すでに棒切れはなかった。闇の中に獣の臭いが立ち込め、いまいましげな唸り声が響き渡った。


 思わず身構えたわたしの目の前に、二つの黄色い目が現れた。続いて現れた獣の口元には、先ほどの棒きれがくわえられていた。


 だめだ。あんなに速かったら反撃のしようもない。


 ――さあ、なんでもこころみるがいい。私も遠慮しなくて済むというものだ。


 かろうじて人の名残を残すニコラの声が、闇の奥から投げかけられた。

 どうする?私は咄嗟にポケットをまさぐった。指先に、固く小さな物体の感触があった。


 ――行くぞ、小娘!


 闇の中で獣が体をしならせる気配があった。わたしはポケットの手を抜くと、後ろにそらせてから思いきり振った。


「ぎゃあっ」


 人の呻きに混じってキャインという声が聞こえ、ニコラが目の前でもんどりうった。


 わたしが放ったのは、ギターのピックだった。三つの角のうち、尖らせてある部分がうまく目にあたったらしい。


「こざかしい真似をっ」


 ニコラが体勢を立て直す数秒の間を利用して、わたしは距離を取った。


「必ず、その喉を噛み切ってやる」


 ニコラがぐおっと吠え、跳んだ。わたしは身をかがめ、突撃を避けようとした。が、次の瞬間、わたしはすさまじい勢いで地面に叩きつけられていた。悲鳴を上げる間もなく両肩を地面に押し付けられ、わたしの動きは完全に封じられた。 


「勝負あったな」


 わたしを組み伏せたニコラは、犬歯の間からあぶく交じりの涎を流した。


 ――ここまでか。


 そう思った時、わたしは体に変化が起きつつあることに気づいた。わたしは肩を押さえつけているニコラの前足を、指先でつかんだ。ヴィクターの時と同じく、体の中から何かが迸るのがわかった。


「ぎゃあああっ」


 黒い塊が悲鳴を上げて飛び退った。わたしは身を起こし、立ち上がった。長く伸びた爪はアイスピックのように尖り、血に塗れていた。


 変化は脚にも生じていた。ふくらはぎと大腿の筋肉が盛り上がり、力がみなぎっていた。今なら、獣の追撃も振り切れるかもしれない。


 わたしは怒りに燃える獣に背を向けると、闇の中を駆け出した。わたしの両脚はサバンナの草食獣のように暗い街路を猛スピードで駆け抜けた。捕食されるもの特有の、バネの効いた飛ぶような走り。わたしは、追われる獣だった。


 わたしも、もう人間じゃない。


 そう思った時だった。突然、目の前にトラックが現れ、わたしの行く手を阻んだ。


 助かった?一瞬、期待した私の前に、小柄な人影が立ちはだかった。黒づくめのその人物は、二人組の片割れだった。


「よく頑張りましたね。終点です」


 そう声が響くや否や、わたしはすさまじい衝撃に見舞われた。気が付くとわたしは地面に転がされていた。強い痺れが全身を支配し、身じろぎすらままならなかった。


 電撃だ。そう気づいたわたしに、頭上から声が飛んできた。


「さて、わたしの役割はここまでです。あとの始末は、兄者に任せるとしましょう」


 押し殺した声に続いて聞こえてきたのは、憎々しげな獣の唸り声だった。


 ――テスラ、よくやったぞ。


「どういたしまして、兄上」


 ――さて、結構な逃げ足だったが、それもここまでだ。てこずらせてくれた礼に、ひと噛みであの世へ送ってやる。


 わたしの視界に、ニコラの大きく開けた口が現れた。長い舌が垂れ下がり、生臭い息が顔にかかった。


 ――きさまの頸動脈の位置がわたしにはよくわかるぞ、観念するんだな。


 二コラの舌先から、唾液が糸を引いて滴り落ちた。諦めて目を閉じようとした時、わたしはまたしても肉体の変化に気づいた。


 わたしの膝頭は、本来の丸い形からナイフのように鋭く尖った形へと変化していた。骨がみしみしと音を立てて皮膚ごと伸び、みるみるうちにわたしの膝は、船の舳先のようにつき出していた。


 ――死ね!


