第14話「明日香」(4)学食の魔術師


「えっ、わざわざ待っていてくれたんですか。すみません」


 荻倉理桜は、剥きたての卵を思わせるすっきりした顔でわたしに詫びた。


「いえ、おかげでわたしも初めて脚のマッサージを体験できました」


 わたしたちはどちらからともなく「うふふ」と笑みを交わしあった。こんなふうに誰かと意味なく笑いあうのは、久しぶりだった。


「どこか、その辺のカフェにでも入りましょうか。ベルギーワッフルの美味しいお店があるんです」


 理桜の提案で、わたしたちは連れ立って書店に隣接したカフェに移動した。


「ここのメイプルシロップ、とっても香りがいいんです」


 理桜はうきうきした口調で言った。マッサージルームでメイクをやり直したせいか、ショップで応対していた時よりも二、三歳幼い表情だ。そのことを告げると「あれは戦闘用メイクだから」と少し照れた表情になった。


「あ、そうだ。この前は話が途中だったんですよね。ほら、明日香さんの、不思議な話」


 わたしは頷いた。不思議と言えば、先ほどのマッサージルームでの体験も、かなり不思議ではあったが。


「あれは……たしか、半年ほど前でした。M区のG美術館で、『漫画ミュージアム』っていうイベントが催されたんです」


 脳裏に大きな新聞広告がよみがえった。たしか地元在住、もしくはゆかりの漫画家やイラストレーターの作品を集めて大規模な展示をする、そう言う告知だった。


「売れっ子漫画家の生原稿がじかに見られるってことで、私の知り合いも二回くらい、見に行ってたみたい。明日香さんはご両親が漫画家だから、寄せ書きの手伝いに行くんだって言ってました」


「寄せ書き?」


「ロビーの特大パネルに、実際にいらっしゃった漫画家の先生たちが、ご自分のキャラクターを描くんです。一発描きだから、あらかじめお互いの描くスペースを打ち合わせておくらしいです」


「そこに、駆り出されたわけね」


「ええ。でもその日はたまたま、お店の先輩店員さんの送別会だったんです。たまたまだったんですけど、明日香さんも一応、参加希望だったんです。彼女、その店員さんに入りたての頃、随分とかわいがってもらってたんです。だから、何とかして間に合うように行きたいって言っていました」


「つまり、美術館の仕事が時間的に押してしまったんですね」


「そうなんです。寄せ書きも作業が思いのほか、手間取ってしまったらしくて、作業が完了したのが、送別会の三十分前だったんです。

 G美術館は山の中にあって、お店のある街中まで戻ってくるには、国道を車で三十分以上、走らないといけないんです。それなのにその日はたまたま、工事があって国道が渋滞していたんです。

 正直、街中まで戻ってくるには一時間以上、かかる状態だったと思います」


「それじゃあ、ほとんど参加は無理ですね」


「彼女からは寄せ書きの制作中に「今、三割くらいでーす」という感じの、寄せ書きの一部を映した動画が時々、送られてきてました。

 最後は、完成した寄せ書きを離れたところから映した映像とともに「今、出ます」というコメントがとどきました。わたしはネットの道路情報で国道が渋滞していることを知っていたので「間に合わないかもしれないな」と思っていました。


 ……ところが、それからきっかり三十分後に彼女がお店に姿をあらわしたんです。びっくりして「いったい、どうやって来たの?」と聞いたら「走ってきたんだ、実は」と、おどけた口調で言うんです。そして「魔法の靴下を履いてたから、車より早かったんだ」とも言いました」


「確かに不思議なお話ですね。でも、さすがに魔法の靴下は、あり得ないと思いますけど」


「ええ、ですから私は驚きながら『いったい、どんな手品を使ったんだろう?』って思ってました。結局、その種明かしはしてもらえないまま、あの事故が起きてしまったんです」


