第10話 七月


 いつもの帰り道、辺りは七月のジメジメとした空気に包まれている。


「今度のテストこそ、私が勝つよ!」


 そんな空気に負けないような――それとも負けないようにか、美奈が陽気に言って見せた。

 一秋は、どんよりとした空気に押し負けていた。彼を憂鬱にさせる理由は夏の暑さと一週間後に控えた期末考査だけではなかったが。


 高等部になってから、二度の試験があった。学校の中間考査と、全国模試。

 約200人の校内で美奈はどちらも一桁台という優秀な成績を収めていた。それでも校内一位、全国でもトップクラスの一秋とはかなりの学力の差があった。


「まあ、頑張って」

「はあ? そんな余裕出して……じゃあ、私が勝ったら私の願いを一つ叶えてもらうから」


「はいはい」と、一秋は彼女を適当にあしらう。

美奈はその態度に、なんやかんやと文句を付けてはいるが、決して本気で怒っているわけではない。


「そういえば、最近どう?」

「どうって、いつも通りだけど」


 最近と言われれば、思いつくのはイトウのことばかりだ。美奈が何かに勘付いているのではないかと思わずにはいられない。


「美奈はどうなんだよ?」


 少しばかり焦った一秋は、とっさに美奈に聞き返した。話題を変えるほどの余裕と気力はなかった。


「私? え、私はね……テスト勉強しかしてないなあ。アキが手を付ける前からやらなくちゃと思ってさ」

「相変わらず、燃えてるなあ」

「当ったり前。一応、私の全ての中で一番優れているのは学力なんだよ。身近に自分より勉強ができる人がいたら燃えるでしょ」


 勉強に関して美奈は一秋へのライバル心を隠さない。それでいて口だけでなく、相応の努力をする。

 しかし、それをそこそこの努力と才能で凌駕するのが一秋だった。そこそこの努力と言っても一秋にとってはそれが最大限ではあったが。


「燃えてる割に、脂肪は燃焼できてないんじゃない?」


 一秋は笑いながら、冗談っぽく言う。


「えっ」


 美奈の表情が、凍り付くのが分かった。それを見て、一秋もぎょっとする。


「いや、冗談」

「嘘! 冗談じゃないでしょ。ホントに? 体重は少ししか、変わってないんだけど、やっぱり太った?」


 本当に冗談のつもりだったのだが、美奈のあまりの激しさに軽口を叩いたことを後悔した。彼女がここまではっきりと動揺した姿を見せるのは珍しかった。


「うわあ、最悪。ホントに? 嘘なんでしょ、噓って言ってよ」

「……冗談って言ってるじゃん」

「いやいや、その顔は本気だ! もう嫌だぁ……」


 何て言えばいいんだよ。

 一秋は、今度から彼女の体重については触れないでおこうと決めたのだった。


「そうなの……これが、私の最近の悩みなんだよねぇ」


 部活には所属していない美奈だが、それほどスタイルが悪いわけではない。むしろ、いいくらいで、体重について美奈以上に悩むべき人間が一秋のクラスには数人いる。

 悩みというには、ずいぶん些細なことなのではないか。一秋はそう思いながらも、


「へえ」


 とだけは、言っておいた。


 それから、二人は無言になった。

 さっきまでわあわあと喋っていた美奈は、一秋とは反対側の風景を眺めるようにして表情を見せない。


 その気まずさを感じさせる雰囲気を作りだしたのは美奈だったが、それを破ったのもまた美奈だった。


「ね、アキ」


 しばらくして美奈が突然に振り返り、神妙な面持ちで言った。


「アキには、悩みとかないの?」


 さっきの質問といい、一秋は意味深な言葉の裏を読まずにはいられなかった。


 これは何かに気が付いているに違いない。一秋は、確信した。


「私に何か隠してることない?」

「えっ」

 

 美奈が、追い打ちをかけるように質問を重ねる。


 隠していること。


 そう言われて真っ先に思い浮かんだのが、イトウのことだった。


 しかし、そのことを美奈が知っているはずはない。喫茶店内の様子は外からでは見えにくく、店を出るタイミングもバラバラだ。二人が一緒にいるところが目撃されているわけはない。


「何で?」


 幼馴染の勘というやつなのかもしれない。何となく違和感を感じているだけで、本当は何も知らないのではないか。

 そう思って、一秋は平静を装って美奈に聞き返す。 


「いや、その」


 言いにくそうに、美奈は視線を落とした。

 一秋の予想は、どうやら外れてしまっていたようだ。


「……間違ってたら、ごめんだけど」


 彼女が物言わぬその間にも、二人はゆっくりと歩みを進めている。

 さっきまでの、和やかな雰囲気はそこにはない。


「あの、いじめられてたり、しない?」


 その言葉を聞いて、一秋は頭が真っ白になる。


 一瞬よぎったのは、イトウのことじゃなかったのか、という安堵の気持ちだった。

 しかし、すぐに美奈の言葉のショックが込みあがってきて、頭の血が全身に流れ込むような感覚に襲われる。


 それだけは、彼女に知られたくなかった。

 いや、知っていても不思議ではないことくらい一秋にも分かっていた。ただ、その事には蓋をしておきたかった。


「違ってたら、安心なんだけどさ。ちょっと、話で聞いたから……」

「え? ああ……」

 

 何と言えばいい。否定するのか、肯定するのか。


 一秋が迷っている間にも、パタパタと、二人の不揃いな足音は鳴っていた。


「そう、うん。たぶん、間違ってないよ、その話は」


 一秋は意を決して打ち明けた。


 美奈の眼の色が変わる。

 心配、同情の眼差しだと思うと、一秋はいたたまれなくて、その場から逃げ出したくなる。


「ごめん……何か、何も、してあげられなくて」

「美奈が謝ることじゃないよ。それに、大したことじゃないし」


 一秋からすれば不良共は恐怖の対象だったし、大したことはないというのは見栄だった。

 そのまま惨めな気持ちでいるのは耐えられなかった。


「それも、もうすぐ解決するんだけど」


 気が付くと、一秋はぽろっとそんなことを口にしていた。


「そうなの?」

「うん。いろいろあってさ、もう手は出さないことを約束してくれるんだよ」


 嘘ではない。その気になれば、その望みは叶うのだから。

 しかし、本当でもない。一秋はそうするかは分かっていないからだ。


「それなら、大丈夫なのかな」

「大丈夫だよ。だから、心配しないでさ、何も気にしなくていいよ」

 

 千春がいなくても、しっかりしなくちゃ。


 その一言を付け加えようとしたが、やめた。

 のどまで出かかった言葉を抑え込んだのは、美奈はまだ千春の死から立ち直れていないからだった。

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