第11話 降参
鵜森のプロフを完成させて以来、初めて不良達に呼び出されたのは、次の日のことだった。
「室町、一秋いる?」
昼休み、教室を埋め尽くしていた喧騒が、一瞬で静まった。
教室の入口に立っている、その男子生徒。彼の発した声は、一秋の耳にまっすぐ届いた。
シャツはズボンに収められておらず、髪は明らかに染色されている。校則に真っ向から反抗するそいつが、真面目な一秋の友人だなんて誰も思ってくれはしないだろうし、事実そうではなかった。
一秋は、開こうとしていた弁当を閉じる。
昼食を取る約束をしていた友人には一言「先に食べてて」と言って、席を立った。
憐れむような視線の中、教室を出る。相変わらずこの雰囲気には慣れないが、仕方ない。
「今日は、ずいぶんと出てくるのが早かったな」
一秋を呼びに来たその男はにたりと笑う。
「はは……」
適当に、笑って合わせる。
この不良は直接一秋から金銭を巻き上げるわけではない。しかし、不良グループの一員であることには違いない。
しばらく歩いたところで、体育館が見えてくる。
あの裏に自分を金ヅルとしか見ていない輩がたむろしていると思うと、一秋は今にでも胃が痛くなりそうだった。
しかし、これも今日で終わるのかもしれない。
分からない。
一秋は、これから自分がどういう行動をとるのか予想だにできなかった。
ただ、奴らに一矢報いることができるならという、静かな反逆心があったことに間違いはなかった。
「よう。久しぶりだな」
三白眼と金髪が一秋の中から意思を取り去って、恐怖のみを残す。
体育館裏は教室棟からは影になっていて、何をしようが見られることはない。
こうもいつものように溜まっていれば目を付けられていそうなものだが、もう見て見ぬフリをされているのだろう。
カツアゲ行為の際に誰かの目を気にする様子もなければ、実際に誰かが来たこともない。
「最後に呼んだのいつだっけな?」
「えと、一週間前」
「そんな最近だっけ?」
金遣い荒いからだよ~と鼻につく女声が聞こえてくる。
ニヤニヤ、ヘラヘラと。
今から他人を恐喝しようという人間の緊張感ではなかった。弱者が虐げられるのは当然だと言わんばかりの、生温い雰囲気であった。
ここの空気を吸っていると、一秋はどんどんダメになってしまう。
やろうと思えばいつでも殺せるんだという、一丁前な余裕だけがあって、自分から何かをしようという気持ちは汗と一緒に流れていく。
この汗が、果たして夏の暑さによるものなのか、恐怖によるものなのかははっきりしない。
「さあて、じゃあ、もらうとしますか」
慌てて財布を尻ポケットから取り出す。そして、三枚の千円札をすっと差し出す。
「今日はずいぶんと素直だな。でも、ちょっと額が少ない」
「え、うん。ごめん」
鵜森の口調は、暴力をふるう時のそれではないように思えた。感心している、という表現が相応しい。
それが分かった瞬間、一秋の中にある怯えは消えていく。
そして、まさに負け犬のような、媚びへつらう卑しい感情が湧き上がる。
もしかすると、いつかは和解できるのかもしれない。
自分が不良達の運命を握っているという優越感どころか、許してもらえるかもしれないという気持ちにすり替わっていた。
そうだ、もしかしたらこいつらは悪人じゃないのかもしれない。
あれだけ憎たらしかった人間を、どうしてか肯定しようとしていた。
やたらに殴るわけじゃない。俺が素直に従っていれば、何もしない。そう考えると、そこまで悪人だと言うわけではないんじゃないか?
もし、そうなら、俺は鵜森をイトウに紹介してしまえば責任をとることはできない。きっと、後悔する。
一秋の心は、また揺らぐ。
自分でも、どこかで踏ん切りを付けなければ何も変わらないことは分かっている。今だって、葛藤している。
何が正しいことで、何が正しい選択なのか。
しかし、そこに保留という選択肢があるのも事実だった。それがある限り、一秋は迷い続けるだけかもしれない。
迷って、決めて、また迷う。
今じゃなくてもいい。本当に、この問題を解決しなければいけないときがくれば、そのときにはきっと。
「じゃ、俺は教室に戻るから……」
一秋は振り返って、教室に帰ろうとした。
「おい」
一秋が財布をポケットに戻そうとしたときだった。鵜森の、声色が変わった。
自分より一回り大きな鵜森の表情を、少し見上げるようにして伺う。
笑っていた。それは一秋にとっては、なんだか嫌な笑みだった。
「財布も置いていけ」
「え?」
「え、じゃねえって。財布も置いてけって言ったんだよ」
一秋は、このまま何事もなく帰ることができるものだと思っていた。
殴られないのであれば、他に何も心配することはないと思い込んでいた。まさか、財布を要求されるとは考えていなかった。
「いや、この財布は、ちょっと」
「はあ?」
一秋が今、持っている財布は彼にとっては少しばかり――いや、かなり特別なものだった。
中学の入学祝いとして、両親から送られた財布。
決して高価なものではなかったが、それは千春とペアになっていた。
千春には桜、一秋には
中学からずっと、一秋はその財布を愛用していた。今では、一秋が双子であったことを象徴する数少ないアイテムのうち一つである。
そんな大切なものをどうして今、持っているのかと言われれば、それは一秋の意地と余裕だった。
不良共に取り上げられるのが怖くて、持ち歩かないというのは癪だったし、それに大した高級品でないものに目をつけることはないだろうと思っていた。実際、今日まで財布に興味を示したことは一度もなかった。
だから、この財布に目を着けられるなんて思ってもいなかったのだ。
「これは、大切なもの、だから」
「だから?」
「ごめん」
一秋がその言葉を言い切るか言い切らないかで、腹部に衝撃が走った。