 最後の方は、心なしか寂しげな口調になっていた。わたしは魔法の靴下が本当にあったら素敵だろうなと思いつつ、頭のどこかで『必ず何か仕掛けがあるはず』と思っていた。


                 ※


「あのう……もう少ししたら混み合う時間帯になるので、もしかしたらカウンター席に移動をお願いするかもしれないのですが……よろしいですか?」


『陽だまりキッチン』の店員は壁の時計に視線をやると、申し訳なさそうな表情を作った。


「あ、じゃあ、今、移動します。すみません、一人でテーブル占領しちゃって」


「いえ、いいんです。今は空いているので。……ただ、うちは学生さんが多くて、お昼は凄い混みようなんです。それで……」


「そうですよね。気が付きませんでした。……やっぱり今、移ります」


 わたしは席を立つと、恐縮している店員を尻目にさっと奥のカウンター席に陣取った。


 よく考えてみたらここは大学の真ん前なのだ。混みあわないほうがおかしい。それに、わたしは人を探しに来たのであって、目的の人物を待つだけなら、カウンターであろうとなんであろうと別に構わないのだ。


「ええと……天ぷら豆腐カレーをお願いします」


 あの変人なら、きっとこういう物を頼むに違いない。わたしはちょっとした賭けを楽しむ気分になった。


 正午を過ぎると、店は一気に混みはじめた。入り口には予想通り、学生とおぼしき若者たちが群れをなして押し寄せている。


 来るかな、あの変人。


 わたしはここで五道院玄人が来るのを待つつもりだった。最初は遠くから様子をうかがおうと思っていたので、奥のカウンターはむしろ好都合だったが、十分もすると店内のテーブルまでがびっしりと埋まり、入り口のあたりはほとんど見えなくなった。


 わたしは入り口近くで順番を待っている客に、ちらちらと目線を送った。あの顔が現れれば、いくら混んでいようが一発で見分けがつくに違いない。


「間に合った。間に合ったぞ!ランチタイムの神は我を見放さずだ」


 突然、聞き覚えのある声が耳に突き刺さったかと思うと、順番待ちの人波から岩のような顔面がぬっと覗いた。


「あ、五道院先生。よかったらお先にどうぞ」


 学生らしい男性が、さっと脇によけた。玄人は真剣な表情で大きくかぶりを振った。


「いや、好意はありがたいが、それはいけない。いつもより五分も遅れたのは明らかに僕の失態だ。罰は甘んじて受けなくてはいけない。そう、たとえ『天ぷら豆腐カレー』が売り切れて『納豆ヨーグルトラーメン』しか選べるメニューがなくなったとしてもだ」


 玄人は胸をそらせ、よくわからない方角に向けて高らかに宣言した。わたしは玄人にアイコンタクトを取ろうと、必死で目線を送った。すると、わたしの隣に座っていた年配の女性が突然、入口の方を向いて大声を上げた。


「五道院先生、カウンターでよろしければ今、空けますのでどうぞ」


 玄人は一瞬、虚を突かれたような顔になり、やがて声の主を見つけると「おお」と、目を輝かせた。前にいた四人組が道を開けると、玄人はにこにこしながら歩き出した。


「気を遣っていただいてすみません。櫛引くしびき先生。お食事のほうは終えられたんですか?」


「ええ。午後一で会議があるので、準備をしなくちゃいけないんです」


「では、遠慮なく……んっ?君はなんだか、見たことがあるな」


 いきなり射すくめるような視線を向けられ、わたしは思わず身を固くした。


「こっ、この間は、どうも……」


「そうか、わかったぞ。君は僕のストーカーなんだな。こんなところで待ち伏せしたりして。しかも僕が注文しようとしていた物と同じ品を頼むとはな!僕のことを知りたがるにもほどがあるぞ!」


