七話 四月二十四日 夕方 墓地にて

「あ、あの! 八尋さん! どこに向かってるんですか!」

 事件現場から五分も走っていないのに桃太はすでに息切れしていて、ひゅうひゅうと呼吸をしながら苦しげに叫んだ。

 千歳に不審者がいないか探すと言ったのにもかかわらず、八尋は迷うことなく住宅街を走り抜け舗装されていない砂利道に出ていた。いびつな地面に水が溜まり三人の足元を汚す。

「墓地だよ」

「墓地!?」

「桃太郎君うるさい。八尋さん、墓地ってさっき駅前で言っていた鬼門のことですよね? それが関係あるんですか?」

「鬼門は鬼が現れる場所のことだろう? だから忌み嫌われていた。でも逆に鬼にとっては、あの世に近くて居心地がいいんだ。それに墓地は人が少ないから、隠れ住むにはぴったりだろう」

「そ、それはわかるんですけど、どうして今墓地に向かっているんですか」

「鬼が墓地に向かっているだろうからだよ。考えてみてごらん。鬼はあの女性の魂を正面から抜き取ったんだから返り血を浴びているはずだ。いくら知性がない鬼でも、こんな明るい時間に血まみれで歩き回らないだろう? 洗い流すか、棲み処に帰るか。都合のいいことに墓地の横には小さいけれど川がある。これは墓地に行くに違いないと考えたんだ」

 すらすらと理由を述べる八尋に、二人はきらきらと尊敬の眼差しを送る。


 墓地の入り口に到着すると、奏は膝に手をついてぜーはーぜーはーと荒く呼吸をする。少しずつ呼吸を落ち着かせて最後に大きく深呼吸をすると息は整った。

「じゃあ墓地に入るよ。くれぐれも気をつけてね。今までの鬼と種類が違うから梅崎さんにも見えると思うんだ。今までよりも危険だけど、その代わり回避することもできるかもしれない。梅崎さんだけじゃなくて本庄君も集中してね」

 いつになく真剣な表情に桃太は固唾を飲んだ。一方、奏はその表情に見惚れていた。

 ぴりりと肌に突き刺す緊張感のまま、三人は墓地の大きな門をくぐった。

 しばらくはうねった上り坂が続く。車も通る道なので、道幅は大きく歩きやすいがその開放感が桃太と奏の不安感を増幅させる。不安なときは狭い場所や布団の中が落ち着くもので、あまりに視界が開けているとあちこち警戒しないといけなくなり気疲れしてしまう。

 先頭を歩く八尋は、大きくカーブした道をその通り歩かず、柵を乗り越えて木々が生い茂る鬱蒼うっそうとした山の中に足を踏み入れた。柔らかい土の上に降り積もった葉は雨のせいで、ぐちゅぐちゅに濡れている。

