第2話「聖螺」(1)なつかしい人
通り雨に洗われた路地が、黒く冷たい光を放っていた。
間口の狭い雑居ビルが身を寄せ合う一角には、トラックの排気ガスの臭いに混じって、ビニールを焼くようないがらっぽい臭いがただよっていた。
駅前の目抜き通りからほんの一本、奥まっているだけなのに、ここには倦怠といらだちの臭いが濃く漂っている。
変わらない。わたしの大事な場所が失われても、ここは何も変わらない。
わたしは、ブルーシートですっぽりと覆われた建物の前で足を止めた。ブルーシートの内側には、生々しい火災の後があるはずだった。
ひと月前まで、ここはごくありふれた雑居ビルに過ぎなかった。それが、いまは真っ黒な残骸と化している。わたしと仲間たちが利用していたライブハウス『ディオダディ』も黒こげの伽藍洞だろう。
わたしは俯き、瞑目した。ほんのひと月前まで、わたしは仲間たちとここで歌っていた。
ここは寄る辺ないわたしたちにとって、世界と戦うための前線基地であり、ホームであり、聖地だった。いまはもう、ここでわたしを待つ「仲間」はいない。突然起きた謎の爆発が、わたしからすべてを奪ったのだ。
友も、居場所もなくしたというのに、なぜ、わたしだけがこうして生きているのだろう。
墓標のようにそびえ立つ廃墟に向かって、わたしは問いを投げかけた。
ひと月前のあの日、わたしは爆風に吹き飛ばされた消防隊員の身体の下で、意識を取り戻した。担架が運ばれてくる様子を遠巻きに眺めながら、わたしはすでにこと切れている消防士の下から抜け出し、その場を立ち去った。
なぜ、わたしは逃げ出したのだろう。あらためて振り返っても、よくわからない。
ただひとつ言えることは、あの場所にとどまることは、危険だということだった。
瓦礫の下から無残に焼け焦げた死体が運び出される中、なかば炭と化した衣服をまとった少女が自力で這い出してきたら、大いに人目を引いたに違いない。
しかもあれだけの爆発に巻き込まれて傷一つ、火傷ひとつ負っていないのだ。なんだかんだと理由をつけて身体を調べられるだろうことは、間違いなかった。
この身体には、誰も触れさせない。これは友たちがわたしにくれた身体だもの。
わたしは現場に残って警察やマスコミに興味を抱かれることを、本能的に避けようとしたのだった。
後髪を引かれる思いで現場を立ち去ったわたしは、ほど近い一角にある所属オフィスを目指した。オフィスは思った通り、無人だった。爆発事故の一報を受けた社員が全員、現場に直行していたからだ。
わたしは焼け焦げた衣服を脱ぐと、自分のロッカーからジャージの上下とウィンドブレーカーを引っ張り出した。以前、オフィスに泊まった際に置いてきたものだ。わたしは素早く着替えを済ませると、脱いだ衣服を黒いごみ袋に詰め、オフィスを出た。本当はシャワーを浴びたかったが、断念せざるを得なかった。余計な痕跡を残してゆくわけにはいかないからだ。
現場から二駅ほど離れたコインシャワーで火災の痕跡を洗い流し、騒ぎが静まるのを待って、わたしは現場に戻った。黒煙を上げるビルを遠巻きに眺めているうちに、一度は止まった涙が堰を切ったようにあふれ出してきた。
わたしは、あの中で死んだのだ。
ごめんね。みんな。おきざりにして、ごめんね。
やがて、やじ馬に埋もれて泣きじゃくっているわたしを所属事務所のスタッフが発見した。「良かった、今日は出演していなかったんですね」両目を潤ませてそう言うスタッフに、わたしはなんと返してよいかわからず、ただ黙ってかぶりを振り続けた。
わたしは卑怯者だ。でも、このままのうのうと生きてゆくつもりはない。友たちがなぜ、わたしを生かそうとしたのか、そしてママがいまわの際に呟いた「かたきを取る」という言葉の意味を知るまで、わたしに与えられた役割を果たし終えるまで、死ねないだけだ。
待ってて。みんな。何が起きたかを突き止めたら、わたしもすぐそっちに行くからね。
わたしは心の中で墓標に別れを告げた。踵を返そうとしたその時、わたしの目はある人物に吸い寄せられた。その人物はブルーシートで覆われた廃墟の傍らで、
