ギャンブラーな秘書は慰められる
四
今日も彼女はそこに足を踏み入れる。
あらゆる欲望が蠢き、人の醜い性が露わになる黄金郷に。
富を築き上げた貴族が一夜にして奴隷に堕ち、平民が富豪の仲間入りを果たし、裸に剥かれた男が地に額を擦り付ける。汚らしい夢が叶い、散っていく。しかしそれらも彼女の愉悦を満たす糧にしかならない。
彼女はいつも小銭しか持ち歩かない。
果実が一つしか買えない金で、自分はどこまで高みに上っていけるのか。そのスリルもまた、彼女の心を震わせる。
ーー今日も勝ちます。
歪な笑みを心に浮かべ、鉄仮面を顔にこびり付ける彼女はいつもの椅子に座った。
☆
「あさあさあーさ、朝ごはーん」
珍しく何もなかった昨日。阿保な傭兵が問題を起こす事もなく、無駄な修繕費を払う事もなかった。久しぶりの平穏が味わえたからか、いつもの着ぐるみを纏うソフィアは、上機嫌に《アファリア》の食堂に向かっていた。
今更ではあるが、ソフィアの体はかなり小さい。人族の子供より多少大きいくらいで、十七歳と言われても信じない人の方が多いくらいには。小さい。いつもは鋭い双眸も今は柔和に緩められ、ペッタペッタと軽やかな足取りで進んでいる。どっからどう見ても子供にしかみえない。
すれ違う職員は微笑ましい目で眺める者もいれば、恐ろしいモノを見たような表情を浮かべる者もいる。ちなみに前者は新人、後者はベテランの職員である。
しかし、今のソフィアに周りの目は見えていない。額の上から生える着ぐるみの嘴を揺らしながら、ソフィアは食堂の扉を開ける。今日は何を食べようか。そんな事を考えながら食堂に入ると、
「…………うわ」
凄まじく帰りたくなった。食欲は一気に萎え、ニコニコとしていた顔もしかめっ面に変貌する。
何あれ、と思わず呟いてしまう。かなり広い《アファリア》の食堂。奥には注文をするカウンター、そして長テーブルと椅子が二百席はある、自慢の食堂。しかし、何故かガラリと空いた食堂の一角。食事をする職員が遠巻きに眺めるその先には、負のオーラを纏うメメアの姿があった。
「…………」
ソフィアには、というより今この場にいる職員も心当たりはある。カツカツ、とメメアが何もない皿をフォークで刺す時は、決まってあの癖が始まった時だ、と。
気がつけば、職員達の目はソフィアに向けられていた。様々な種族、様々な色の目と違いはあれど、視線で語る内容は皆んな同じである。
ーー何とかしてください。
いつの間にか背後の扉は閉められ、ソフィアが逃げられないようにとガードされている。どこから取り出してきたのか、修繕費、と書かれた紙を窓に貼る職員達。窓からの逃亡も許すつもりはないらしい。素晴らしい連携プレーだ。手馴れている感が尋常ではない。
窓の一枚、扉の一つくらい、ソフィアのポケットマネーで払えるくらいの蓄えはある。しかし、こうも鮮やかな連携を見せつけられては、その意欲も失せるというものだ。
それに、どっちにせよメメアがいなければ仕事の回りが遅くなる。折角、昨日は順調に一日が終わったのだ。この流れを止めたくはない。
ため息一つ。ソフィアはまずカウンターに行ってボブ牛の牛丼を頼み、それを持ってメメアのいる席へと近づいて行った。
「……メメア、おはようだペン」
「……あぁ、おはようございます所長」
一応は纏めてあるが、黒い髪を垂らして声を絞り出す様は恐怖でしかない。無表情であるのが余計にそうさせる。
毎度の事ではあるが、この状態のメメアには決して慣れないだろう。見た目だけなら、墓場によく出る幽鬼種の魔獣と良い勝負ができるだろうこのメメアには。
「昨日は順調だったペン。今日もその調子でいきたいペンね」
「……えぇ。そうですね」
隣に座り、スプーンで牛丼を口に運ぶ。《アファリア》の食堂に詰める調理担当の者は腕がいい。この時間だと作り置きであるはずなのに、こんなにも美味しいのだ。
「メメアは、今日は何を食べたペン?」