「きゃあ!」

 あとに続いて踏み込んだ奏はつるんと足を滑らせ転びそうになったが、すんでのところで横にいた桃太が奏の腕を掴み、どうにか尻もちをつかずにすんだ。

「ありがとう桃太郎君」

「う、ううん、転ばなくてよかったよ」

「奥はもっと葉が多くなるから、気をつけないと危なそうだね」

「八尋さん、奥に鬼がいるんですか?」

「そうだよ。川はもう少し向こうに流れているからね。そんなに遠くないはずだから安心して」

「うーん、安心していいのか鬼に恐怖したらいいのか……」

 腕を組んで悩む奏に桃太は笑いをこぼした。

 一歩一歩、踏みしめるように歩いていると、八尋の言う通りすぐに浅い小川に行き当たった。

 辺りを見回した八尋は小川に沿って山を登っていく。

「血が付着した葉があった。やっぱりここで腕を洗ったに違いないよ。おそらく今は事件の捜査が一段落するまでここで身を潜めているのだろう」

「見つけ……られますか?」

 こわごわと尋ねる桃太に答えたのは八尋ではなく奏だった。

 自信満々に胸を張って「見つけられるに決まってるでしょ。八尋さんなのよ?」と言い放った。

 「八尋さんだから」そう言われると不思議と桃太も八尋が必ず鬼を見つけ出す気がした。

「そうだよね。八尋さんだもんね」

「おやおや、あまり過信されると困るなあ。もし見つけられなかったら恥ずかしいじゃないか」

「八尋さんなら大丈夫です!」

 二人が声を揃えてそう言うので、八尋は思わず笑った。気づかないうちに、ずいぶんと信頼されているようだ。二人の無垢な信頼が少しこそばゆい。

「二人の気持ちに応えないとね」

 失望されないように気を引き締めた。

 地面は足の取られる柔らかい土から、歩きやすいかたい土に変わった。空一面を覆うようにして生い茂っていた木々も空が見えるようになってきた。

「八尋さん、霊符使わないんですか? ……あ、奏ちゃん、別に八尋さんの行動に茶々入れるわけじゃないんだよ、使った方が便利そうなのにどうして使わないんだろうって思っただけで……」

「わかってるわよ。なにも私だってそんなにガミガミ怒らないわ」

「それならよかった。で、八尋さんどうしてですか?」

「霊符は特別にお清めされて一枚一枚念を込めて作られたものだから、数に限りがあるんだ。鬼の種類や力が未知数だから今場所を特定するのに使い切りたくないんだ。本当は式神として善夜よしやの元に飛ばしたいんだけどそれも今は我慢しているしね。ああ、式神は霊符に念を込めて伝言や用事を頼むものだよ」

「式神は漫画によく出てくるから知ってます! 戦うときに身代わりにしたり、依り代よりしろ? にして鬼を憑依ひょういさせたりするやつですよね」

「ううーん、まあそんな感じかな。憑依させるのは鬼じゃなくて神様だけどね」


 パキッと木の陰から小枝の折れる音がした。

 途端に三人は口を閉ざし、どこから何が現れても動けるように膝を軽く曲げた。

 八尋は二人に動かないようジェスチャーで指示し、そうっと一歩踏み出した。気をつけても地面一面落ち葉だらけ。足音がしないはずがない。

「そこに隠れているのは誰ですか?」

 声をかけると影が動いた。案外素直に八尋の言葉に応じるようだ。

 ゆらりと木の陰から現れたのは一人の男だった。それも八尋が二時間ほど前にも会話していた頼りなさげな男だ。

「上石さん」

「え、八尋さんの知り合いですか?」

「梅崎さん、君たちも見ているんじゃないかな。昨日喫茶シェーヌに行ったときにいたお客さんだよ。僕たちのあとにきた……。覚えてないかな」

 ううん? と首をひねって「そういえばいたような……?」とおぼろげに思い出す。

 覚えていても覚えてなくても、八尋にとっては些細なことだ。

 手早く二人に事件を調査しているときに目の前の男と偶然出会って立ち話をしたことを教えてから上石と対峙した。

 相変わらずのくしゃくしゃの黒髪は雨に濡れてぐっしょりとしている。頬に張りついた髪から水滴がどんどん落ちていく。眉を八の字にした表情に委縮した様子。とても鬼とは思えない風貌だ。

「あ、あの、藤さんでしたっけ? こんなところでどうしたんですか?」

「そういう上石さんこそ、こんなところでどうしたんですか」

「えっ、俺は……墓参りに来て物音がしたから見に来てみたんです」

「ほう……。僕たちは連続不審死事件の犯人を追っていまして。先ほど砌駅前で新たに被害者が出たのですが、上石さんは不審な人物を見ませんでしたか? 慌てて走り去る人だとか、挙動不審な人だとか」

