7・愛なき



 繁忙期をむかえ、定時に会社を出る事が厳しくなって2週間。

 帰宅途中にスマホがメールの受信を知らせた。


 ――「そろそろ会いたいな」――


 駅のホームでスマホを見た僕は思わずむせた。色恋の話ではなく、カウンセラーの佐伯先生からのメールだったからだ。予約を入れていた前回のカウンセリングをキャンセルして1週間が過ぎていたのだ。先生との出会いからはもう4年が経っていた。


 ――「今週末の土曜日に会いに行きます」――

 ――「では10時に待っています」――


 その週を乗り切った土曜日。

 すっきりしない空模様だったので、スニーカーでラフな服装にし、小さめのバックパックに折り畳みの傘を放り込んだ。クロスバイクに乗りカウンセリングに向かう。

 病院の駐輪場に止めると、病院の正面入り口から先生が出てくるのが見えた。決して顔が似ているわけではないが、その雰囲気から僕はいつの間にか、なんとなく父の面影を重ねていた。



「タクトくーん!」

 手を振りながらこちらに向かってくるので、つられて思わず手を振ったが、ほんの少し恥ずかしかった。


「先生、どうしたんですか?今日の予約10時で…」

「うん、そうそう10時だよ。今日はちょっとタクト君と出かけたくてね」


 穏やかな笑顔は出会った頃からなにも変わらないが、白髪は幾分増えた様に見える。

「どこ行くんですか?」

「初めて会った時に話してくれた本のことを覚えてるかい?」

「覚えてますよ。中世ヨーロッパが舞台の」


 先生に促されて、病院とは反対の方向に歩き出す。先生もいつもより少しラフな服装で、品の良いダークグリーンの小ぶりなショルダーバッグを斜め掛けにしていた。醸し出す雰囲気は実年齢よりも若く感じられる。


「そうそう、あれがハリウッドで映画化されてね。試写会に応募してみたら、チケットが当たったんだ。あ、私と行くのがイヤならそう言ってね?」


 急に思いついた様に付け足した最後の台詞につい頬が緩む。


「大丈夫。イヤじゃないです」

「そう?なら良かった」


 湿った風が僕たちの間を抜けていき、隣を歩く先生は相変わらずニコニコしている。こういう種類の医師は皆、こんな感じなんだろうか?とふと疑問に思った。

 いつの間にか、医者と患者というよりはなんでも話せる親友といった感が強くなっている。仕事場の同期もカウンセリングを受けているが、気に入らないとか、相性が悪いとかいう話は特に聞いたことがない。他にカウンセラーを生業にしている人を直接知らないので、比べる基準を持ち合わせてはいないが。


「どうかした?私の方ばかり見ているとぶつかってしまうよ?」

「いえ、カウンセラーってみんなこんな人ばかりなのかなって思って。あれ?先生、眼鏡替えた?」

「んーどうかな?時々、お前は変わってる!とか、カウンセラーをするには優しすぎる!とか諸先輩方に言われる事はあるけどね。眼鏡のことよく気が付いたね」


 先生は、そう言われたのであろう人の声真似をしてそう言った。眼鏡はうっかり落としたところに本が雪崩をおこして、ぶ厚い専門書の下敷きになり使い物にならなくなったらしい。シルバーのハーフフレームはよく似合っていて、両手を使い専門書の厚みを教えてくれた。



 映画は原作小説の雰囲気を壊すことなく作られていてとても面白かった。

 ヨーロッパの各国で撮影したらしい美しい映像、忠実に再現された煌びやかな衣装。名優の演技合戦も見もので、仲間の死を乗り越えて戦い、新たな仲間と共に運命を切り開いていくストーリー展開は僕の目頭を熱くさせた。


 場内が明るくなると、隣にいる先生の目と鼻先は赤くなっていて「感動したね!ハッピーエンドで良かった」と言いながら鼻をかんだ。


 劇場近くのハンバーグ店が有名らしく、そこで遅めのランチをした。

 料理が届くのを待ちながら先生が僕に質問を投げる。


「佐々木さんとはお付き合いをしているの?彼女のこと好きなんでしょ?」

「え、はい、いや、付き合っては…」

 あまりに唐突な言葉に思わず言い淀む。

「そんなに動揺しなくても」

 先生はハハハと笑いながらクロスで眼鏡を拭いてかけなおした。


「なにも身体を重ねることだけが愛ではないでしょ?」

 先生は諭すように僕にそう言った。勿論わかってはいる。裸体を見るだけで理性が吹き飛ぶ様な年齢でもないし、彼女のそばにいて穏やかな毎日があれば幸せな事だとも思う。でも、それと同時に、愛しいと思う人に触れられない事が耐えられるのかと思うと、少しゾッとする自分もそこにいるのだ。


「それはわかってます。わかってるけど」

 僕の言葉はそれ以上続かなかった。僕を覆う『カベ』は自分自身の言葉を通すこともできなくなっていた。


 先生は別れ際に「さっきは少し意地悪な言い方をしたかな。私だって悩むタクト君の頭を撫でてあげたいと思うよ」と言っていつもの様に笑ってくれた。

 低い雨雲が空を隠しいつの間にか小雨が降っていたが、持っていた傘を広げる気にもならなかった。なんとなく歩きたかった僕は明日に改めようと、駐輪場に停めたままのクロスバイクを置いて帰ることにした。


 帰宅してからつけたテレビは明日も雨が降ると予報を告げていた。







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