「……何を……ええ……何でしょう? ……何かを食べました」
んなもん分かるがな。ソフィアは適当に返事をして、牛丼をかっ込む。
「そういえば、シャガリアはもう依頼に向かったそうだペン。今度は漁船の護衛と漁の手伝いだそうだペン。シャガリアが何をしたいのかは分からないけど、また暫くは平穏な日々が送れそうだペンね」
「……はい。それは重畳です」
「……あと、ビルドが昨日、夜に帰ってきてお土産を置いていったペン。護衛対象の商人から貰ったらしいペン。甘いクッキーみたいだから、後で一緒に食べるペン」
「……はい。食べましょう」
「……ビルドと一緒にいたあのクラス無しの、この前貴族相手に喧嘩を売った、えぇと、アラン、だったかな。そいつがこの前のお詫びにと饅頭を買ってきたペン。それも一緒に食べるペン」
「……はい。食べましょう」
「……メメア、私の話をちゃんと聞いているペン?」
「……はい。聞いてます」
「……昨日はいくら負けたんだペン?」
「……………………」
「メメア?」
「……………………五十万パルンです」
「また大層に負けたペンね」
空になった丼を置いて、ソフィアはポンと腹を撫でる。五十万パルンもあれば、家族四人が二ヶ月は暮らせるくらいの金額だ。ちなみに、メメアの給料は月に四十万パルン。平均的に見ればかなりの高給取りなので、五十万の損失くらいは軽く穴埋めはできるはずなのだが。
「負けた分は払ったペン?」
「……はい。それで貯金が吹き飛びました」
メメアにはギャンブル癖がある。毎夜、王都にある国内最大級のカジノに行っており、支配人にも顔を覚えられているくらいの常連でもある。メメアの知り合いには、この癖があるから結婚ができないのだと、よく言われているらしい。
勝率は、メメアの自己申告だが八割。毎回大勝ちするわけでもないが、小金を稼ぐくらいの事はしているらしい、と前に言っていたのをソフィアは思い出した。
「メメアは貯金ができない人族だペンね。勝った分も次の日につぎ込むからそうなるペン。毎回言ってる気がするけど、これに懲りたら最低限の貯金はしておけペン」
「……はい。すみません」
「一応、お前は《アファリア》の職員の鑑であるべき存在なんだペン。あんまりみっともない姿は晒すなペン」
「……はい」
ソフィアの言葉にトドメを刺されたのか、顔から皿に突っ込むメメア。それでも尚カツカツと動かそうとしているフォークを取り上げ、ソフィアはメメアの後頭部を叩いた。
「言ったそばから、何やってるペン。ほら、食ったならさっさと仕事にかかるペンよ」
「……はい」
乱れた黒髪を垂らしながら、メメアは席を立つソフィアの後を追った。
☆
「そういえば、ゼファロはいつ頃来るペン?」
「……いえ、あの後【創り手】のゼファロに手紙を送ったのですが、どうしても手が離せないと返しの手紙にありましたので、クラス無しのユーグスに紹介状を持たせて彼の元に送り出しました」
「……それ、報告されてないけどペン」
「……【創り手】のゼファロも弟子を取ることには反対をしていなかったので、無駄な交渉をする必要もありません。……むしろ、未知の召喚術に莫大な魔力を持つ彼の話をしたら、乗り気でした。……新しいアイデアが、とか言っていました」
「成る程、ペン。まぁ、問題が起きなければいいペン」
「……ですが、クラス無しのユーグスを送るために、討伐者のパーティーを付けました。……ガグリアンの街までですので、往復でおよそ二週間です。……これは事後承諾です」
「……はぁ。クラス持ちを使う時は一言欲しいペン。確かに、また召喚術で問題が起きたら大変だけど」
「……すみません。……そして所長」
「何だペン?」
「……どこに向かっているんですか?」
食堂を出て、ソフィアが歩き出したのは所長室に続く道とは別の道。未だに陰気な空気を纏って訊くメメアに、ソフィアはため息混じりに答えた。
