第7話「聖螺」(6)街角の魔人たち
カラオケ店のアルバイトを終えたわたしは、帰途についた。実家との折り合いがよくないわたしは、しばらく前から、叔母夫婦の住むマンションに身を寄せていた。
時刻は午後九時を回っており、駅から住宅地に向かって伸びる小路は、奥に行くほど闇が濃いように見えた。人通りはほとんど耐え、わたしは夜の色に染まった住宅地を、自分の靴音を聞きながら進んで行った。
すっかり、遅くなっちゃったな。
わたしは歩調を速めた。手にしたコンビニの袋が揺れ、がさがさと音を立てた。ほどなくわたしの耳は、自分の発する音とは異なる響きを捉えていた。
後ろに、誰かいる?
わたしは、歩調を緩めた。すると、もう一つの足音も全く同じ速さになった。
後をつけてる?
わたしは、思いきって足を止めた。すると、もう一つの足音が消え、代わりに首筋を、ふうっと吐息のような物が撫でた。いいようのない恐怖に襲われ、わたしは振り返った。
「誰?」
振り向いたわたしは、思わず息を呑んだ。わたしのすぐ後ろに、黒のスーツに身を固めた長身の男が立っていた。男はサングラスをかけ、黒い皮手袋をしていた。 住宅地にはあまりにも不似合いなその風体に、わたしは警戒を強めた。
「こんばんは、ミス瑞夏」
黒づくめの男は、地を這うような声音でいきなり私の名を呼んだ。わたしは心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような恐怖を覚えた。
「あなた、誰?」
「私の名はヴィクター。あなたをこの世から消滅させるために参りました」
ヴィクター。聞いたことのない名だ。蝋のような白い肌は、人種さえもよくわからない。しかも言う事が浮世離れしている。この人物はまともではない、そうわたしは思った。
「わたしを消滅させるって……いったい、どういうこと?」
「言葉の通りですよ。ミス・瑞夏」
ヴィクターと名乗る男は、わたしに向かって手袋をはめた右手をつき出した。わたしは本能的に危険を感じ、身構えた。
「逃げてもいいですよ。その方が私も楽しめる」
そういうとヴィクターは喉の奥でくっくっと笑った。わたしは身をひるがえすと、弾かれたように駆け出した。疾走する私の背を、ヴィクターの不気味な言葉が追いかけてきた。
「お逃げなさい、ふふふ」
わたしは叔母夫婦のマンションに駆け込むのをいったん断念した。助けを求めれば、その人まで巻き込んでしまう――そんな得体のしれない危機感があった。
わたしはマンションの立ち並ぶ一角を全力で走り抜けた。はるか先に、車両の行き交う光が見えた。広い通りに出さえすれば、相手もあきらめるのではないか。そんな淡い期待が脳裏をかすめた。
あと少し、あと数区画分、息が続けば。
わたしは喘ぎながら、必死で両足を動かした。心臓が喉から飛び出しそうだった。
豆粒ほどだった光が大きくなり、耳が往来の音を捕え始めた。やった、助かった。そう思った時だった。ふいに右脚の自由が奪われ、わたしは肩から地面に叩きつけられた。
「痛っ……」
わたしはぜいぜいと喉を鳴らしながら、右脚を見た。蛇のように黒く長い物が、わたしのくるぶしのあたりに巻き付いていた。わたしはおそるおそる背後を見た。
巻き付いた物は後方に伸び、ヴィクターの手首のあたり消えていた。鞭だ、とわたしは理解した。
「ほれぼれするような疾走でしたよ、ミス瑞夏。残念ですがゴールならず、ですな」
ヴィクターはそう言うと、唇の両端をぎゅっと釣り上げた。
