第一章二十七話 始まり

 どれほど走っただろう。道など関係なく、ただ駆け抜けた。

 酷く身体が重い。身体中が血生臭くて堪らなかった。

「っ……げほっ……」

 ようやく足を止めたのは、昼間に訪れた劇場の屋根上だった。呼吸すると、まだ少し煙に咽てしまう。

 燃え盛る王城から流れてくる黒煙は都市を暗く歪めていた。

「…………」

 全て、失ってしまった。

 たった一晩で家族も、愛する者も、主君も、帰る場所さえ失った。その上、今やこの身は大罪人。直にエインフィリアを歩くことすらままならなくなるだろう。

 いっそ自決を、などと考えもした。しかし、その前にやることがある。

 手中に握られたままのペンダント。服も髪も乱れているのに、これだけは無傷で輝きを放っている。

「……まだ、死ねない」

 やけに身体が重いのは、長い髪に血がこびり付いているせいだろうか。凝固した髪は風にそよぐこともなく、ただひたすらに不快だった。

 だから――ミレアはナイフを取り出し、

「メイル、アンタが愛した騎士は――死んだわ」

 ザクッ、と長い黒髪を斬り裂いた。

 放たれた髪束が解け、夜空へと舞い散る。

 メイルが褒めてくれていた頃は手入れに気を遣っていたはずだが、今は何の感慨も抱けなかった。

「あの頃に戻っただけ……いや、違うか。一つだけ、目的がある」

 頼る人もなく死を待つだけだったあの日。孤独という意味では今も似たようなものだが、今のミレアには出来ることがあるのだ。

「見ていて、メイル。絶対に、アイツだけは――殺してあげる」

 ペンダントは着けなかった。これは自分の物ではないから。だが、これだけが唯一の手掛かりであり、撒き餌なのだ。

 肩口までの長さとなった髪を揺らし、ミレアは再び駆け出した。

 姫のデコイでもなければ従者でもない。

 ただの復讐者と化した彼女が目指す先――ドットフィリアへ向けて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボーダブレイカ 高温動物 @im0004xx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