「息抜きだペン。今のお前じゃ仕事の効率が落ちるペン。今日だけならまだしも、明日までそれを引き摺られたら私が困るペン」
「……はぁ」
僅かに眉を下げるメメア。答えを言うつもりはないのか、ソフィアは口角を上げて、ついて来いと続けた。
カツカツ、ペタペタ。メメアの陰気な雰囲気で通りすがる職員達をビクッとさせながら、二人は進む。そしておよそ五分程、歩き終えた先には模擬戦場の入り口が見えた。
「……ここは」
《アファリア》は傭兵所だ。主とするのは魔獣の討伐依頼だが、荒事という括りで他にも様々な依頼が来る。
その中の一つに盗賊、或いは盗賊団の壊滅という依頼もある。その場合は国の騎士団と共同して依頼の遂行に当たる事になっている。当然ながら、相手となるのは人だ。魔獣を相手にするのと人を相手にするのでは、大分勝手が違う。そのため対人戦でも遅れをとらないよう、作られたのがこの空間だ。
鉄製の扉を潜った先には、広大な土の地面が見える。ここは明確な仕切りはないが、それぞれ区ごとに分かれており、一部では森のような空間が広がっていたり、また別の所では家が何軒か建っていたりする。
色々なシチュエーションを想定して鍛錬できる。それがここだ。《アファリア》本部の馬鹿みたいにある土地の地下を使っており、今も何人かが動き回っては喧しい音を立てていた。
「落ち込んだ時は体を動かす事も大事だペン。って事で、たまには魔法でもぶっ放してこいペン」
「……また、唐突ですね」
ボソリと、呆れたように呟くメメアの方を、ソフィアは背伸びしてポンと叩いた。
「いつもなら飯でも食いに行って気晴らしするんだけど、もう朝飯は食ったペン。なら、豪快に魔法でも使ってスッキリした方が、気も楽になるペンね」
「……明らかに脳筋の理論ではないですか。……まぁ、お気遣いは感謝します」
「そう、感謝するペン。……さて」
ポン、とソフィアは翼状の手を叩く。それを合図にしたように、二人の前に一人の男が現れた。
「小生を呼ぶのは誰……って、先生じゃないですかい。お久しぶりですわ」
「ハーツ、先生と呼ぶのは止めろペン。むず痒くなってしょうがないんだペン」
「カカカ、そいつは失礼」
ハーツ、そう呼ばれたのは独特の訛りで話す若い男だ。長身で線が細く、猫人族と森人族のハーフでもある。その証拠に、藍色の髪が伸びる頭からは三角の耳が生え、臀部からは細長い尻尾も揺れている。猫人族の血が強いのか、エルフ族にあるような耳はないが、歳も今年で八十三になるという。エルフ族からすればまだまだ若輩だが、少なくともメメアと自称十七歳のソフィアよりは年上だ。
しかし、彼を最初に見て一番に目が行くのは耳でも尻尾でもない。紺のズボンと白いシャツ。その左側、本来左腕が通っているはずの袖がダラリと垂れているのだ。
つまり、彼は左腕を失くしている。もう片方の手には黒い鞘の刀が握られているが、常人が見ればとても戦えるようには思えない。柔和な黒い瞳も相まって、それが他人に抱かせるハーツの印象だろう。
「メメア嬢もお久しぶりですわ。ここに来るなんていつ振りですかねい」
「……お久しぶりですハーツさん。……暫く振りです」
「おぉう、随分テンションが低いですなメメア嬢。もしかして……」
「お前の考えている通りだペン。こいつ、五十万パルンも負けやがったペン」
「またそいつは。随分と豪快に負けましたねい」
ハーツもメメアのギャンブル癖は知っているのか、大した驚きはない。三角の耳を揺らし、カラカラと笑うだけだ。
「それで、今日は何の用で来たんで? まさか、小生とお話をするためだけに来たわけじゃないですよねい」
「当たり前だペン。今日はこいつ、メメアと一戦やってもらいたいんだペン」
「……ふむ。察するに、気分転換といったところですかい? 確かに、落ち込んだ気分の時は体を動かすのも効果的ですねい」
「話が早くて助かるペン。この馬鹿に付き合ってもらいたいんだペン」
「……お願いします」