 咆哮とともに牙がわたしに襲いかかった。わたしは右膝にすべての力を集めた。


「ぎゃあああああっ!」


 闇を切り裂くような凄まじい悲鳴があたりに響き渡った。槍のように突き出た膝の一部が、ニコラの柔らかな腹部を射抜いたのだ。


 わたしは自分の膝が二コラの脂肪と筋繊維をずたずたに切り裂き、腹膜にまで達していることを確信した。ニコラの腹部から生暖かい体液がどろりとあふれ出し、わたしの脚をべっとりと濡らした。


 わたしはずっしりとのしかかったニコラの身体を、渾身の力を込めて引きはがした。立ち上がったわたしは、足元で断末魔の痙攣を繰り返している獣を見遣った。やがて、ニコラの目からふっと光が失われ、物言わぬ骸と化した。


 ――わたし、人を殺したんだ。


 なりゆきとはいえ、わたしは自分の行為におののいた。


「きさま……よくも兄者を」


 振り返ると、テスラと呼ばれた片割れが、憤怒に燃える目でわたしを見ていた。


「殺してやる……じっくりといたぶってな」


 テスラが手にしている棒の先端で、青白い火花がパチパチと音を立てていた。わたしは、絶望で目の前が暗くなるのを覚えた。


 まだ、戦わなくてはいけないのか!


 わたしは身構えるのをやめ、両手をだらりと下げた。殺すなら、殺せばいい。戦意を失ったわたしなど、たやすく殺せるだろう。わたしは青白い火花をぼんやりと見つめた。


「瑞夏ちゃん!」


 不意に背後から声が飛んできた。振り返ると陽苗が自転車から降りるところだった。


「どうしたの、一体?」


 わたしは思わず陽苗の方に駆け出した。考える気力をなくしたわたしは、敵に背を見せることなど少しもいとわなくなっていた。


「大丈……うっ、なに、この臭い!血?」


 わたしを抱き留めた陽苗は驚きと恐怖に顔をゆがめた。


「ごめん……なんでもないの」


「だって、こんなに服も破れて……」


 動揺する陽苗を前に、わたしは徐々に冷静さを取り戻していった。いけない、このままでは二人ともあいつの餌食になってしまう。わたしは背後をふりかえり、あっと叫んだ。


 ニコラが倒れていた場所には、誰もいなかった。暗いアスファルトの上に、ただ血の痕跡だけが点々と続いていた。


 わたしは闇の奥へ視線を向けた。と、遠くの方で不意にバサバサという音が聞こえ、大きな鳥に似た生き物が、同じくらいの大きさの物体を抱えて飛び立つのが見えた。


「なに、あれ……カラス?……違うわよね」陽苗が怯えきった声音で言った。


「あ……それどころじゃないわ。とにかく、お医者さんとか、警察を呼ばなきゃ」


 わたしは呼吸を整えると、陽苗に向かってかぶりを振った。


「ごめんなさい、今は誰にも会いたくないの。わたしは大丈夫だから、帰りましょう」


「そんな……本当に、大丈夫なの?」


「うん、大丈夫。野良犬の群れに囲まれただけ。危ないところだったわ。ありがとう」


「野良犬……じゃあ、あれって、犬の血?」


 陽苗は怯えきっていた。わたしはそれ以上、答えることができず、無言でやり過ごした。


 ニコラの骸は、弟のテスラが人目につかぬよう、運び去ったのに違いない。


 おそらくこのままではすむまい、とわたしは思った。陽苗を促し、帰途に着きながらわたしは、今夜の出来事を生涯忘れないだろうと思った。


 はじめて、人を殺した夜の事を。


       〈第二話「明日香」最終回 了 第三話に続く〉

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