「いや、見てないですねえ。それって砌駅のどっちの改札口ですか?」

 砌駅は小さいながらも改札口が二つある。生馬句山側の東口と、スーパーや喫茶シェーヌのある西口だ。

「西口ですよ」

「俺はさっき東口から出てきてここに来たところですけど、不審な人は見ませんでしたよ。どこか、もう遠くへ逃げてしまったんじゃないですか?」

「さっき電車を降りてここに来たんですか?」

「ええ」

八尋は一歩ずつ上石に近づく。

「寄り道もせずに?」

「そうですけど、それがなにか?」

「いえ、それならもう犯人はわかりましたので」

「え! 八尋さん、それってまさか」

 奏には、話の流れからして犯人は一人しか思い浮かばない。

 八尋は少しためてから軽い声で言う。

「上石さん、あなた鬼ですね」

 やっぱりという顔の奏に対して桃太は驚き、あんぐりと口を開いている。

「え? 人? じゃあ人鬼ひとおになの?」

「いやそうじゃない」

 八尋は素早く上石に近寄りながら霊符を取り出して「鬼の変化しなん。見顕みあらわさん」と呟き霊符を上石に叩きつけた。

 よろめいた上石の体は徐々に膨れ上がり、二メートル程度までになった。おでこにへばりついていた前髪はオールバックになり、二本の角が見える。ぎょろっとした目と意地悪そうな口はそのままだ。

邪鬼じゃきか」

「どうしてわかったんだ? 俺が鬼だって。わりとうまくけていただろう?」

 急に変身を解かれた邪鬼は不機嫌そうに顔をしかめている。声はさっきまでの震えたものとは違い、けだるげで傲慢ごうまんそうだ。

「邪鬼にしてはたしかにうまく化けていた。だがやはり邪鬼だな、ボロが出ていた。あなたが本当につい先ほど電車を降りていたのなら、そんなに濡れているはずがないんですよ。雨は今にも止みそうなくらい弱い。……東口からなら歩いて五分もかからないのではないですか? それにしては、あなたは濡れそぼっている。雨が降ってからずっと外にいた僕たちと同じようにね。わざわざ嘘をついてここにいるなんて、正体が鬼だからっていうこと以外に理由がありますか?」

「ううーん、話が長い。もう少し短くしてくれないとわからないよ?」

 最初から聞く気がなかったのだろう邪鬼は自分から聞いたのにもかかわらず、めんどくさそうにしている。

「よくわからないけど、とりあえず正体がバレたんだからお前たちを始末しないとなあ。じゃないと俺が怒られるんだ」

「怒られる? 誰に」

「それは言えないね」

 曖昧な情報をぼろぼろとこぼすのが計算なのかただのバカなのか八尋にはまだ判断がつかない。

 邪鬼は八尋のことなど眼中になく、一人ぶつくさと文句を言いながら頭を掻く。

「あー、俺、もう男の魂は喰わねえって決めたんだけどなあ。美味しくないんだよ。っま、しゃーねえか」

 邪鬼は右手を後ろに引くと反動をつけて八尋に殴りかかってきた。八尋は後ろに飛び退いて邪鬼の手に当たらないように避ける。とんとん、と軽々と後ろに下がり距離を取ると、懐から霊符を二枚取り出した。一枚を人差し指と中指で挟んで持つと、小さく「この憑代よりしろ、我が影となりたまえ」と呟き霊符を宙に投げると、ひらひらと旋回せんかいしながら長方形の紙は形を変え、ひらひらと蝶のように羽ばたきながら飛んでいった。

 続いて、もう一枚の霊符は桃太と奏の足元に投げた。

「結界だ。あまり強度は望めないけど、多少の攻撃は防げるはずだ」

「ふはっ、安心していいよー。俺は美食家だし。そこの女の子はデザートだから最後。少年は生命力がみなぎっているからメインディッシュ。一番美味しくなさそうなお前、藤が一番に食べる、前菜だからね。……それにしてもお前、本当に美味しくなさそうだなあ。まだ若いのに老人のような匂いがする。あと、なんか臭い」