「まぁ、所長に頼まれたなら断る気はないですぜ。今いる奴らにも良い教育になるでしょうしねい」
言うなり、ハーツは背後に顔を向けて声を上げた。途端、あちこちのエリアから鍛錬中の傭兵達が集まって来た。
「お前ら、今から小生とメメア嬢は模擬戦闘をやる。よく見て、経験に生かすようにしろい」
ここにいるのは、大概がクラス無しの傭兵だ。それも、戦闘系のクラスを目指している者ばかり。ハーツはこの鍛錬場の教官を務めているため、利用している傭兵達の信頼も厚い。その実力も、よく知っている。
対してメメア。彼女が依頼を受ける事はない。所長秘書の地位に就く前も、傭兵だった経験はない。つまり、その実力はあまり表に知られていない。
ハーツとメメアが戦うと聞いて怪訝な表情を浮かべる者もいたが、誰も反抗せずに鍛錬場の端に寄った。同じように端に移動した、ソフィアから少し離れて。
「……さて、メメア嬢。ハンデはどのくらい欲しいか?」
「……距離は五十。身体強化魔法は足のみ。……これでよろしいですか所長?」
「そうだペンね。ハンデはそのくらいで丁度いいペン。ルールは時間制限無し。追い詰められるか、どっちかが負けを宣言したら終わり。メメアはハンデはないけど、大規模な魔法は使うなペン」
「……はい」
メメアが頷くのを確認すると、ソフィアは足をペタリと踏み鳴らした。
ソフィア達のいる位置を境に、景色が僅かに歪む。
「空間魔法でお前らのいる所を少しだけズラしたペン。こっちには被害は出ないけど、周りの建物には魔法の効果が及ぶから気をつけるペン」
「また、片手間でとんでもない事をしますねい」
「伊達に所長を名乗っていないペンよ」
そりゃそうだった。カラカラと笑うハーツはメメアから離れた。
メメアは魔法を主として戦う。近すぎる距離は、近接特化のハーツに分がありすぎるからだ。それ故のハンデ。メメアの戦闘スタイルを知らないクラス無しの傭兵達も、ハーツの行動を見てそれを察した。そして食い入るように、二人を眺める。
「それじゃ、開始の合図はメメア嬢にお譲りしますわ。好きなタイミングで、やってくれい」
「……分かりました。では……」
ーー風よーー。
囁くように言った言葉。それだけで、前触れもなくハーツのいる場所から巨大な竜巻が現れた。
「初っ端から! また盛大にやりますわ!」
右手に持つ刀を振り、鞘を落としたハーツは大きく横に跳ねてそれを回避していた。その隙を逃さず、メメアは更に言葉を紡ぐ。
「ーー水と風よーー」
ハーツの周りに現れたのは氷の刃。鋭利な切っ先をハーツに向けたそれは、空中から高速で降り注ぐ。
「甘いねい」
ハーツが取った行動は前進。下半身に魔力を流し、身体強化魔法を使った彼は、行く先を邪魔する氷刃だけを斬り捨てて踏み出した。
身体強化魔法は流す魔力と、その熟度に依存する。魔力を流せば流すだけその部位の能力は上乗せされ、扱いが難しくなる。特に一定部位だけを強化すると、他の部位が強化された部位の動きについていけず、結果として負担は大きくなる。
ハーツは下半身だけに身体強化魔法を使っている。その分素早く行動でき、踏み込みも強くなるが、動体視力や腕がついていけるとは限らない。もちろん、強化される以外のメリットはある。消費する魔力は少なく済むし、長時間、全身に身体強化魔法を使う時に比べれば負担は少なくなる。しかし、それだけのために鍛錬を積む者は僅かだ。それ故に、一定部位の身体強化魔法は熟練者でも扱える者は少ない。
それはハーツも同じだ。いくら猫人族とエルフのハーフとはいえ、ハンデで下半身しか身体強化魔法を使えない以上、上乗せされた速度についていける反射神経は持ち合わせていない。だから、
「行きますぜい!」
ハーツはほんの一瞬だけ、身体強化魔法を使って踏み出した。加速は一瞬。継続速度は落ちるが、対人戦なら十分とも言える効力を発揮する。
「ーー水よ風よーー」
