5・アフターファイブ


 変わらぬ日常が続き、気付けば『カベ』の構築から2年が過ぎていた。


 悪天による嵐で、早々に桜が散ってしまったゴールデンウイーク直前のある日、同期で仕事終わりの晩御飯に行く事になった。

 その日は愛読している作家が、久しぶりに書き下ろした長編新作の発売日で、書店へ予約を入れていたのだが、多数決で都合の良い人数が多い今日になったのだ。


 僕のお楽しみはゴールデンウイークまでおあずけになった。


 定時までに仕事を片付けるつもりが、終業間際に電話が鳴り手を取られた。

 取引先からの電話は、連休明けに予定していた打ち合わせ時間の変更を知らせるものだった。少し遅れてエレベーターを降りるとそこにはすでに待ってる人影が。


「遅いぞ野上!」

「北原が早すぎる。お前ちゃんと仕事してきたのか?」

「してきたわ!むしろ今日は1本企画通してきたわ!」


 どや顔の北原は同期のマスコットキャラで企画開発部にいる。

 少ーし腹黒いところもあるが、仕事はそつなくこなすタイプでまさかのバツ2。

 認知している子供は2人いて、酒が入ると2人目の離婚がもたついたせいで今の彼女との間に子供が出来なかったとぼやくのが悪い癖だ。


 営業部の今野からは最後の営業先が押してるので先に始めてくれと連絡が入った。


 徐々にメンツが集まり、わいわいと予約を入れてある駅前の店まで歩く。

 部署が違う同士は情報交換、全員で少しの雑談。

 みんなの笑い声は時折り吹く風に流されていった。


 店はよく使う居酒屋。奥の座敷はいつもの定位置。居酒屋という割には美味いワインも置いてあり、曜日に関わらず、いつもある程度の客で賑わっていた。


 メニューの受け渡し、乾杯時の各自の飲み物、おつまみの好み、阿吽の呼吸で次々に注文してジョッキをぶつけ笑い合う。4年間一緒に働いているというのは伊達ではないと大いに盛り上がった。


 遅れてきた今野を迎え入れて、本日2度目の乾杯。


 2児の父である今野はかわいい盛りの娘二人にデレデレで、抱っこしてやれないのが寂しい、良い事をした時には頭を撫でてやりたいといつも言っている。

 何度か会った事のあるショートヘアの奥さんは4つ上で姉さん女房。スポーツマンで、同期の中でもリーダーシップがあるタイプだったため少し意外だったことを覚えている。



 ついついジョッキを空けるペースが上がってしまい、風にあたる為、一度店の外に出ることにした。

 店の前にはベンチとスタンド式の灰皿が置いてあり、煙草を吸い終えた他所の客と入れ替わりでそこに腰を下ろした。


「野上くん、お疲れ様。珍しいね、顔ちょっと赤い」

「佐々木もお疲れ様。ん、少し飲みすぎた」


 同じように店を出てきたらしい佐々木が少し距離をあけて隣に座る。

 化粧っ気のない彼女から流れてきた香りの正体はわからないが、ふわりと女性らしいそれが鼻先をかすめた。少し地味で世渡り下手というか、不器用なところはあるが真面目で、いつも信頼に足る仕事をする。


 確か、彼女の『カベ』は5センチだと言っていた。僕のそれと合わせて、僕らの距離が20センチより縮まる事はない。


「野上くん、今日なにか予定あったの?」

「え、なんで?」


 横並びに座っていた僕たちは、互いに前を見たまま話す。

 どこかから漏れ聞こえるカラオケの歌声や、遠くに車のクラクションの音が聞こえている。通りを行く人の姿はまばらで、雲のない夜空は月がきれいだ。


「なんか時間気にしてるかなって思って…彼女、とか?」


 彼女の言っていることの半分は当たっていた。もしも、予約をした書店の閉店時間までに間に合えば寄って帰ろうと思い、何度か時計を見た自覚はある。

 それに気づいて、そんな風に思っていたとは思わなかったが。


「本だよ、本。今日出る新刊の予約してて、本屋に間に合うかなーってちょっと思ってた」

「そっか。野上くん本好きだもんね。昼休みいつも文庫持ってて、、」

「ってゆーか、今日、佐々木も顔赤い」


 ふいに隣に目をやると、彼女は一目でわかるくらい明るい頬色をしている。

 一瞬、最後の言葉を遮ったような気がして思わず彼女を見つめていた。


「そ、そうかな?私も飲みすぎたかな?私、先に戻るね」

 そう言って、華奢な指で耳に髪をかけなおした彼女が勢いよく立ち上がる。

 いつもは後頭部の低い位置で束ねられている髪が風になびき僕の目を惹いた。


「あのさ!…彼女とか、いないから」


 僕を見た彼女は、少し驚いた様な顔をしてから笑顔で頷き店の中へ戻っていった。


 咄嗟にそう言った自分の心拍数が明らかに上がっていることはわかったが、鼻先をかすめた女性の匂いと、飲みすぎた酒のせいにすることにした。


 終電ギリギリまで盛り上がった晩御飯は、もはや宴会になり、当然ながら本屋の閉店時間には間に合わなかった。



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