身を潜めるようにして花を手向けていた。
まだ、死者を悼む人がいたんだ。
わたしは人影に歩み寄った。細身の男性だ。男性は供えた花の前に屈み、瞑目していた。
「お花、綺麗ですね」
そう声をかけると、男性は目を開け、顔をわたしの方に向けた。面長で鼻筋が通っている。整った顔立ちだが、眼差しに剣があった。
「火事があったんです、ここで」
男性はぶっきらぼうに言った。二十代だろうか。大学生にも、社会人にも見える。ブルゾンもパンツも、靴まで黒なのは礼服の代わりだろうか。
「知ってます。その時、ここで見てましたから」
わたしが短く返すと、男性はぎょっとしたように目を見開いた。人形のようだった瞳に、初めて感情の光らしき物が覗いた。
「あの火災のあった日、わたしはここのステージに出演するはずだったんです」
若干の後ろめたさを覚えつつ、わたしは言葉を重ねた。爆発に巻き込まれたことは、いまのところ誰にも言うつもりはなかった。
「そうだったんですか……」
男性はわたしに向き直ると眉を寄せ、唇を引き結んだ。
「僕の友人が、ここで亡くなりました。おそらくステージでギターを弾いている最中に」
わたしは、はっとした。まさか。
「そのお友達って、バンドをやっていたんですね」
恐る恐る尋ねると、男性は無言で頷いた。男性の言う友人とは、聖螺の事に違いない。
「女性だけのロックバンドで、『メアリーシェリー』っていう名前でした。友人はそこでギターを弾いていたんです」
男性は絞り出すようにそう言うと、俯いた。その横顔を見た瞬間、わたしは右手の指先に、痺れるような痛みを覚えた。
「わたし、『メアリーシェリー』のヴォーカルでした。もしかして聖螺のお友達ですか?」
男性は両目を大きく見開いた。薄い唇が「まさか」という形に動くのがわかった。
「あなたが……瑞夏さんですか。爆発に巻き込まれていなかったんだ」
男性は掠れ声で言った。わたしは男性のまなざしを受け止めつつ、きっぱりと頷いた。
「僕は
わたしは一瞬、返答をためらった。百原というこの青年は、はたしてどこまで信用できるのか。聖螺の友人とは言っても、わたしはこの人物の事を何も知らないのだ。
「あ……すいません、初対面なのに、いきなり図々しい事を言って」
わたしの強張った表情を警戒と捉えたのか、百原と名乗る青年はがらりと口調を変えた。
「いえ、そんなことはないです。わたしも聖螺のことで……いえ、今回の出来事について、色々と知りたいことがあるんです。どうしてこんなことになったのか」
「今回のことと言うと……爆発についてですか?」
わたしは頷いた。聖螺はあきらかに、何かを知っていた。この青年が彼女の抱えていた秘密に触れていたかどうかはともかく、話だけでもしてみたかった。
「僕は、爆発については何もわかりません。それでもよければ」
「それでいいです。聖螺についてあなたが知っていることを、聞かせてください」
「わかりました。僕が働いている店に行きましょう。『クリスタル・ベル』っていうバーですが、昼間はカフェになっています」
記憶のどこかで、火花が散った。知っている。そのお店にわたしは行ったことがある。
「ここから十分くらいのところですよね。以前、バンドの打ち合わせで聖螺と行きました」
わたしが言うと佑は「なるほど」という表情になった。よく見ると目尻がわずかに下がっていて、人懐っこさを感じないでもない。
店にまで行ったのに、聖螺は佑の存在をわたしに教えてくれなかった。もちろん、紹介する義務などいっさいないのだが、なんとなく割り切れない気分だった。
「それじゃ、行きましょう」
そう言うと佑は先に立って歩き出した。歩き出そうとした瞬間、また右手の指先が痺れた。意外に早く歩く佑の背を追いながら、わたしは小さなしこりを持て余していた。
〈第三回に続く〉
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