「いったい、どうしてわたしを狙うの?あなたの事なんか知らないのに」
わたしはヴィクターのサングラスを睨み付けた。消滅が殺害を意味するなら、わたしはあらゆる方法で抵抗を試みなければならない。わたしの命は、みんなのものなのだから。
「そうですね、一言で言うなら、あなたが失敗作の最後の一体だから……でしょうかね」
「失敗作?……どういうこと?」
「わたしの仕事は、この世に生み出された四体の怪物を始末することです。三体は首尾よく消滅させられましたが、残念なことに、三体の部品をつなぎ合わせたフランケンシュタインが生き延びてしまった」
「それが、わたし……?四体の化け物って、なんなの?」
「それは知らないほうがいいでしょう。自分が不出来な怪物と知っただけでも、十分に不幸でしょうから。これ以上、不幸にならないうちに消してあげます」
ヴィクターがそう言うと、わたしの足首に巻き付いていた鞭が、するりと離れた。鞭はあたかも生き物のような動きで後ずさり、ヴィクターの袖口に収まった。
「さて……行きますよ」
ヴィクターは無機的な口調で告げると、右腕をぐっと反らした。わたしは立ち上がり、体勢を低くした。おそらく、鞭を放ってくるのだろう。
どうする?右に飛ぶか、左に飛ぶか。ヴィクターの腕がしなった瞬間、わたしは左にステップしていた。右の頬を何かが低い唸りを上げて掠めた。
「ちっ」
ヴェクターが舌打ちをくれるのが聞こえた。わたしは視線を素早く巡らせた。周囲に武器になりそうな物はなかった。なんとか隙をついて、逃げられないだろうか。わたしは敵の挙動に意識を集中した。
「今度は、逃さん」
再びヴィクターが身構えた。右手の筋肉がしなり、ヴィクターの右手が鞭を振り上げたのを見届けると、私は思い切ってヴィクターのいる方向に飛び込んで行った。
「うっ」
虚をつかれたヴィクターは、反射的に身を引いた。わたしはヴィクターの脇をすり抜けると、そのまま全力で逃げた。
「……逃がすかっ」
わたしは角という角をめちゃくちゃに曲がり、気が付くと目抜き通りまであと少しという所まで辿り着いていた。
助かった、そう思った時、私の両脚を衝撃が見舞った。再び路上に叩きつけられたわたしは、必死で起き上がろうと試みた。が、その努力を嘲笑うかのように、鞭がわたしの喉元に巻き付いた。強い力で喉を締めあげられ、わたしはくぐもった悲鳴を上げた。
「ぐうっ」
ヴィクターの鞭はまるで意思を持った生物のようにわたしの喉を締めあげた。頸動脈が圧迫され、目の前が赤く染まった。わたしは鞭を引きはがそうと両手の指をかけた。だが、肉に深く食い込んだ鞭は、びくともしなかった。
あまりの苦しさに私は両足をばたつかせた。肺が酸素を求めて喘ぎ、舌が口から飛び出した。膨れ上がった頭の中でいくつもの光が爆発し、わたしは死を覚悟した。気が付くと目の前に、ヴィクターの靴があった。
「さて……あまり苦しませてもかわいそうですね。そろそろ、ゲームオーバーにしますか」
ヴィクターは鞭の一端を握ると、強く引いた。首の骨が軋み、目の前が暗くなった。
ああ……もうだめだ。
体中の力が抜け、わたしはゆっくりと目を閉じた。次の瞬間、途切れ行く意識の中で、わたしは奇妙なことに気づいた。
手が……動いてる?
右手がわたしの意思とは無関係に動き、ヴィクターの足首をつかんでいた。
「なんだ?可愛らしく命乞いかな?」
ヴィクターのせせら笑う声が頭上から振ってきた。腕を動かしているのは聖螺だ、とわたしは直感した。でもいったい、何をするつもり……?
