第4話 喫茶

 闇夜に溶け込んでしまいそうな黒い装飾に身を包んだ、その女性の背中を一秋は追っていた。

 あれから五分ほど経っただろうか。


「イトウ」

「え?」

「私の名前。イトウっていうのよ」


 彼女は決して後ろを振り返らずに言った。

 それは駅前から離れて以来、二人の間に初めてもたらされた会話だった。


 どこへ向かっているのかは分からないが、そのイトウが人通りの多い道を進んでいるため、一秋に過剰な警戒心はない。

 むしろ、目の前にいる謎の人物がどのような人間なのかを観察するくらいの余裕はあった。


「漢字は伊豆の伊に、近藤勇の藤ですか?」

「たぶんね。それにしても近藤勇なんて、面白いね」


 イトウがわずかに見せた横顔は笑っていた。


 面白い? 

 たぶんね、という返事の方がずっと面白いだろう。

 どういう意図で言った言葉なのか、一秋には想像がつかない。


 ただ、話しかければ何かしら答えてくれそうだ。いくつか質問をしてみることにした。


「目的地が分からないんですが、これはどこへ向かっているんですか?」

「お茶って言わなかった? 立ち話も何だったし、ちょっと休めるところにね」


「協力してほしいことって?」

「それは、後で詳しくお話するわ」


「どうして僕のことを知っているんですか?」

「ざっくり言えば、エスパーだから、かしらね」


 話しかければ返してはくれる。だが、あまり真面目に取り合う気はないようだった。

 あくまで目的地についてから、ということらしい。


 気が付くと、一秋が知っている道に出ていた。美奈が向かったドーナツ屋付近の通りである。


 一秋ははっとする。

 テレビを観るという口実で美奈の誘いを断っている手前、イトウと一緒に歩いているのは都合が悪かった。あらぬ誤解を生んでしまうことになりかねないからだ。


 俯き気味に、周囲を伺う。

 まだ着かないのか。これであのドーナツ屋だったら、逃げるしかない。

 一秋はそんなことを考えていた。


「ああ、着いた着いた」


 イトウの弾んだ声に、一秋は顔を上げた。


「ここで構わない?」


 彼女が指さした先にあったのは「喫茶paraiso《パライソ》」と看板の出た店。白くて小奇麗な店構えであった。


 通学路にあるこの店をいつも見ているような気もするが、そうでもない気もする。見慣れた景色に溶け込んでいた喫茶店だった。


「向こうになんかドーナツ屋があるみたいだけれど、そっちの方がいいかな?」

「あっ、いや。ここでお願いします」

「よし。じゃあ、ここで決まりだね」


 イトウはいたずらな笑顔を一秋に向けた。


 外からでもガラス越しにうっすら店内の様子が窺える。

 少なくとも先客はいないらしい。さすがに夜八時過ぎで繁盛はしていないだろう。


「さあさあ、中に入りましょう」


 イトウが入口のドアノブに手をかけて、戸を開いた。ちりんちりんと、ベルが鳴る。

 開いた扉から見える店の中はほの温かな、オレンジ色に包まれている。 そして「WELCOME《ウェルカム》」と書かれた木彫りの立て札が入口近くの座椅子上に置かれていた。横には、小さな熊のぬいぐるみがある。


「お先にどうぞ、お客様?」


 扉を押さえたままのイトウが促す。


 一秋は中の様子を伺いながら、ゆっくりと中へ入っていった。そしてすぐに、コーヒーの香りが店内を満たしていることに気が付いた。

 レトロモダン調の内装は店の外観からすれば意外ではあったが、ちょっとした小物にも店主のこだわりが感じられるようである。


 ちょっとばかりの感動がそのときの一秋の心にあったのは、こういう店に憧れがあったからかもしれない。


「どう?」


 後ろからイトウに声をかけられた。


「いいですね……こんな場所が通学路の途中にあるなんて、知りませんでした」

「でしょ?」


 通学路の途中、と余計なことを言ってしまったが、イトウの方は気にも留めないでまるで自分の店が褒められたかのように得意気だった。


 そんなイトウを見て、一秋は自分の中で警戒心がだいぶん和らいでいることを自覚する。

 悪い人間には見えないが、あまり気を許すのもよくない。万が一のために、ケータイのバッテリーが切れていないかを確認する。


「あの席でいいかな?」

「えっ、はい」


 イトウが指示していたのは窓際のテーブル席。

 二人向かい合って座ると少し落ち着かなく、透明なガラス窓の向こうに目をやると、自分の歩いてきた道が見えた。


 そしてメニューをまじまじと見つめているイトウ。


 しばらくすると店の裏から白髭の老人がゆっくり歩いてくる。歳の割に伸びた背筋に紺色のチョッキがよく似合う、老紳士と表現するのが相応しい老人だった。


「おじさま。いつものを頂けるかしら?」


 いつもの、と注文するイトウは得々たる様子である。

 どうやらこの老人は店員――醸し出す雰囲気からすれば、マスターなのだろうか。


「いつもの?」

「このコーヒーで」


 メニュー表を指さしてイトウは注文する。

 お気に入りの店というわりに、店には覚えられていないようである。


「飲み物代くらい私が出すから。好きなのを頼んでいいよ」

「ありがとうございます」


 そう言ってもらえるならと、お言葉に甘えることにする。なんせ一秋は一文無しである。


「コーヒーが飲めないなら。オススメは、ココアかなぁ」


 もはや宛にはならないオススメだが何を注文するべきかもわからない。イトウがそういうならと、一秋はココアを注文した。

 一秋がコーヒーをあまり好きではなかったというのもある。


「ココアと思って侮ることなかれ。結構本格的なんだから」

「……そうなんですね」


 ココアの話はいいよ。もっと重要なことがあるだろうと、痺れが切れそうになる。

 別の目的があって喫茶店にまでついてきたのだから。


 しかし、窓の外をじっと見つめて何も言葉を発そうとしないイトウを前に、一秋は何も切り出せずにただ彼女の様子をうかがっていた。


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