「痛っ」
鵜森が放った蹴りは、おそらく手加減されていたに違いない。
しかし、二人の対格差はかなりのものだ。貧弱な一秋はその程度でも、為す術なくうずくまってしまう。
「……なんで?」
「そりゃ、お前が言うこと聞かないからだろ。人の言うこと聞かないとこうなるってのは小学生でも知ってるぞ」
財布を欲しがったところからいつもと違っていたが、手を出すまでがいつも以上に早かった。さっきまでの、上機嫌が嘘のようである。
一秋が調子に乗った発言をしたわけではない。むしろ、機嫌を損ねないように気を遣って言葉を選んだはずだった。
にも拘わらず態度は豹変し、 こうして足蹴にされ、ついには地面に這いつくばるような体勢になる。
そして、手に握った財布をあっさり、もぎ取られる。
握っていたつもりだったが、まるで机の上にあるグラスを持ち上げるかのように、すっとだ。
「どこかで売れば、多少は金になるな」
鵜森の小遣いのために、あの財布は消えてしまうのか。そう思うと、一秋は耐えられなかった。
「返して……」
一秋は再び立ち上がって財布に手を伸ばす。
どうしてこんなにか細い腕なのか、と一秋自身が思ってしまうほどだった。あっさりとはじかれて、また倒される。
しかし、もう一度、立ち上がる。
もちろん、自分より強大な相手に敵うわけもなく、あえなく倒される。
そして、また。
それから数度、立ち上がった。
半ば、無意識だったと言ってもいい。一秋はどうして自分がそこまでしているのか、自分でもよくわかっていなかった。
「しつこいな!」
さすがに頭に来たのだろう。それまでとは比にならない程に力の籠った蹴りが入った。
ただでさえ立っているのがやっとの状況で、ふらふらだったのだ。避けられるはずはなく、直撃。
体力的にも立ち上がれなくなってしまい、激しく咳込む。
一秋のそんな様子を見てか、周囲の仲間が鵜森を止めにかかる。
別に一秋のことが心配だというわけではないだろう。大事になって、自分達に飛び火するのが怖いというだけだ。
俺もここまでよくやるな、と一秋も内心で苦笑する。何やってるんだ、と馬鹿らしい気持ちになる。
痛い、痛いな。教室に戻ったら、陰口なんて言われるんだろう。トイレで汚れを落としてからにしよう。それから、保健室で擦り傷を消毒してもらって。そういや、次はなんの授業だっけ……数学か。でも、今日は宿題も出てないし、ラッキーだったな。ラッキー、うん、不幸中の幸いって、こういうことを言うんだろうか。
顔に当たるコンクリートの地面は、ひんやりとしていた。
どうやらここは昼過ぎになってもまだ太陽は当たらないようだ。どうりで不良がたむろ場にするわけだ。
不幸、不幸か。
もし、こいつらがいなければ俺は幸せになれるんだろうか。少なくとも、いまよりはずっといい生活が待っている、気がする。千春はもういないけど、美奈も、友達も少しいる。普通の高校生活は送ることができる気がする。その代わりにこいつらを殺す? いや、殺すわけじゃない、けれど、他人を害して得た日常で、俺は満足できるのか。誰かを犠牲して手に入れた平和を、俺は本当に望んでいるのか。
「お前も、そこで寝てないで、早く教室に帰れよ!」
鵜森をなだめている一人が、一秋に言った。むかつくなあ、と言外に言われているような、そんな口調だった。
俺が、お前ら如きの人生のために耐えて、考えてるのに、どうしてこいつらは、何の躊躇もなく他人を傷つけて、自分さえよければそれでいいなんて思考でいられる。どうして、俺にはそんな簡単なことが、簡単にできないんだ。分からない。何が正しくて、何が悪くて、俺はどっちで、あいつらはどっちなんだよ。分からない。分からない。いつになったら、俺は、何をどうしたいか分かるんだよ! なんで、俺は……何に迷ってるんだよ! 分かってるのに、分からない。分からない。分からない――。
「おい!」
誰かが放った怒号。
一秋の頭の中で、何かが音をたてて弾けた。
未だ完成像の見えないまばらに組み合がったパズルが、またバラバラになる。そんな感覚に似た衝撃が走った。
ああ、もういい。もう、どうでもいい。
『アキってば頭はいいけど、弱っちいじゃん』
一秋は、体の節々が痛むのを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。
『生きていくためには必要なこと。当然だから、罪悪感を抱くはずない』
大げさにしているわけでは決してない。多少、殴られ蹴られたくらいでふらつくなんてと、一秋は自分の貧弱さに嫌になる。
『ごめん……何か、何も、してあげられなくて』
そこにいる不良共が嫌悪のこもった視線を一秋に向ける。早く帰れよと、言いたげである。
『あなたが、きっと優しいからなのかな』
一秋は、一言、彼らに向けていった。
「最後の、チャンスだ。財布を返してくれ」
一瞬、時が止まったかのように、不良達は静かになった。
彼らが自分を呼び出すときの教室は、似たような様相を呈していたなと、一秋は思った。
それもほんの一瞬で、蓄えた何かを吐き出すように鵜森は動き出し、周囲がなんとか止めている状態。
「返すわけないだろ、このごみ虫が!!」
「おい、やめろって。お前、ホントに帰れって!」
その場にいた皆が、まるで一秋が悪者であるかのような非難の目を向ける。
連行され、殴られ、奪われた一秋が間違っているかのように怒鳴る。
それはそうか。鵜森だけじゃなくて、お前らみんなそっち側だもん。
もう、いい。
最後のチャンスを失ったんだよ。お前達も、俺も。
一秋は、諦めたようにその名前を呼んだ。
「イトウさん」
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