わたしが問いかけた直後、右手の指先が、炎であぶられたように熱くなった。続いて指先が膨張する感覚があり、なにかが体の中から勢いよく飛び出した。
「ぎゃああああっ」
絶叫がヴィクターの喉からほとばしった。わたしの首を絞めあげていた力が不意に緩み、わたしは全身の力を振り縛って鞭のいましめから逃れた。
わたしは身を起こすと、激しく息を吸った。全身が大きくあえぎ、目の前に光が戻った。
「ひでえ……こいつ、なんてことしやがるんだ」
見ると、ヴィクターが身をかがめ、苦痛に顔をしかめていた。ヴィクターのスラックスには小さな穴がいくつも開いていた。私は自分の右手を見た。爪の先がまるでドリルのようにらせんを描いて伸び、尖った先端部は鮮血に染まっていた。
「楽には死なせないぞ、小娘。目玉を飛び出させ、のたうち回らせてやる」
ヴィクターは体勢を立て直すと、私の方を見た。スラックスの裾から血がしたたり落ち、靴を汚していた。
「覚悟しろ!」
ヴィクターは再び鞭を振りかざした。駄目だ、今度こそ逃げられない―――そう思った時だった。クラクションの音とともに突然、強烈な光がわたしとヴィクターを包んだ。
「うっ……」
ヴィクターが呻き、鞭の動きが止まった。振り返ると、一台の自動車がこちらにヘッドライトを向けていた。ヴィクターが体勢を立て直そうとした瞬間、再度、クラクションが鳴らされた。
立て続けに鳴らされるクラクションに気圧されたのか、ヴィクターはだらりと腕を下げると、鞭を収めた。
「この次、会った時は必ず殺す。……覚悟しておくんだな」
顔を歪め、憎々しげに言い残すと、ヴィクターはわたしの前から走り去った。
ヴィクターの姿が消えると同時に車のライトも消え、闇が戻った。わたしはふらふらと立ち上がり、あらためて車の方を振り返った。
正直、助かったのかどうか、良くわからなかった。ヴィクターは去ったものの、車内にいる人間が味方とは限らない。身構えていると、車はするすると動き出し、わたしの横で停まった。じっと見ていると運転席のウィンドウが開き、中から男性が顔をのぞかせた。
「大丈夫?」
よく通る声で男性は言った。凄惨な場面を目撃したというのに、その口調はどこかのんびりしていた。
「大丈夫です……あの、助けてくれてありがとうございました」
取りあえず礼を述べると、男性は不思議そうに小首を傾げた。
「助けたことになるのかな、やっぱり。……うーむ」
男性は宙を見据え、間延びした表情で言った。よく見ると、男性は実に個性的な顔をしていた。顔そのものは極めて端正なのだが、その顔が乗っている頭部の骨格が異常にごついのだった。
顔の横幅と額が広く、角ばった顎が前にせりだしている。一言で言うと、採石場から削りだした岩石のような頭部だった。その中心に掘りの深い、彫刻と見紛うような美しいパーツがはまっているのだった。
「まあ、いいか。無事だったから。……家まで送ってあげるから、乗りなさい」
たった今会ったばかりだというのに、男性は至極当然と言った口調で言った。
「いえ、だっ……大丈夫です。近くですから」
「いや、乗りたまえ。危険と距離は関係ない。近かろうが何だろうが、乗るべきだ」
「でも……」
「僕は安全な人間だし、この車も安全だ。安全な人間が安全と言ってるんだから、これほど安全なことはない。わかるかい?」
男性は滑らかな口調で一方的にたたみかけると、わざわざ助手席のドアを開けてみせた。
わけのわからない迫力に押し切られ、気が付くとわたしは助手席におさまっていた。
わたしがドアを閉めるのを確かめると、車はゆっくりと動き出した。
「よしよし、それでいい」と、男性は満足気に頷いた。
「ええと……さっきも言いましたが、危ないところをありがとうございました」
「うんうん。危ないところだったね。……ところで、家はどのへんかな」
車は徐行しながら、住宅地の中をぐるぐる回っていた。わたしは「普通、車を出す前に聞かないか?」と思ったが、助けてもらった手前、おかしなことは言えなかった。
「実は、この近くなんですけど、少し間を置いてから帰りたいんです。まだあいつがその辺にいるかと思うと、怖くて……」