氷刃を蹴散らされ、爆発的な加速で一気に距離を詰められたメメアは、一瞬で前方に分厚い氷の壁を作り出した。詠唱句に迷いはない。これくらいならまだ予測の範囲内、という事だろう。
「まだまだ!」
氷壁の直前で止まって、楽しげな声を上げるハーツ。柔和な双眸を細めると、刀を真一文字に一閃した。
更に数度、刀を無造作に振るう。そして仕上げとばかりに氷壁に蹴りをかますと、聳え立つそれは細切れになって崩れ落ち始めた。
うそだろ、と声を上げたのはクラス無しの誰かだ。魔力で生み出された氷は、自然に存在するものよりも硬度が高い。もちろん魔法の使い手によって差は出てくるが、あれだけの氷壁を一瞬で生み出したメメアの技量が低いわけがない。
そんな氷壁を真っ二つに、そして一切の間を置かず細切れにしたハーツ。ソフィアを除く傍観者たちが唖然とする間も無く、再度、ハーツは下半身を強化して一歩踏み出した。メメアとの距離は五メートルもない。十分に、ハーツの攻撃の範囲内だ。
そして瞬間的な加速。刹那の内に間合いに入る。しかし、メメアの表情に焦りはない。次の瞬間には、鈍色の刀身が袈裟に振り下ろされるというのに、その場から微動だにせずハーツを睨めつけている。
正体不明の微かな違和感を覚える。が、身体強化魔法でブーストされた体はそう簡単には止まってくれない。選択肢はない。逡巡を振り払い、ハーツは全身を使って太刀を振り下ろした。
ーー邂逅は一瞬。
鈍色の刀身が無慈悲にも袈裟を描き、、メメアの体躯を斜めに斬り捨てる。……しかし、その断面から血は噴き出ない。ハーツの瞳に映るのは、まるで鏡を覗いたかのような自分の姿。
悟る。今、斬ったのは氷像。氷壁で視界が奪われた僅かな間に、彼女が作った偽物。それを認識すると、ハーツは慌ててその場から飛び退いた。が、
「残念ですね」
すっかり落ち着きを取り戻した、冷静な声がハーツの耳朶を打つ。同時に、右手に持つ太刀が異様に重くなった。
「っ!? やって、くれるねい……」
細長い刀身に、氷が不細工に纏わり付いている。間違いなく、あの氷像に何らかの仕掛けを施していたのだろう。
太刀は使い物にならなくなった。地面にでも叩きつければ氷は剥がれるだろうが、それをメメアが許すはずもない。
「終わりです。ーー水よ風よーー」
眼前を埋め尽くすように現れたのは、人程の大きさを持つ無数の鋭利な氷の槍。すでにトップスピードに乗っているそれは、ハーツを目がけて真っ直ぐに飛んでくる。
だが、この程度なら躱せない事はない。ハーツの両足は健在だ。身体強化魔法を使えば、或いは太刀で槍を打ち落とせば難なく乗り切れる。しかし、
「……流石だねい」
ピクピクと、冷静になったハーツの三角の耳が跳ねる。聞き取ったのは、背後から迫るのは巨大な竜巻。詠唱は聞こえなかった。となれば、最初に生み出したあの竜巻がそのまま迫ってきた、という事になるのだろう。
「これは、ちょっと……」
竜巻と槍の嵐の直撃を受けて、ハーツの台詞は聞こえない。そして巻き上がる砂煙に飲み込まれ、姿は見えなくなった。
☆
「……はぁ、はぁ」
砂煙に巻き込まれないよう大きく距離を取ったメメアは、荒く息を吐いた。
冷徹な黒い双眸に緩みはない。ハーツの実力を知っていれば、あの程度で倒せるはずがないと、彼女は知っているからだ。
「……流石に、無理をしましたね」
幾つもの魔法を同時行使。それも瞬時に判断が求められる場面であったからか、余計に魔力を消耗している。
魔法には、大まかに二種類ある。固定魔法と、自在魔法。前者は魔力を込めた言葉を使って行使する魔法。言葉に魔力を込め、精霊の力を借りるため自身の消費魔力は少なく、安定した威力が望める。その分、応用は一切効かないが。
後者は自身の魔力と外気に漂う魔素を練り上げて放つ魔法。術者の思うがままの性質を魔法には付与できるが、消費魔力は固定魔法の比ではない。
