第7話 今朝


 翌朝は、いつもと変わらない朝だった。


 目覚まし時計のアラームの音で目覚めて、学校に行く支度をして、朝食にはトーストにマーガリンを塗って食べた。


 現実離れした昨日の出来事なんて、まるで嘘だったかのように感じていた。

 全て夢だったんじゃないかと思いもしたが、制服のズボン右ポケットに入った500円硬貨と、持ち帰った茶封筒がそうではないことを証明した。


『貴方の欲しかった強さって、きっとこういうことだよ』


 学校に行く道すがら、ずっと一秋は考えていた。


 もうイトウが怪物だということを疑ってはいない。人間の記憶を食べるというのも目の当たりにしたわけではなかったが、筋は通っていると思われた。


 そして、イトウの提案に乗ることは、人殺しに加担するようなものだった。身勝手な理由で、他人の人生を奪うわけにはいかない。


 しかし、一秋の道徳的な思考とは裏腹に、ある顔ぶれが脳裏にちらつくのである。

 それはもちろん、一秋をカツアゲの対象にしている不良達の顔だ。


 一秋が彼らから受けた危害は――それが記憶を食されることに相当するほどではないにしても、一方的であった。

 報復を受けたとしても、大きな声で文句は言えないことだろう。人格を書き換えられるなら、どのみち文句は言えないが。


「アキ、 おはよう」


 電車を降りて改札を抜けたところで、美奈に後ろから呼び止められた。

 同じ電車に乗っていることがほとんどなので、さほど珍しいことではない。ただ今日の一秋は、昨日嘘をついたことで、美奈に若干の罪悪感を感じていた。


「美奈か。おはよう」

「昨日は観たい番組は見れた?」

「まあ、見れたよ」


 それを聞かれるのは当たり前といえば当たり前なのだが、内心焦らずにはいられなかった。


 もしかしたら昨日、俺の姿を見ているのかもしれない。その上でかまをかけている可能性がある。

 人の心が読めるというイトウとの一件のおかげで、一秋は必要以上に疑り深くなっていた。


 そんな一秋の心配は美奈の、

「いやあ、昨日はドーナツ全部百円で、ラッキーだったわあ」という満面の笑みを見る限り杞憂だったようである。


 美奈のドーナツ談議に付き合って歩いているうちに、「喫茶paraiso《パライソ》」の前を通りかかった。店の扉には「closed」と書かれた札が垂れ下がっていた。


「どうしたの?」

「いや、この店のココア美味しいんだよ」

「ええ! こういうオシャレな店に行くことあるんだねぇ」


 露骨に驚く美奈。

 どういう意味だよと聞き返すまでもなく、そういう意味だろう。つまり一秋はオシャレな喫茶店とは無縁な冴えない男だと思われているということだ。

 無論、一秋もそう思われていることは知っていた。


 とはいえ、はっきりとバカにされて、ちょっぴり見栄を張りたくなってしまった一秋は得意気に言ってみせる。


「俺もそれまではこんなオシャレな店は敬遠していたんだけどさ、『ここの常連だから』って連れてこられちゃって。オススメはココアだよって言うから飲んでみたら美味しかったよ」


 正直、味も何も分からなかったが。それどころではなかったのだから。

それにイトウが本当に常連だったのかどうかも怪しい。


「へぇ、誰と行ったの?」

「大学生の、友達」


 イトウのことを「人間の記憶を食べる怪物」だと説明するわけにもいかないだろう。

 友達でもなければ大学生でもないだろうが、とりあえず一秋はそう言った。

 

 すると「そうなんだ」と美奈が小声でつぶやく。

 一秋の交友関係をほぼほぼ知りつくしていると言っても過言ではない美奈は、不思議に思ったこともあったようだが、特に追及するしようともしなかった。

 一秋は一秋で、その大学生との関係について聞かれるだろうと思っていたのだが、少しばかり拍子抜けであった。


 漂う、妙な沈黙。


 一秋の頭の中に、ぱっと浮かんだのはある一つの話題だった。

 

 ――もしも、誰にもバレないで悪人を殺せるとしたら、どうする?

 

 これは一秋自身の問題ではあるが、ひとりの手に負える問題ではないように思えた。誰かに相談できるなら、相談したいところだ。

 しかし、これが一秋の口から出ることはない。


 千春の死。


 気にしすぎかもしれないが、美奈がそれを連想してしまう可能性があったからだ。


 確かに二人の関係は千春の死以前と変わらなかったけれど、それだけはタブーのようになっていた。

 一秋がではなく、美奈がその話題を避けようとする。

 

 一秋の中では、それはもうほとんど精算された過去であった。いや、無意識のうちに何も考えなくなってしまったのかもしれないが、とにかくひと段落はついていた。


 しかし、美奈の方はそううまくいかないようで、ずっと何かを引きずっているようであった。

 あれから三ヶ月しか経っていないことを考えれば、さほど不思議なことではない。

 

 そのため、もっとも信頼できる美奈には相談できない。

 イトウへの協力について、一秋は一人で答えを見つけなくてはならないのだった。

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