序章

第2話 逃避

「アキってば」


 静かな湖面に石が投げ入れられるよう、声がかかった。

 思考の世界から現実へ引き戻された一秋は、ゆっくりと顔を上げる。


「ああ、美奈か」

「ぼんやりしてさ、先生の話聞いてなかったでしょ?」


 ショートカットの小柄な少女が一秋の顔を覗き込むようにして立っていた。

 目、鼻、口。一つ一つの主張が弱い――いわゆる薄い顔で、見る人に儚い印象を与えるような女子が南雲美奈なぐもみなであった。


「あれ、授業終わった?」

「やっぱり気がついてなかったんだ」


 放課後になると、一秋はほとんど毎日学習塾での講義を受ける。

 そして美奈もまた、同じ塾の同じ学力クラスで講義を受けていた。


「ごめん、考えごとしてた」

「またぁ? マッドサイエンティストみたいだね、相変わらず」


 何かを考え出すと周りが見えなくなるのは一秋の悪い癖だった。


「でも、アキが勉強に集中できないのは、私にとっては追い抜くチャンスかも」


 美奈がふんと鼻を鳴らす。

「無理無理」と一秋が手をひらひらさせながら言うと、美奈は軽く一秋の頭を小突く。

 そんな二人は相も変わらず親友であった。


 確かに、千春が美奈の自宅で死んだことは事実だ。しかし、転落事故なら誰が悪いというわけでもない。美奈を責めるという考えは一秋の中に微塵もなかった。

 ましてや意中の相手である。

 彼女が涙ながらに謝って、一秋は当然許した。


 二人は今も親友である。

 しかし、今でも親友でしかなかった。


「ねっ、帰りにドーナツ寄って帰らない? どうしても、甘いものが食べたいんだよね」


 教室を出て階段を下りる途中、美奈が聞きなれたセリフを吐く。

 こんな風に、何かに付けて誘ってもらえることは一秋にとっては嬉しかった。


──構わないよ。


 そう言いかけて、一秋はとっさに自分の財布の中身にいくら入っているか思い出した。


「ごめん、今日は見たいテレビがあるんだった」

「ええ~」


 一秋は思い出したような表情を作ってみせる。


 なんせ所持金はほとんどゼロ。

 今日の昼休み、不良達にごっそりと持っていかれたのだった。


 しかし、そんな事情を美奈に言うにはワケにはいかない。

 美奈に心配をかけることになるかもしれないし、何より一秋はそのことを彼女に知られたくなかった。


「録画してもらえばいいじゃんか」

「視聴者参加型の番組だから。リアルタイムでみないと、クイズに解答できないやつだから」


 我ながら苦しい嘘だと一秋は内心苦笑する。

 それでも美奈は信じてしまったようで、一人で行くかどうかを真剣に迷っているようだった。


「うーん、一人で行こっかな。勉強頑張ったし、ご褒美が必要だ」

「誘ってもらったのに、ごめんな。今度はこっちから誘わせてもらうよ」


 校舎から出てみると外はすっかり暗くなっていた。初夏とは言えさすがに八時過ぎだ。

 講義が始まったときにはまだ明るかったのだが、時間の経過がこうもはっきり目に見えると確かに勉強を頑張ったなと思える。


「じゃあ、また明日」

「うん、おつかれさま」


 本来ならば一緒に帰るのだが、美奈がドーナツ屋に寄るのであれば塾を出たところで別れることになる。

 一秋は美奈に軽く手を振って、駅に向かって歩きだした。


 ここから駅まで徒歩五分、電車で二十分、そして自宅の最寄り駅から徒歩十分。

 帰宅するだけで四十分弱もかかると考えると、なんだか憂鬱になる。


 わざわざ遠方の学校に通っているのは、千春が中高一貫校に行きたいなんて言いだしたからだった。

 一貫校となれば自宅から一番近い学校でもこれくらいはかかってしまう。

 美奈もまた、千春に誘われたことがきっかけで同じ学校に通っている。


 どうして千春は一貫校に行きたいなどと言い出したのか。

 今の一秋にはなんとなく分かっていた。


 きっと、中高一貫ならばみんなで同じ高校に進学できるからだ。

 もし近所の公立中学に進学していれば、三人揃って一緒の高校というのは厳しかっただろう。

 千春の学力は一秋と美奈に比べれば、すこぶる標準的でだったからだ。小学生のときから、三人の間にははっきりとした学力差があった。


 そうなると千春なら、みんなで一緒に一貫校という考えに至っても不思議ではない。

 千春には寂しがりやな一面があったのだ。

 しかしそうであったとしても、今となってはさほど意味はない。


 どうせ三人揃って同じ高校なんていう未来はなかったのだから。


 それが分かっていれば、今の学校に通わなかった。

 高等部からスポーツ推薦で入学してきた不良達に目をつけられるなんてことはなかっただろう。

 そうすれば、もっと楽しい高校生活が送れていたかもしれない。

 違う学校に通っていれば、千春が死ぬことも、なかったかもしれない。


 かもしれない――可能性はあった。


 たまに一秋はそんなことを思ってしまう。

 それが妄想でしかないことは分かっていたけれども、現実逃避を手助けするかのように頭が勝手に動くのだった。


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