第3話「聖螺」(2)涙よ、熱くめぐれ


『クリスタル・ベル』は、中小路に面した古い雑居ビルの二階にあった。

 建物の前に立った瞬間、わたしの脳裏にここを訪れた際の記憶がありありと甦った。


 そうだ、このビルだ。一階の画廊に、ブロンズの少女像があったことまで、はっきりと覚えている。狭い階段を上ると、突き当りに店名の札を掲げた木製の扉があった。

 ドアを押し開け、ほの暗い店内に足を踏み入れた瞬間、わたしは涙ぐみそうになった。ファースト・ミニアルバムのレコーディング直前、わたしと聖螺はここで打ち合わせをしたのだ。


 わたしと佑は、奥のボックス席に収まった。ほかに客はいなかった。わたしは改めて店内の様子を眺めた。佑の言う通り、喫茶店と言うより、バーに近い風情だ。

 

入り口近くに半円形のカウンターがしつらえられ、奥の棚には洋酒の瓶が並んでいる。一方、わたしの席から近い奥のスペースにはアップライトのピアノがひっそりと佇んでいる。おそらく奥が演奏スペースなのだろう。


「コーヒーでいいですか。苦手なら紅茶もありますが」


「いえ、コーヒーでいいです」


 わたしは機械的に返答していた。訪れた目的を一瞬、忘れそうになるほど、わたしは店の雰囲気に埋没していた。たった一度しか訪れていないのに、わたしの気持ちは古い友人の家を訪れたかのように安らいでいた。


「あら、百原さん、珍しいですね。こんな早い時間に」


 わたしははっとして顔を上げた。ブルーのエプロンをつけた若い女性店員がいつの間にか私たちの前に立っていた。


「うん、ちょっと込み入った話をしたくてね。……こちらは『メアリーシェリー』のヴォーカル、能咲瑞夏さん。聖螺の友達だよ」


 いきなり見知らぬ相手に紹介され、わたしは面食らった。よそよそしくするわけにもいかず、咄嗟に「どうも」と、とってつけたような挨拶をした。


「はじめまして、このお店でアルバイトをしている、三条美和さんじょうみわっていいます。……あの、失礼ですけど、『メアリーシェリー』って、この前、火事で焼けた……」


「そうです。爆発の時、ステージで演奏してました。……ただ、わたしはたまたまステージにいなくて助かりましたが」


 わたしは意識的に嘘を口にした。本当の事を言ったところで、信じてはもらえまい。


「そうだったんですか。なんていうか、その……大変でしたね」


 美和と名乗った女性は困惑気に眉を寄せると、当たり障りのないなぐさめを口にした。


「ようするに、生き残りです」


 わたしが付け足すと、美和と佑が一瞬、目を見合わせた。自虐的な私の物言いに、当惑したのだろう。だが、生き残ったというのが嘘偽りないわたしの気持ちだった。


「ええと、あの……亡くなったギターの聖螺さん、何度かお店に来ていて、私にも時々、話しかけてくれたんです。すごく格好良くて、落ち着いてて、とても私と同じ年とは思えないくらいでした。今度ぜひ、ライブを見に来てねって誘って下さったのに……こんなことになるなんて」


 美和は声を震わせた。わたしは胸が熱くなるのを覚えた。ここにも聖螺を慕う人がいた。


「えっと、コーヒー。二つ」


 涙声のまま、なおも言葉を継ごうとする美和を、佑がやんわりと制した。


「あ、ごめんなさい。ごゆっくり」

 美和は慌てて詫びると、カウンターの向こう側に消えた。


「たしか以前、聖螺とここに来た時も、この席でした」

 わたしが言うと、佑は頷いた。


「そうでしたね。覚えてます」


 えっ、とわたしは声を上げた。あの時、同じフロアに佑もいたというのか。


「いらっしゃってたんですか、あの時」


「たまたまね。カフェのスタッフが足りなくて、出てくれって言われたんです」


 実は能咲さんのことはあまり覚えていないんですが、と佑は苦笑交じりに詫びた。


「気づかなかったです、聖螺と仲のいい店員さんがいたなんて」


 佑は淡々と言った。わたしの中で、あらためて疑問が膨れ上がった。ただの知人なら、ひと月以上も現場に花を手向けたりするだろうか。多少、腑に落ちない点があったにせよ、辛い出来事であれば尚の事、早く忘れようとするのが普通の感覚だろう。

 

それなのにこの人は、聖螺についてさらに突っ込んだ話をしようとしている。疑問をそのままにしておけないほど、二人の結びつきは強かったという事か。恋人、という単語が脳裏をよぎった。


 その時、わたしの右の手首にひときわ強い、じんっという痺れが走った。まただ。


 次の瞬間、わたしは痺れの意味を理解していた。聖螺の思いが反応しているのだ。


 この店に。……そして、佑に。


             〈第四話に続く〉

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