第8話 封筒
――私に協力する気があるならば、これを開いて中を確認しておいて。
そう言ってイトウが残していった、大きな茶封筒。
一秋は、それを自室の学習机の引き出しにしまっていた。小学生のころから愛用している机の上は、昨日使った参考書が置かれている以外はきちんと片付いている。
どうしてそんなところなのかと言えば、目に付くところに置いておくとふと気まぐれで開けてしまうかもしれなかったからだ。
かといって、一秋は意志の固さに自信があるわけではなかったので、自分がイトウに協力する気にならないとは言い切れない。
押入れの中にでもと最初は考えたが、そうなると取り出すときに苦労するなと思ったのだ。
つまり、その保管場所はまさに一秋の迷いを象徴している言える。
そして、その日――彼が初めてその封筒を開けることになる日、一秋の機嫌は悪かった。
イトウに会ってから一週間で、初めて不良に絡まれたのである。
昼休み、また体育館裏に呼び出された。
しかし、一秋はいつも以上に従順に振る舞った。金銭を要求されて、素直に紙幣を財布から引っ張り出して渡した。
ただ、大きく違っていたのは一秋の心境である。
――その気になれば、本当にこいつらを殺すことができるのか。
一秋がちらりとそう思ってしまったことには間違いなかった。
気持ちが態度にも行動にも出ることはなかっただろうが、それが関係しているのだろう、気に食わないと暴力を振るわれた。
とはいえ、それから午後の授業、塾の講義もあって時間は経っている。
今は腹が立って仕方ないというわけではない。
怒りは喉元過ぎて、ほとんど忘れかけているくらいであった。封筒が視界に入るようなことがなければ、何も起こることはなかっただろう。
だが、一秋はたまたま机の引き出しを開けたのだ。
翌日の朝礼のために、校章を制服に着けなくてはならなかった。それもまた、引き出しに保管していたのである。
そうすると、封筒が嫌でも目につくことになる。
もちろん、まだ一度も開封していなかった。いつもなら、手に取ることさえしなかったかもしれない。
しかし、昼の怒りの余熱は、確かに一秋の中にあった。
別に、協力すると決めたわけじゃない。ただ、中身をみてみるだけ。これは純粋な好奇心だ。
一秋はそう心の中で呟きながら、その大きな茶封筒を持った。
何が入っているのか、それなりに厚さがあり、ずっしり重く感じる。その重さは一瞬、開封することをためらわせた。
開けてしまうと、後には戻れないような気がする。
しかし、今このときに限って一秋は思いきりがよかった。いや、ただ単純に考えることに疲れていたのかもしれないが。
迷いを断ち切るように一秋は封筒を開けた。引き裂いたと表現できなくもない。
中に入っていたのは、数十枚の紙であった。
担任が、生徒から集めたテストをこんな封筒に入れていたなと一秋は思った。
『一秋くんへ』
見出しにそうかかれた紙が、一番上に置かれていた。イトウからの手紙のようだが、とりあえず先に他のプリントを確認する。
「何だ、これ」
一秋は自分しかいない自室で、思わず声を漏らした。
数十枚ある紙は、全て同じものだった。
名前、性別、血液型──様々な情報を記入する欄が用意されていて、それは、プロフィールと言えばいいのだろうか。
生年月日、特技、趣味、長所、短所──。
これにどのような意図があるのか。まったく読み取ることができなかった。結局、一番上にある紙に目を戻した。
やはり、ざっと見てみるに手紙のようである。
一秋くんへ
この手紙を読んでいるからには、きっと自分の意思で封筒を開けたのでしょう。だからといって、必ずしも協力してくれるわけではないのだろうけど、少し嬉しいです。
それはともかく、一秋くんのことだから、きっとこの手紙を読むよりまずプロフに目を通しているのではないでしょうか。
私の大好きなお遊びは省いて、それについて説明しておきます。
私は人間の記憶を食べて生きています。悪人の記憶ほど美味ですが、私はその判断をする価値観を持ち合わせていません。
そこで、一秋くんには身近な人間で悪人だと思う人物を私に紹介してほしいのです。代わりに、その人間の記憶を一秋くんにとって無害、もしくは有益になるように改変します。
それは先日お話した通りですが、以下の三つは便宜上説明しなかったので、この手紙に書いておきます。(重要!!)
1.私が食するのは、プロフが大方正しく埋められた人間だけに限ります。できるだけ、正確に記入してください。
2.私はいつでも、一秋くんの声が届く範囲にいます。私が必要なときは小さな声で名前を呼んでください。
3.私を呼び出してすぐ、対象のプロフを提出してください。それから、食事を始めます。
そこまで厳密ではないので、安心してください。できるだけ、努力してくれれば構いません。
当たり前ですが、手紙越しに心を読むことはできないので、君が今どんな思いなのかは分かりません。
ただ、君が私を助けてくれるなら、私は必ず君を助けます。
P.S 置いていった500円でいいペンを買ってください。
封筒を確認しても、プロフの束とその手紙以外のものは何も入っていなかった。
開ける前にはあんなに重く感じた封筒が、軽々としている。
拍子抜け、というのが一秋の正直な感想であった。何かが起こることを、期待していたのは間違いなかった。
確かにプロフが必要だなんて話は聞いていなかったのでそれは重要な情報ではあったが、何かが変わるほど大きなことではない。
なんだ、と思って一秋は封筒を閉じて片付けようとした。
いや、違うだろ。
何か、違和感があった。大きな、思い違いをしているような。
一秋は、電光スタンド一つが照らす部屋の中で考える。
そしてやがて、はぁ、と嘆息一つを吐いてみる。
なるほど、変わるか変わらないかは、自分が選ぶか選ばないかとイコールなのか。
一秋は自分の勘違いに気が付いた。
イトウが現れたこと自体は変化ではなく、目の前に選択のチャンスが現れたに過ぎないのだ。
イコールでなかったところが、イコールになるチャンスが。
いままで、不良達を一瞬で消すようなことはできなかった。それも、自分にまったく責任が及ばないなんて、どの選択肢を探してもなかった。
それが、今はある。
一秋の決定次第でどうにでもなるが、あくまで決定次第である。
そうしようとしなければ、今と何も変わるはずはない。
しかし、一秋は心のどこかで、自然に問題が解決するような気がしていた。現実離れした出来事に直面したために、いま自分がいる世界はイトウと会うまでと同じ世界であることを忘れてたのだ。
だから、一週間も何もせずにぼんやり過ごしていた。
川の流れの中で石が丸くなるように、時の流れが自分を取り巻く環境を変えてくれると期待してしまっていたのだった。
勝手に世界が自分を中心に回ってはくれないし、地に落ちた金貨は拾わなければ手には収まらない。
そんな当たり前のことを忘れていた。
しかし、今、そこに金貨はある。今まで何もなかったところに、確かにある。
それをいま、一秋は再認識した。
だったら、どうする。
イトウに協力するのか、しないのか。
やらずに後悔するより、やって後悔するべきだ、なんて。
千春にも、そんな受け売りの言葉を振り回していた時期があった。
とりあえず、やってみるだけ。できるだけ。
姉のように即決、というわけにはいかないけれど、これは一秋なりの覚悟だった。
一秋は封筒の中から、数枚の紙を引っ張り出し、鞄に押し込んだ。
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