第8話「聖螺」(7)優しく強き眠りよ


 病室に足を踏み入れると、ブーンと言う機械の唸りが耳を覆った。


 父は、いつもと同じように個室のベッドに横たわり、目を閉じている。


 父の鼻や口にはチューブが繋がれ、傍らの機械に二十四時間、見守られている。


 わたしは、決して目を覚まさないだろうと思いながらも、足音を忍ばせて父のベッドに歩み寄った。父の顔は意外に血色がよく、以前よりふっくらして見えた。


 ――お父さん。来たよ。


 わたしは心の中で父に語りかけた。わたしはベッドの傍らに椅子を引き寄せ、座った。


 父が意識不明になって、二か月になる。


 原因は、偶発的な事故による感電だった。友人たちと行ったチャリティ・ライブの最中に、持っていたギターから身体に電流が流れこんだのだった。


 関係者の話によると、アンプ内の異常電流がギターに逆流したのではないか、とのことだった。


 父はステージ上で倒れ、そのまま救急車で病院に搬送された。事故直後、父の心臓は停止していた。蘇生措置が試みられ、幸い、命はとりとめたものの、意識は現在に至るまで戻る兆しはない。


 真面目人間だった父は、唯一の趣味である音楽に自由を奪われたのだった。わたしは立ち上がると、父の体の上に上体を投げだした。看護師が来たら怒られるだろうが、構わないと思った。


 ――お父さん、わたし、行き場がなくなるかもしれない。


 わたしは、父に語りかけた。母があまり父を見舞いに来ないのは、夜遅くまで働いているからだ。……だが、そもそも母がそういう生活になったのはわたしに原因があった。


 きっかけは、弟の中学受験だった。全国模試でトップクラスの成績を取ったことで、母がにわかに受験に目覚めたのだ。


 母は、父がわたしの大学受験のために設けた口座の金を、弟のために使いたいと言いだした。ちょうどそのころわたしは高校を休学しており、そんなわたしのためのお金など、母にしてみれば無意味なものに思えたのだろう。


 だが、父は「あれは瑞夏のための金だ」と突っぱねたのだった。


 やがて父と母はぎくしゃくし始め、その直後に父が事故に遭ったのだった。母は弟の受験費用と父の入院費の両方を稼がねばならなくなり、昼夜を問わず働き詰めになった。


 当然、わたしのバンド活動など応援できるはずもなかった。


 ――お父さん。わたし、人を殺してしまうかもしれない。


 知らず喉から嗚咽が漏れた。わたしはもう人間ではない。わたしは一度、死んだのだ。


 ――でも、仕方ないよね。この身体は、みんながくれた身体だから。わたし、事故現場から一人だけ生き残った時から、みんなのかたきを必ず取るって、決めたんだ。


 わたしは父のシーツを強く握りしめていた。ふと、背中に手の感触を覚え、わたしははっとした。父の手が、わたしの背に乗せられていた。


 ――大丈夫、おまえは信じたとおりに行けばいい。


 父の声が、頭の中に響いた。父がわたしに語りかけているのだと思った。


 ――お前の身体は、多くの人たちからもらった物だ。お前の身体に宿った力は、恩返しのために使うべき力だ。


 ――本当に、それでいいの?わたしは、これから復讐をするんだよ?


 ――よく考えてそうすべきだと思うなら、好きにすればいい。 


 ――わたし、寄せ集めの人造人間みたいだね。ごめんね、こんなことになって。


 ――寄せ集めじゃない。思いが集まってできた、念造人間だ。誇りに思っていい。


  ――念造人間……


 不意に背後でドアをノックする音が聞こえた。はっとして、わたしは顔を上げた。


「あら、瑞夏さん、いらっしゃってたんですか」


 顔なじみの看護師が、ドアから顔を出した。わたしは涙の跡を隠しながら、頭を下げた。


「今日はお父さん、お顔が穏やかね。やっぱり瑞夏さんが来ると、わかるのかしら」


 わたしは椅子を立つと、看護師と入れ替わろうとした。ふと、父の方を振り返ると、父の両手はきちんと布団の下に収まっていた。やはり夢だったのだろうか、と私は思った。


「お父さんと、何かお話しました?」


 看護師の問いに、わたしはきっぱりと頷いた。


「ええ。背中を押してもらいました」


 怪訝そうな看護師に笑いかけると、わたしは病室を出た。


             〈第九回に続く〉

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