雷鳴のメアリーシェリ―

五速 梁

第1話 序章(プロローグ)


 鼻先に冷たいものが触れた。うっすらと見開いた目に、横倒しになったパイプ椅子の脚が飛び込んできた。


 よく見ると、同じように倒れた椅子がいくつか見受けられた。椅子だけでなく、合間に人影のような物も見える。衣服は黒ずみ、髪も乱れ、いずれも四肢を投げ出すような不自然な格好だった。どうしたのだろう。怪我をして動けないのだろうか。


 ひどく熱い。まるでピザ窯に入れられたように、空気そのものが熱い。

 煙だ……苦しい。

 白い煙が充満している。時折、黒い煙が混じっているのはどうしてだろう。わたしは身じろぎした。自分がなぜ横たわっているのか、ここがどこなのかも思い出せないままだ。


 わたしは咳込んだ。身体を動かした弾みに、煙を含んだ空気を吸いこんだのだ。咳のおかげで少しづつ意識が戻り、わたしはあることに気づいた。


 この部屋……燃えてる。火事だ!


 遠くの壁が時折、ちろちろと炎らしきものに舐められていた。床面は冷たいが、他の場所はおそらく熱せられている最中なのだ。だとすれば、この煙も危ない。迂闊に吸い込んだら命にかかわるだろう。鼻を覆うべく手を動かそうとした、その時だった。


 手が……動かない?


 右腕のひじから先が、どんなに力を込めてもびくともしなかった。


 わたしはそれまでに感じたことのない恐怖を覚えた。落ち着け、まずは指からだ。そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと指を曲げ伸ばそうと試みた。が、意に反し指が動く気配はない。


 おかしい、と思った。骨が折れているのだろうか。わたしは効き腕を動かすのをいったん断念し、左腕を使って体ごと横に転がった。うつぶせの状態から脱し、少しでも広い視野を確保したかったのだ。


 横向きになった私の目に、部屋の全体像が飛び込んできた。その瞬間、わたしはここがどこであるかを悟った。


 ここは……ディオダディだ!


 わたしの本拠地とも言えるライブハウス。それが今、炎と煙に包まれている。


 二十坪ほどのフロアが、地獄絵図と化していた。炎に嘗め尽くされた壁と天井は真っ黒に焦げ、照明や機材の破片がいたるところに散乱していた。

 折り重なって倒れている無数の人影は、ライブを見に来て爆発に巻き込まれた観客だろう。ここから見る限り、生きているか死んでいるか、判然としない。微動だにしないその姿に、わたしは戦慄を覚えた。


 状況を理解した途端、身体の奥に生への強い渇望が生じた。わたしは仰向けになるべく、再び、右腕に思い切って力を込めた。体がごろりと転がった瞬間、ひじのあたりにドリルを突っ込まれたような激痛が走った。


「ああああっ」


 喉から苦痛の呻きが迸った。なんだ、この痛みは?わたしは顔を捻じ曲げ、右腕を見た。次の瞬間、わたしはまた悲鳴を上げていた。先ほどとは違う、恐怖の悲鳴だった。


 右腕の、ひじから先が消え失せていた。ぼろぼろになったシャツの袖に赤黒い筋肉の繊維が絡みついていた。気を失わずにいられるのが不思議なほど無残な眺めだった。

 視線を脚の方に移すと、そこにも恐ろしい眺めがあった。右足の大腿部からふくらはぎにかけての肉がごっそりと削り取られ、ぎざぎざに引きちぎられた筋肉と脂肪の間から白い骨が覗いていた。


「なんなのっ!いやっ!」


 わたしはがたがたと震えた。左手で顔を覆うと、指先に触れた皮膚が手の動きに沿ってずるりとはがれるのがわかった。目の前が絶望で真っ暗になった。


 死ぬ、きっとわたしは、死ぬ。たまたま目覚めただけで、すぐあの焼け焦げた人たちと同じになるんだ。わたしは意識が戻った事を呪いたくなった。

 これが夢なら、なんというひどい悪夢だろう。こんな目に遭うようなことを、わたしは、あそこに転がっている人たちはしたのだろうか。


 焼け焦げた天井の照明を眺めているうちに、眼尻から涙があふれ出した。こんな形でしか生きていることを実感できないことが悔しかった。もうすぐ死ぬというのに、頭に浮かんでくるのは、リハーサルでギターを倒したことや、歯医者に行き忘れたというような、くだらないことばかりだった。


