怪物は涙を流さない

ごまあぶら

プロローグ

第1話 春秋

 強さとは何だろうか?

 そんな自問自答を、室町一秋むろまちかずあきは頭の中でずっと繰り返していた。


 自分より明らかに体格のいい男に殴られて、硬いコンクリート塀に叩きつけられた。


 その拍子にぽっきりと心の折れた一秋は、相手が求めている財布をポケットから取り出して渡す。そうすると、少しでも抵抗した自分が馬鹿馬鹿しくなると同時に、空虚な安心感が自分を包む。


 目当てのものを手に入れた不良達は、もう一秋をボロ雑巾程度にしか思っていない。あるだけの紙幣を抜き取って財布を一秋に放り投げた。


 笑い声が遠ざかっていくにつれて、一秋の心にも次第に平穏が戻ってくる。


 立ち上がり、近くに落ちている鞄を拾い、制服についた砂埃を払う。


 何もこれが初めてというわけではなかった。だからこそ、今回はちょっとばかり抵抗してみようなんて考えが起こったのだ。

 今思えば、なんて馬鹿げた思いつきだったのだろうかと一秋は後悔する。


 体育館裏は人気が少なく、奴らにとって都合のいい場所だった。誰にも邪魔されずに獲物を仕留めることができる、うってつけの狩場である。

 しかしこうなると、みっともない姿を誰かに見られなくてよかったという意味で、一秋にも都合がよかった。


 一秋は自分の中に残ったわずかなプライドを守るように、そう思い込むことにした。





 一秋かずあきには千春ちはるという双子の姉がいた。


 千春と一秋――生まれる順番が逆だったならば一春と千秋だったと両親は言う。

 そして名前の文字通り、二人の性格はまったく異なっていた。


 弟の一秋は頭がよく、小学校に入学して以来テストというテストでは一番を誰にも譲ったことはなかった。

 同時に、勉強ができるということだけが大切ではないことも幼いうちから悟っていた。それほど一秋は賢かったけれど、自分には勉強以外に誇れることがないと思い込んでいる内気な少年だった。


 姉の千春はあまり勉強ができるわけではなかった。けれども、一秋が知る中で千春より優しく強い人間はいなかった。

 彼女の周りにはいつも人が集まり、千春が笑えばみんなも笑顔になる。そんな明るい少女だった。


 口には決して出さなかったが、一秋はそんな姉のことを心から尊敬していた。

 自分が持っていないものを持っているのは姉だと、直感的に分かっていたのだ。

 しかし、確信するには一秋はまだ幼かった。

 姉にあって自分にはないもの。

 それが何か分からないままに時間は過ぎていった。


 そして二人は中高一貫の私立学校に入学した。

 地元ではそれなりに有名な進学校ではあったが、さほど高くなかった倍率が幸いして千春もなんとか合格した。


 中学生にもなれば、いくら双子と言ってもそれぞれに自分の居場所ができる。

 以前と比べれば二人が共有する時間は短くなったが、それでも家に帰ればやはり仲のいい姉弟だった。


 高校に進学してもそれだけは変わらないだろうと一秋は心のどこかで思っていたし、変わらないことを願っていた。

 きっと、千春も。


「アキ」


 千春はいつものように一秋に語りかけた。

 中学を卒業したその日、二人で夕食を食べているときのことだったと一秋は覚えている。


「あんた、美奈のことが好きでしょ」

「はあ?」


 一秋は冷静を装って、千春に返事をした。


「そういうお前は、うちのクラスだった高――」

「否定しないんだぁ」


 イタズラな表情で、千春は笑った。

 それに対して二の句が継げずに困惑する一秋。実際、彼女の発言は図星であった。


 南雲美奈なぐもみなは二人の幼馴染であり、親友だ。

 彼女は室町兄弟の掛け合いに笑い、間違いは叱り、成功を喜んだ。両親に並んで、二人をよく知る人物だと言っても過言ではなかった。

 そして、そんな美奈に一秋が好意を抱くことはさほど不思議ではなかったのだ。


「美奈ってば可愛いし、優しいし、賢いし。私が男の子だったら、迷わずアタックするけどね」

「……そうだな」

「あ、認めた。じゃあ相思相愛じゃん! とっとと付き合っちゃえばいいのに」

「そうっ、相思相愛って、何を根拠に」

「いやいやあ。女の勘に間違いはないんだから」


 女の勘ねぇ。

 馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、自分の意中の相手を的中させているだけに一秋はなんとも言い返すことができなかった。

 とにかく無言で、ミートソースがよく絡んだスパゲティを口に運んだ。


「本当に、お似合いだと思うんだけどなぁ……アキ、弱っちいし」

「なんだよそれ。俺が弱っちいことと、お似合いであることにどんな関係があるんだ」

「アキってば頭はいいけど、弱っちいじゃん。うまいこと、今はそこんとこ私と補いあえてるけどさ、ずっとそういうわけにもいかないでしょ。その点、美奈は強い子だし、私に代わってアキを助けてくれると思うんだよなぁ」


 なぜ千春がこんな話をするのか一秋は疑問に思った。けれども、いつもの気まぐれだろうと流した。


「お前はどうするんだよ、それで」

「ん、私?」


 しかし、あれは自分の運命を悟った千春が残したメッセ―ジだったと、一秋は今になって思うのだ。


「二人の結婚式を見て、泣く!」

「そういうことじゃないだろ。残ったお前はさ……まあ、なんでもいいけど」


 屈託のない千春の笑顔に、一秋は呆れたような口調でそう答えた。いつもの、姉弟の会話だった。





 数日後、千春は事故で死んだ――それも、南雲美奈の自宅で。足を滑らせて階段から転落して、頭を強く撃ったらしい。


 千春は美奈が呼んだ救急車で運ばれ、そのあとに連絡を受けた一秋と両親が大急ぎで近所の総合病院へ向かった。

 そして到着と同時に、千春の容態はかなり危険な状態だと聞かされた。


 母は膝から崩れ落ち、それを父が支えた。一秋はただ何をするでもなく、椅子に座って呆然としていた。


 その晩、母だけが病院に残り、父と一秋は自宅に帰った。

 車の中で二人の間に会話はなかった。父が発した一言以外には。

「あの病院は、二人が生まれた病院だったな」


 深夜に千春の容態は急変する。

 そして翌朝、一秋は目覚めてすぐに姉の死を知ることになる。



 しかし、一秋は取り乱すことはなかった。むしろ、平静であった。

 ああ千春は死んだのか、とその事実を静かに受け止める以上は一秋は何もしなかった。


 真っ白になった千春の顔を見た葬式。

 そのとき、彼は泣きも喚きもしなかった。いや、できなかった。彼にはそうさせる感情がなかったのだ。


 彼を見て立派だと褒める者もいれば、人でなしだと侮蔑する者もいた。


 そんな雑音は一秋の耳に入ってはいたけれども、十五歳の少年はただ親愛なる姉の死を理解しようとしていたのだった。


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