第3話 黒蝶

 やがて駅の正面入口が見えたあたりで、一秋は立ち止まった。

 自然に足が止まった、といった方が適切か。


 入口前の広場。

 駅構内から漏れる光で明るく照らされたそこで、男子生徒の五六人が地面に座りこんでやかましく談笑している。


 一秋の表情は、次第に苦虫を噛んだような表情へと変わる。


 彼らは一秋から金銭を巻き上げた不良達であった。

 そのときと同じメンバーが全員いるというわけではない。しかし、その一派がそこにいることに間違いはなかった。


 一秋は、また考えてしまう。

 ああ、もし美奈と一緒にドーナツ屋に行っていれば、ここで奴らと鉢合わせすることはなかったかもしれない。


 当然、一秋は駅に正面から入ることを躊躇した。同時に、回り込んで裏の入口から入れば彼らに気が付かれなくて済むだろうと考えた。

 しかし、そうすると余計に五分はかかってしまうことになる。自分に非があるわけでもないのに、わざわざ時間を無駄にするのは納得がいかない。

 かといって、正面入口は……。


――アキってば、弱っちいでしょ。


 かつて千春に言われた言葉が、頭の中で響く。


 弱っちい、ね。

 そうだな、俺は弱い。体格も貧弱なら、精神的にも脆い。

 けれども、それがどうした。

 そんな俺が虚勢を張ったところで、強がったところで何の意味もない。どうせまた後悔するに決まっている。

 同じ間違いを繰り返し、学習もできなければ俺はただ他人に虐げられ続けるだけだ。

 逃げることは悪いことじゃない。

 そもそも、避けられる苦難にわざわざ飛び込んでいくことが『強さ』だなんて考え、安易すぎる。

 俺は千春みたいには、なれないんだよ。


 自分が苛められていると、いつも助けに来てくれた千春の背中を思い出した。


 もう、頼ることはできないんだ。


 不良達に見つからないよう、できるだけ迂回して高架下への入口へ向かった。ここを抜ければ裏口から駅構内に入ることができる。


 一秋は、まるで負け犬だなと自嘲せずにはいられなかった。


 高架下の道には橙色の電灯が等間隔で設置されているが、少し薄暗い。

 地面のところどころには通行人に踏まれ続けて黒くなったガムがこびりついていて、上からはがたんごとんと電車の通り過ぎる音が落ちてくる。

 ただ、一秋は真っ直ぐ続く道を歩いて行く。


 足音を立てると、静かな空洞に反響して自分の耳に届く。その感覚はなんだか寂しく、今の自虐的な気分とマッチしていて心地よかった。


「室町、一秋くん?」


 道の半分あたりまで歩いたころ。急に後ろから声がかかり、一秋は弾けるような衝撃に凍り付いた。


 瞬間、一秋の頭に浮かんだのは奴らの汚い笑みだった。


 やはり気付かれていたのか。それに、こんな場所じゃ通行人の助けも期待できない。

 一秋は自分の運命を呪い、ゆっくりと後ろを振り返った。


 しかし、彼の予感は裏切られる。そこにいたのは不良達ではなかったのだ。

 むしろその逆と言ってもいいかもしれない。


 黒いビジネススーツに身を包んだ、作り物のように綺麗な顔の女性がそこにいた。スーツだけではなく、髪も、靴も、右耳のピアスも全て黒。

 腕を組んで、まじまじと一秋を見つめている。


 一秋は安堵し、やがて訝しく思った。

 自分の名前を知るその女性に、一秋はまったく見覚えがなかったからだ。


「あら、室町一秋くんじゃないのかな?」

「いえ……そうですが」


 一秋が肯定すると、女性はうっすらと微笑んだ。


「怪しいものではないわ。貴方に協力してほしいことがあるの」

「はあ、協力」


 協力? 

 その言葉に、引っかかった。

 一秋には他人から協力を要請されるほど、何かに秀でた才能はなかった。

 女性の正体がまったくの不明であることもあり、何のことを言っているのか見当もつかなかった。


 一秋は不審が服を着ているようなその女を、意図せずにらんだ。


「こんな所でする話でもないから場所を変えたいのだけど、ついてきてくれないかしら?」


 ニコリと、女性は微笑む。

 しかし、そう言われて見知らぬ人間にホイホイとついていくほど一秋は軽率ではなかった。


「……僕、急いでいるので。すみません」


 女性がいるのは進行方向とは逆である。

 一秋はやっかいごとにならないうちにその場を離れようとした。








「強さって、何なのかしら?」









 放たれたその言葉に、一秋は思わず振り返った。肩を掴むよりも強固に、彼をその場につなぎとめた。

 豆鉄砲を食ったような一秋の表情に、相も変わらず女は微笑んでいた。


「話だけでも聞いてほしいの。脅すわけじゃないけれど、私は貴方について調べ尽くしているわ」


 彼女が何を言いたいのかはすぐに分かった。逃げても無駄だと――そうだろう。

 女はあくまでも「脅しているわけじゃないんだけどね」と付け足して、また微笑む。


「危害は絶対に加えない、無理強いもしないって約束する」

「あのっ」


 一秋は、さっきの一言について問いただそうとした。

 『強さって、何なのかしら』

 聞き間違いでなければ、誰がそんなことを言うだろうか? 


「とにかく、君のお悩み相談も兼ねてるってことで、行きましょう」


 女はくるっと振り返り、軽やかな足取りで逃げるように歩いていく。


「ちょっと!」


 逃してはいけない。

 そう思った。いや、思わされていることは分かっていた。

 けれども一秋は目の前の黒蝶を掴まずにはいられなかった。


 一秋の、壊れかけた玩具のような重い足取りは次第に早まり、気が付けば彼女のすぐ後ろを付いて歩いていた。

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