わたしはおずおずと言った。親切な人には違いないが、マンションの前まで来られるのは抵抗があった。靴下を買うとかなんとかごまかして、その辺のコンビニで降ろしてもらおうと思った。
「ふむ、なるほどね。……では、その辺を少し回ってから、戻ってくるとしよう。……ところで、あの黒づくめは、君の知り合いかい」
男性は相変わらず呑気な口調で言った。わたしは口をあんぐりさせた。いったい、どこの世界に鞭を振り回して襲ってくる知り合いがいるというのか。
「知りません。初めてみる人です。ヴィクターとか言ってました」
「なるほど、ヴィクターか。……いったい、どんな漢字をあてるんだろう。僕が知る限り、ヴィクターと言う苗字が多い地域はないが」
わたしは呆気にとられた。いったい、この人はどこまでとぼけてるんだろうか。見たところ、三十代くらいか。しかし、見ようによっては若くも老けても見える風貌だった。
「あの……よければ、お名前を教えていただけませんか」
「僕かい?……そうだな、たしかにまだ名前を言っていなかったな。僕の名は
ごどういん……ごつい顔にふさわしい、大仰な名前だとわたしは思った。
「五道院さん、どうしてわたしを助けてくださったんですか?」
我ながらおかしな質問だと思ったが、聞かずにはいられなかった。
「どうして……か。それは難しい質問だな。しいて言えば、興味があったから、かな」
「興味があった……ですか?」
予想だにしない答えに、わたしは面食らった。ルームミラーに目をやると、玄人の目線とわたしのそれとがぶつかった。窪んだ眼窩の奥に覗く玄人の瞳は、驚くほど澄んでいた。
「そうだ。……あの黒づくめの男にね」
あっさりそう言うと、玄人は前方に顔を戻した。わたしは拍子抜けし、肩をすくめた。
「まさか、この辺を走っていたのも、あの男を探していたってことですか?」
「違うよ、たまたま、通りがかっただけさ。……でも、探していたっていうのも間違いではないな。このあたりは邪気のたぐいが噴き溜まっているようだからね」
邪気……電気を研究している人間の口から出たとは思えない言葉だ。
「でも来てみて正解だった。予想以上におかしな人物を見つけられたからね」
玄人はどこまで本気かわからない言葉を口にした。これ以上、話を聞いていているとおかしくなりそうだった。
「さて、そろそろ帰ろうか。家も君の帰宅を待ちわびているだろうからね」
家も?家族の間違いじゃないの?つくづく、わからない人物だ。
「あの、どこか近くでいいです、コンビニとか」
「コンビニ?……いやいや、コンビには不便だよ。用が足りない。家がいいよ。家には何でもあるからね」
玄人はかたくなだった。大人としての分別を語るのではなく、完全に世間の一般常識とずれたことを自信たっぷりに主張するのだから、始末に負えない。
「じゃあ、家でいいです。……あの、わたしの名前、まだ言ってませんよね?」
「名前?……ああ、そうだった。じゃ、せっかくだから名前も聞いておこう。なんというんだい?君もヴィクターとかレクターとか言う名前なのかい?」
名前「も」?……せっかくだから?わたしはほんの少し不愉快になった。
「能咲……瑞夏です」
わたしは、はっきり聞こえるように言った。
「うん、わかった。覚えておくよ。……ああ、この辺だね。君の言うマンションは」
玄人は、わたしを叔母夫婦の住むマンションの横に停めた。
「今夜は大変な夜だったね。……いい夢を見るんだよ」
初めてまともなことを言った、とわたしは思った。
「しばらくは嫌な夢を見ることになりそうです」
「そうか。確かにあんな不思議な奴と会ったら、記憶に刻まれるだろうな」
わたしは自分の右手を見た。爪は完全に元に戻っていた。わたしだって、充分『不思議な奴』だ。わたしは礼を述べて車を降りると、運転席の玄人に向かって改めて一礼した。
「それじゃ、おやすみ」
そう言い残すと玄人は手をひらひらさせながら、ウィンドウを閉じた。
走り去るテールランプを眺めながら、わたしは今夜のことが、ヴィクターだけでなく玄人も含めて全て幻だったのではないかという思いにとらわれていた。
〈第八話に続く〉
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