 もういい。たった十六年の人生に、甦るような思い出なんてない。この涙はくだらない自分のエンディングへの、憐みの涙だ。さよなら、能咲瑞夏のざきみずか。どうせならとことん燃え尽きて、身元すらわからない状態で見つかればいい。 


 わたしは静かに目を閉じようとした。その時だった。耳の奥が奇妙な音をとらえた。


 ずる、ずる、という何かを引きずるような音。そして声が聞こえた。


 だめ、瑞夏。まだ死んじゃだめ。


 しわがれて、苦しげな響きの声だったが、わたしにはすぐわかった。ギターの聖螺せいらだ。


「聖螺?」


 わたしは閉じかけた目を見開いた。ずる、ずる、という音がはっきりと耳元で聞こえた。そのままじっとしていると、仰向けになったわたしの視界に突然、聖螺の顔が現れた。


「よかっ……た、まだ……生きてるのね」


 聖螺の顔は、半分以上が黒く焼けただれていた。聖螺は焼け焦げ、血に塗れた顔を嬉しそうにほころばせた。薄い上唇、すこしだけ下がっている両目尻。いつもと変わらない人懐っこい笑顔に、わたしの目からまたしても大量の涙があふれ出た。


「生きてるけど……たぶん、もうすぐ死ぬよ。こんな風だもの」


 わたしは無理に笑って見せた。ひとりぼっちじゃなくて良かった。看取らせちゃってごめんね、聖螺。


「ううん。あなたは死なない」


 聖螺は大きくかぶりを振った。わたしと同じように炎に包まれたというのに、潤んだ瞳には、力強い光があった。なぜ、と動いたわたしの唇を読み取ったのか、聖螺は優しく言い聞かせるように「それはね」と言った。


「わたしの命を受け取るから。……わたしね、もう駄目なの。右腕と腰から下が、ないの」


 わたしは愕然とした。あのずるずるという音は、半分以上を失った体を必死に動かしている音だったのだ。聖螺はそんな身体で、私の所まで来てくれたのか。


「でもね、あなたは大丈夫。詳しく話してる時間はないけど、私の命をあげるから、あなたは死なない。これからあなたは、わたしの分も生きるの」


 そういうと聖螺はわたしの、かろうじて残っている右の二の腕に顔を近づけた。

 「もうバッキングできなくなるけど、許してね。同じステージに立てなくても、ずっとわたしたちは一緒だよ」


 そう言うと聖螺はわたしの腕に優しく唇をあてがった。次の瞬間、わたしは二の腕を通して、暖かく痺れるような何かが、自分の中に激しく流れ込んでくるのを感じた。


「なに、これ?どういうこと?」


「言ったでしょ、わたしの命をあげるって。でも……少し足りないかもしれない」


 焼けただれた聖螺の横顔が、少しだけ悲しげに歪んだ。足りないって、なにが?

 困惑しているわたしの耳にまた、ずる、ずる、という何かを引きずる音が飛び込んできた。次の瞬間、二つの顔が視界に現れた。


「間にあっ……て……良かった」

 ベースの姫那ひめなと、ドラムの明日香あすかだった。姫那は頭髪が焼け焦げてほとんど無くなり、明日香は頬の肉がえぐれて奥歯が覗いていた。


「聖螺だけ……じゃ、足りないわ。わたしたちの命も、受け取って」


 そういうと、二人はそれぞれわたしの頭や大腿に顔を近づけた。柔らかな唇の感触とともに、先ほどと同じく熱い何かが体内に流れ込んでくるのがわかった。


「どうして?……みんな、なにをしているの?」


 わたしの問いかけに、聖螺がやさしく応じた。「あとでわかるわ」


「あとでって……」


 そう言いかけた時だった。轟音とともに、衝撃がフロア全体を揺さぶった。


「いよいよね。……瑞夏、もうすこししたら動けるようになるわ。スタッフルームの方から、外に出るのよ、いい?」


 聖螺が確信に満ちた口調で言った。もう少しで動けるって……どういうこと?