 何を注文するかなんて、わかるわけないでしょ。そう言いたい一方でわたしは、やはりこの品を頼もうとしていたのか……と、ちょっとだけ愉快にもなっていた。

「あら、先生のクラスの子?それともゼミ生かしら?」


「ふむ、ゼミといえばゼミかな。個人指導の、不思議ゼミだ!」


 玄人は真面目腐った口調で言い放った。同僚らしい櫛引という女性は、慣れているのか笑いもせず「素敵なお弟子さんができましたね、五道院先生」と返した。


「熱心すぎるのが玉に瑕だがね。見たまえ、ランチまで僕と一緒だ!」


 玄人の身振りを交えた熱弁に、櫛引という同僚は苦笑を残して店外に姿を消した。


「さて、今日は何を聞きたいんだね?言っておくが、僕の食事の所要時間はきっかり十五分だ。その時間内で詳しく説明してくれたまえ」


 五道院は早口でまくしたてると、水を運んできた店員に、

「君、この食べかけの品と同じ物を作りたての状態でたのむ」と言った。


 わたしは呆気にとられたが、店員は回りくどい表現にも嫌な顔一つせず「かしこまりました」と頭を下げた。どうやらこの界隈ではこうした言い方への抗体ができているらしい。


「さて、一体、何が不思議なんだね」


 椅子に落ち着くやいなや、玄人は問いを放った。わたしはちゃんとした前置きをあきらめ、いきなり本題を切り出すことにした。


 聖螺の時とは違い、今回は移動時間に関するシンプルな謎だったため、説明はさほど難しくなかった。

 話を聞き終えた玄人は「ふむ」と鼻を鳴らすといきなり「君、『ロッキー』という映画を見たことがあるかい」と、無関係とも思える話題を口にした。


「え?……あ、はい。ボクシングの映画ですよね、たしか。ちゃんと見たことはないですけど……」


「あの映画のクライマックスは、ロッキーが敵にボコボコにされるさまをテンポよく映してゆくんだ。当然、ラウンドが進むにつれてロッキーの顔は無残に歪んでゆく。わかるね?」


「はい……」


 いったい、この人は何を言わんとしているのだろうか。


「ロッキーというのはね、無名だったシルベスター・スタローンが自分を売り込むために作った映画なんだ。だから当然、予算が少ない。例えば特殊メイクにしても、他の大作映画のようにたっぷりと金をかけることはできない」


「そうでしょうね」


「ロッキーがゴングに助けられ、コーナーに戻るたびに顔が腫れあがってゆく。単純に考えると、ダメージの段階に合わせて何種類かの特殊メイクが必要になるわけだが、これをスタローンは一度で済ませることに成功した」


「一度で?どうやって?」


「時間を操ったんだよ。映画という物は必ずしもストーリーの時系列に沿って撮影されるわけじゃない。いきなりクライマックスから撮ったり、最初のシーンを一番、最後に撮ったりする」


「なるほど……あっ、来ましたよ『天ぷら豆腐カレー』」


 目の前に現れた皿に玄人は一瞬、視線を向けたが、すぐに話の続きに戻った。


「よし、急ごう。つまり『ロッキー』の場合、試合が終わったシーンから先に撮ったわけだ。最初にボコボコにされたスタローンの顔を作っておいて、次に少し前のラウンドを撮る。その時にメイクを少しだけ剥がして傷の少ない状態にするわけだ」


「随分と、手の込んだ撮影の仕方をするんですね」


「頭を使った撮影と言ってほしいね。このように、後の状態から徐々に、時間をさかのぼって撮影してゆくと、少しづつ傷を剥がしてゆくだけで済む。つまり一度のメイクで最終ラウンドまでを撮影できるわけだ。逆転の発想だな」


「はあ……」


「さあ、もうこれでわかっただろう。早く食べないと天ぷらが冷めてしまうぞ」


 玄人はそう言うと、猛然とランチに挑み始めた。わたしは映画のたとえ話と明日香の謎とをうまく結び付けられず、ぽかんとしていた。


「どうした、食べないのかい」


「いえ……今のって、ヒントなんですか」


「ヒントに決まってるだろう。いいかい、重要なのはメディアを通した時間は、見た通りとは限らないということだ。操作できるんだよ、時間という物は」


 時間は操作できる、か……


「さ、わかったら君も早く食べたまえ。ランチは出されてから十五分が勝負だぞ」


 玄人は諭すような口調で言うと、その後はきっぱりと口を噤み、目の前の食物にのみ、神経を集中させた。


「ああ、満足した。……さあ、食べ終えたら君もすみやかに席をあけたまえ。ここではそれが暗黙のルールだ」


 そう言うと玄人は席を立った。手にはいつの間にか千円札が握られていた。


「あ……はい」


 わたしは慌てて席を立つと、レジへと向かう玄人の背を追った。


             〈第十五回に続く〉

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