第一章二十四話 血溜まり
普段何気なく通っていた廊下が、今は陰鬱な空間に思えてならない。夜闇を照らしてくれる燭台灯も、今だけは不吉を呼んでいるようだ。
「メイル……無事でいて」
ようやく部屋の前に辿り着いたミレアはそんな望みを漏らした。
神への信仰心は持っていないが、一度くらい望みを叶えてくれてもよいではないか。
「……何考えてるのよ。らしくない」
先の仮面の者は見当たらず、周囲に人の気配もない。
だが、扉に手を掛けた瞬間、強烈な怖気に身を包まれる。
「…………」
中から人の気配がする。それだけなら構わない。しかし、この濃密な気配はなんだろう? 敵が潜んでいるだけなら、むしろ強い気配を感じるはずがない。
「っ…………」
唾を嚥下し、扉を押した。
何度も潜ったドアだ、今更何を気負う必要があるのか。
いつものように部屋に入り、慣れ親しんだ笑顔に迎えられるのだ。そして、今の汗だくのミレアの顔を見て、何を慌てているのかと笑われるはずだ。
そんなあるべき日常の幻視は――儚く潰えた。
「メイ……ル?」
部屋の中央にいるのは誰だ? メイルに似ている別人か?
メイルの肌は白く艶やかで、こんな血の気の失せた色はしていない。
彼女自身も好いていた金色の髪は、こんな赤黒い色をしていない。
真っ赤なドレスなどメイルは着ない。
床で仰向けに寝そべるような品のない真似はしない。
だが、いくら否定しても現実は変わらない。
血塗れの姿で横臥(おうが)するその人物は、メイル以外の何者でもなかった。
「メイ、ル……ああああああああああああああああああああぁ!!」
こんな大声を出すのは初めてかもしれない。喉がキリキリと痛むが構っている場合ではなかった。
どんなに声を出しても枯れることがない、自責と悔恨だけがミレアを暗澹(あんたん)へ引き摺り込もうとしていた。
「メイル! どうしてっ!? なんで!? どうしてどうしてどうして!?」
「…………初めて……ね」
「ッッッ!! メイル!!」
か細く漏れた声を聞き逃さなかった。
ミレアは血溜まりに浮かぶメイルを抱き寄せ、必死に名を呼んだ。
そうして微かに、メイルの長い睫毛が震えた。
「……ミレア……の……そんな声……聞いたのは」
微かに、本当に微かにだが、メイルは笑んでみせた。
初めて神に感謝を捧げたくなるほどの安堵を覚えたが、口から血を吐き出す有様を見て、事態が一刻を争うことを悟る。
「メイル! 待ってて、すぐに医者のところへ」
「聞いて、ミレア。ボク……の……最後……お願い」
「黙りなさい! 最後? ふざけないで、そんな言葉を聞くつもりはないわ」
「これは……命令です! ミレア・リザリス!」
身体が固定されてしまう。血の混じった唾液を吐き出しながらも、メイルは王族として言葉を発したのだ。
メイルは半分程度しか開かない眼でミレアを見据えた。まるで、燃え尽きる寸前の蝋燭のように、力強い眼で。
「お願い、聞いて。ボクを襲った者と、襲撃。全ては繋がって、いるの」
「繋がっている? どういうこと?」
ミレアが問い返すと、メイルは歯噛みを見せながら言った。
「こんな強引な方法で来るとは思わなかった。公然と王城に入れる今夜だけが、絶好の機会……っ」
痛苦に顔を歪ませるメイル。
それでもミレアは聞き続けた。それが、主君の命令だから。
「まさか、暗殺集団を雇うなんて、ね。デコイの情報まで漏れ……ゴフッ!」
「メイル! もう、いい。もう喋らなくていいから……」
ほんの少し、メイルが首を左右に揺らした。
「ハァ……ミレア……手を」
上がらぬ腕に力を込めているのを見て、ミレアはその手を握った。
「あり、がとう。ミレア、ここから、逃げて。彼らの狙いは、ボクじゃ……ない」
「メイルじゃない? そんなはずがないでしょう!」
「ボクの命はついで、でしょうね。真の狙いは王家の、証」
その言葉に、ミレアは懐に入れていたペンダントを取り出した。
「そう。そして、それはもう一つ……ドットフィリアにも……」
「ッ! メイル……ダメ……待って……」
ミレアの声と手が震える。握った手を通じて伝わってくるのだ。
すでに、メイルの命の灯火が消えかけていることが。
「二つの証は、絶対に揃えさせては、いけないっ。神話の時代の、災厄が、目覚めてしまう。だからお願い、ミレア。証を守って。決して彼らに渡さないでっ」
神話、厄災、証。
話の内容が途切れ過ぎていて理解出来ない。
だが、メイルは二つの証といった。一つがエインフィリアならば、もう一方は語るまでもない。
「ドットフィリアにもう一つの証が? じゃあ、まさか、メイルを狙ったのも」
「分からない。エインフィリアの、可能性も…………あぁ、ミレア」
赫怒(かくど)に身を焦がさんとしたミレアの頬に、冷たい手が触れる。
その手をなぞるように滴るのは、ミレアの零した涙であった。
「泣かないで。悪いのは、ボクだから」
「何を言っているの? メイルが何をしたって言うの?」
「ボクは悪い子よ。だって……」
顔を近付けていなければ聞こえなかっただろう。
メイルは、消え入りそうな声で懺悔を口にした。
「ミレアの言う事、聞かなかったから……。そうすれば、こんなことにならなかった」
「ッ……バカ……なんで今更……そんなことを言うのよ!」
後悔しているのはミレアだ。不審者を見かけた時点ですぐにメイルの元へ駆けつければ、このような悲劇を避けられたかもしれない。
王家の証を受け取りさえしなければ、メイルは命を拾えたかもしれない。
だが、メイルが口にしたのは謝罪の言葉。これではどちらが従者なのか分からない。
「ごめんなさい、ミレア。最後まで、迷惑ばかり、かけて」
「メイル……メイル、メイル、メイルメイルメイルッ!!」
「愛していたわ。たった一人の、ボクの……騎士……………………」
ふと、メイルの手から力が失せた。
瞳は閉じられ、その口からミレアを呼ぶ声も聞こえない。
冷たい手の平も、流れ出る血潮が止まったことも、たった一つの事実をミレアに告げていた。
メイル・キア・エインフィリアが、今この瞬間、この世を去ったという事実を……。
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