「脚の方は、戻り始めてるから、大丈夫よ」


 明日香が微笑んだ。ごぼっという音がして、頬の穴から黒い血が溢れだした。


「わたしが体を起こしてあげる」


 姫那が手際よくわたしを抱き起した。そういえば彼女は介護科だった、とわたしは状況にそぐわない事を思った。

 改めて下半身を見たわたしは、思わず声を上げていた。半分以上、肉がえぐれていた右脚が、嘘のようにきれいに復元されていた。そればかりではない、ひじから先が失われていた右手が、完全に元に戻っていた。


「どうして?」


 混乱する私に、三人が同時に言った。「言ったでしょ、命をあげるって」


 火勢が一段と強まり、開口部から吹き込んできた煙が室内に充満した。かすむ視界の中で、まず聖螺が、そして残りの二人がゆっくりと頽れて行った。


「みんな、死んじゃ駄目っ!」


 わたしの呼びかけに、三人はうっすらと目を見開いた。倒れている三人の姿は、想像していた以上にひどい物だった。正螺は右腕と膝から下がなく、明日香も下半身がほぼ失われていた。姫那は顔の一部を除いて、全身が赤黒く焼けただれていた。全員、もう長くないのは一目瞭然だった。


「よかった……そこまで復元すれば、脱出できるわ。わたしたちのぶんも、生きて」


 聖螺の言葉に、わたしは激しくかぶりを振った。


「いやよ。一人だけ助かるなんて、できわけないでしょ!」


「行くのよ。あなたには、やらなければならないことがある」


 明日香が言った。わたしは泣きじゃくりながら「なんのこと?」と問い返した。


「それもあとでわかる。だから……逃げて。わたしたちの命を無駄にしないためにも」


 姫那がそう言って焼けただれた腕を伸ばし、わたしを出口の方へ押しやろうとした。


「どうして……どうして?」


 わたしは子供のように同じ問いを繰り返した。だが、それに対する返答はなかった。さっきまでわたしを力づけていた三人はすでにこと切れ、物言わぬ亡骸となっていた。


「こんなこと……ひどすぎる!」


 わたしは燃え盛る炎の中で、泣きじゃくった。……ひとしきり泣いた後、わたしの両脚は出口の方へと動き出していた。看取ったばかりの友を葬ることもできず、その場に残してわたしはその場を去ろうとしていた。友の遺志を守るには、それしかなかった。


 スタッフルームへと続くドアは燃えておらず、わたしは友の不思議な力によって復元された手で口と鼻を覆い、復元された脚でドアを目指した。


 スタッフルームに、どうやら煙は充満していないようだった。わたしは恐る恐る足を踏み入れ、次の瞬間、驚きに声を失った。フロアの真ん中に、黒こげの人間が横たわっていたのだった。服装と体格から、わたしはその黒こげの人物が、事務所の社長であると直感した。


「ママ!」


 わたしたち『メアリーシェリー』の所属する事務所、『ファンタスマゴリー』の社長はまだ三十歳の若さだったが、わたしたち所属アーティストからは「ママ」と呼ばれていた。


「だ……れ」


 黒こげの身体が、うめき声とともに身じろぎした。生きている!わたしは倒れている人物に歩み寄ると、身をかがめた。


「瑞夏よ、ママ。大丈夫?」


 わたしは焼けただれて人相も定かでない頭部に、口を寄せた。見たところ、やけどの程度は姫那を上回っているようだ。悪い予感がじわりと全身を包んだ。だが、生きている以上、何とかしなければならない。


「今、助けを呼ぶからね」


 わたしはそう言って立ち上がった。自分で連れ出したいが、到底、動かして良い状態とは思えなかった。


「瑞夏……来て」


 咳の混じった声がわたしを呼んだ。わたしが顔を近づけると、ママと思しき人物は口をわずかに動かし、しぼりだすような声を発した。


「倒して……こんなことを……やつを……かたきを取っ」


 わたしが聞き取れたのは、そこまでだった。「がほっ」という苦しげな咳を最後に、黒こげの人物は動きを止めた。わたしは立ち上がり、両手で顔を覆った。


「いや……なんなの、これ。こんなの、ありえないっ」


 わたしは完全にパニックを起こしていた。かろうじて非常口の前まで移動したものの、ドアノブに手を伸ばせぬまま、その場に棒立ちになっていた。


「誰かいますかっ?」


 突然、ドアの向こうから男性らしき声が響いた。助けが来たのだ、とわたしは思った。


「開けますよ、いいですか?」


 声はわたしの返事を待たずに、たたみかけた。室内の温度は限界まで高まっていた。いけない、とわたしは思った。火災で熱せられた部屋に急に酸素が供給されると、何かが起こる、そんな映像をどこかで見た気がした。


「ドアから離れてくださいっ!」


 切羽詰まった響きがわたしの耳に突き刺さった。やめて、この部屋はもう、駄目なの!


 ガン、という金属を撃つ音が聞こえ、ドアが押し開けられようとした。わたしは警告を発しようと口を開いた。次の瞬間、轟音と閃光がわたしを包み、闇が全てを呑み込んだ。


                第一話

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