どちらも一長一短。基本的に魔法士はどちらかしか使えない。メメアもまた、基本的には固定魔法しか使えないが、彼女はそれの上位互換、精霊魔法を得意とする術者だ。
精霊魔法とはいわば、固定魔法に自在魔法の柔軟性を混ぜ合わせた万能の魔法。上位精霊と軽い契約を結ぶため、召喚魔法にも似た性質を持っている。
習得難度はかなり高いのと、魔力の消費さえ気にしなけば無敵にも近い力を扱える。その分、扱える属性は限られるが、固定魔法を使う魔法士なら誰でも憧れる魔法でもある。
メメアの場合は風と水の属性。そしてそれを複合させた氷の魔法。精霊魔法を使うだけでもかなりの技量を要するのに、そこから複合魔法を扱うのは一握りの魔法士しかいない。
メメアが傭兵として登録していれば、間違いなく名を残せただろう。ハーツに放った魔法の威力が、それを証明している。
……しかし、
「……やはり、足りませんか」
「やっぱり凄いねい、メメア嬢は。小生、あの世を覚悟しましたわ」
「そのまま、逝ってくれても構いませんよ? 殉職金くらいなら出す余裕はありますから」
「カカカッ。手厳しいねい」
無傷、ではない。左腕の通っていない袖は千切れ、紺色の髪はザンバラに乱れている。所々、微かな傷は見てとれるが、致命的な傷はなさそうだ。三角の耳も元気に跳ねていた。
太刀に纏わりついていた氷も剥がれている。柔和な双眸が崩れていないところを見る限り、気力もハーツには余裕がありそうだ。
「で、まだやるかい?」
「……えぇ。やられっぱなしは、性に合いませんので」
「カカッ。それでこそ、メメア嬢だわ」
その瞬間、ハーツの姿が消える。メメアは慌てて詠唱をし、暴風を自身に纏った。
ーー水よ風よーー。
ハーツは消えた訳じゃない。可視も出来ない速度で動いているだけだ。それだけでも十分におかしいが、今は頭から追い出す。メメアは水を生み出し、風で辺りに散らせ、周囲に雨を降らせた。
見えない程の速さなら、見えるようにすればいい。一帯を埋め尽くす雨ならば、ハーツの移動先は予測できるはず。水の一滴一滴にはメメアの魔力が僅かに宿っている。簡単に言えば、微かな変化も捉えやすい。ハーツがどんなルートを通っているのか、容易く把握できるのだ。
その目論見は間違っていない。今のメメアに超範囲の魔法を放てる魔力は残っていないし、例え身体強化魔法で自身を強化しても、ハーツの練度には敵わない。つまり、視界に捉えることは不可能だ。
雨で索敵をし、身の回りは暴風で守る。あとはハーツの位置を特定し、魔法を放つだけ。
機は一回のみ。魔力の残りを考慮すれば、外すと次はない。
メメアは鋭い双眸を細める。雨はハーツの位置を教えてくれる。直角に、直線に移動している。ちょうどメメアの周囲を、角ばった円を描くように動いている。
分かりやすい。いや、分かりやすくしてくれているのだろう。ならば、遠慮はいらない。
「ーー水よ風よーー」
ハーツが方向転換に止まる僅かな瞬間。そこを狙って彼の両横に氷壁を生み出す。大きさも厚さも長さも、そして硬度も先ほどの比ではない。必然と、真っ直ぐ、氷壁に挟まれるような道が出来上がる。道の上にいるのはメメアと、ハーツだ。
これは賭けだ。ハーツの進む先にはメメア。逃げ道はない。彼がメメアの元にたどり着くのが先か、メメアが魔法を放つのが先か。
ニヤリと笑うハーツの姿が見える。それは一瞬。次にはすでに掻き消えている。
接近されたメメアに打つ手はない。氷像の身代わりも、ハーツに二度は通じないだろう。だからメメアは、この瞬間に勝負をかけた。
「ーー静水よ豪風よーー!」
役割を果たした降り注ぐ雨と、身に纏う暴風は消した。代わりに生み出したのは、鋭利な切っ先を光らせる巨大な
眼前に作り出した氷柱は、後押しに発動させた風の魔法で一気に加速する。そして、甲高い音が響き渡った。
氷柱越しに透けて見える歪んだ景色。氷柱の切っ先に対抗するように、ハーツが太刀を振り下ろしていた。
ーー足りない。これだけの質量をぶつけても、貫くにはまだ足りない。
やはり、ハーツは強者だ。魔法士に有利な遠距離で戦い、ハンデを与え、それでも余裕を崩さない。元殲滅者のクラスは伊達ではないという事だ。
素直に、尊敬できる。同じ殲滅者のクラスを持っている他の傭兵と比べても、彼の腕は明らかに抜きん出ている。
ーーだからメメアは、最後の策を使った。
「っ!?」
ハーツのバランスが突如崩れる。まるで何かに滑ったように、身体が前傾になった。
「ちっ!」
よく見れば、彼の足元に薄い氷が張っていた。当然、ついさっきまではなかったものだ。
それが、メメアの最後の手段。残った魔力をかき集め、ハーツの足元に氷を張る。姑息で地味な、盲点。しかし、有効的だ。勢いのついた踏み込みをしていれば、誰であれ足を滑らす。
剣士であるなら、その恐ろしさは理解できるだろう。まして鍔迫り合いをしている最中なら、尚更だ。崩れた身体で剣など振るえない。魔法士のメメアも、その程度なら知っている。だから、その手を使った。
カジノなら、こんな手は使わない。だがここは、ハーツとメメアの戦場だ。模擬戦とはいえ、勝ち負けは生死に直結する。だから、卑怯という汚名は受けよう。しかし、メメアも勝負には負けたくない。
「……これで、終わりです」
限界まで魔力を使った影響か、視界が霞む。だが、まだ倒れられない。ぐらつきそうになる足で踏ん張り、氷柱の行く先を望む。
「ーーなかなか良かったねい、メメア嬢。だけど、まだ足りないわ」
独特に訛った、軽妙な声音。そしてメメアは、目を見張った。
目の前には尻尾をくねらせるハーツの姿。その背後、氷柱は真っ二つに断ち切られて地面に落ち、左右に伸びる氷壁はガラスのように砕け散っている。なぜ、と疑問に思うより先に、メメアの視線は穿たれた地面を見つけた。
まさかと驚愕し、答えを導き出す。意識するよりも早く、震える声は口から出ていた。
「……あの場面で、更に身体強化魔法を?」
「ご明察。まだまだ爪が甘いねい、メメア嬢」
あの体勢で身体強化魔法を重ね、力づくで踏み込み、氷壁すら巻き込んで氷柱を断ち切った。
字面にしても、ありえない。それをこの男は、容易く成し遂げた。
「それで、小生の勝ちでもいいのかな?」
「……ふふっ……当然です、よ」
メメアの視界はあっさりと暗転した。倒れる身体をハーツは受け止め、勝負は終わりを迎えた。
☆
「随分と遊んだペンね、ハーツ」
「折角の魔法士相手。色々試さないと損だしねい」
ゆっくりと歩いてきたソフィアに、ハーツはメメアの身体を渡す。かなり身長差はあるが、ソフィアは難なく受け止めた。
「それにしても、お前の身体能力はどうなっているんだペン。久しぶりに見ると、やっぱり不可解だペンね」
「小生は獣人の血が強いからねい。特に、猫人族は素早さが売りだ。身体強化魔法との相性は抜群だよい」
「素早さで腕力はカバーできないペンよ。……まぁ、今更だペンね」
ため息を一つ。ソフィアはメメアに目を落とした。
「ま、これでメメアの気も紛れたペンね。まさか魔力切れの寸前まで戦うとは思わなかったけどペン」
翼状の手を使って、メメアの乱れた黒髪を整える。瞼は閉じられ、顔色も悪いが、心なしか今朝より気力が満ちているようにも見える。
「所長はこのままお帰りで?」
「そうだペン。仕事は山積み。今日はメメアの助けも借りられないから、徹夜だペンね」
「何なら、小生も手伝いましょうかい?」
「大丈夫だペン。職員で使えそうな奴を、何人か引っ張ってくるペンね」
メメアを抱え、踵を返して歩き出したソフィア。それじゃあ、と後ろ手に翼を振って、この場を後にした。
「……所長も大変だねい。さて」
ハーツも仕事に戻る。傍観者たちに今の戦闘の解説をしなくてはならないのだ。
「お前ら、集まれ! 今から講習を始める!」
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