「おや、心外ですね」

「まあ、なんでもいいから早く食べさせてくれよお」

 いびつに口角を上げた邪鬼は指をポキポキと鳴らして襲いかかってくる。手は握りこぶしではなく真っすぐに伸ばしたまま。八尋の腹部に手を突き刺そうと距離を詰めてくる。

「邪鬼にあるまじきていたらくですね。欲にまみれすぎじゃありませんか?」

「せっかく人界にんかいに来たんだ。あっちでは楽しめないことをするべきじゃないかい?」

 攻撃の手を休めない邪鬼に対して八尋は守りに徹している。

 一切いっさい手を出そうとはせず、ただ攻撃を受け流して桃太と奏から少しずつ距離を取らせている。

 桃太は初め、自分たちを守るためにそうしているのかと考えたが、一向に反撃する様子のない八尋に苛立っていた。八尋の実力ならば、素手で襲ってくる鬼くらい倒せそうなのに、なぜ何もしないのか。桃太には理解ができない。

「八尋さん! どうして霊符を使わないんですか! 前は霊符で鬼を切ったじゃないですか。まさかまだ霊符の節約のため、なんて言うんじゃないですよね」

 桃太が焦って苛立つのもしかたがない。

 八尋は今のところ攻撃をすべて避けてはいるが、何度も攻撃が掠めそうになり桃太をひやりとさせていた。

「あー……、あはは、ちょっと厄介な鬼でね。霊符はまだあるんだけど邪鬼は僕の管轄外だから、あまり好き勝手に切ったり攻撃したりできないんだ」

 顔をこわばらせ、いつもの余裕の表情はない。

 つまり、邪鬼は強い鬼ではないが、ひどく厄介な敵なのだ。

 邪鬼はいやらしく、楽しそうに笑う。

「ふ、ふふふ、そうだろねえ。お前らでは俺を消すことはできない。なんて愉快なんだろう。俺に食べられるのを怯えているのを見るのがこんなに楽しいだなんて知らなかったよ。次からは追い詰めてから食べようか。……ああ、それだと怒られるか」

 高笑いをやめて、邪鬼はすっと真顔になった。そして八尋をそっちのけで、三人を食べたあとのことを考え出した。八尋は手を出してこないと高をくくっているのだ。

 残虐な殺人鬼のような邪鬼の姿に桃太と奏は怯えて肩をすぼめる。

 二人が結界の中で縮こまっているのを見た八尋は苦虫を噛み潰したようは顔をした。

「……期待はずれでごめんね。でも君たちには怪我はさせないし、少し時間はかかるけど必ず鬼は向こうに返すから」

 絶対に大丈夫、そう思わせる声だった。

 思わず桃太と奏も頷いて返す。

「ん? っていうか、なんでお前って術使っているんだ?」

 真剣な空気を、邪鬼の間抜けな声が壊した。

 今更すぎる疑問ではあるが、邪鬼は目の前のことしか考えられないからしかたがない。

「管轄って言ってたくらいだし、相当詳しいんだろう? 今の時代珍しいなあ。昔は人界に来る度に死闘を繰り広げていたのに、今じゃすっかり鬼をはらうやつがいなくなったからなあ」

 ひとり言のように呟き、邪鬼は八尋をまじまじと見た。そして今気づいたとばかりに目を見開いた。

 八尋はちょうど空を覆う葉の間に立っていた。うすぼんやりとした光が雨粒とともに八尋の顔に当たる。晴れた日差しのもとよりはくすんでいるが、それでもわずかな光を反射して八尋の瞳はキラキラと天色に輝いていた。

「その目の色、あの女と同じ……?」

「女だと!!」

 突然、八尋が叫んだ。

 桃太と奏、それに邪鬼もが八尋の怒号に肩を揺らした。

 目をかっぴらいて邪鬼に詰め寄る八尋は、先ほどまでと打って変わって刺々しい。

 瞳孔は開き、唸るような声を出す。

「僕と同じ瞳の女。たしかにそう言ったね? 君はその女を知っているんだね? どこにいた。……いや、もしかして君が彼女を捕まえた? そんなバカなことがあるわけないね。まさか君のような鬼に襲われるわけがないか。それで、彼女をどこで見た」

 迫真の表情で八尋は邪鬼に迫り、逆に邪鬼は後退る。さっきとは真逆の構図だ。

「俺の勘違いだよ。お前と同じ目の色の女なんて知らないよ」

 まずいことを言ってしまったと顔を背ける邪鬼。

 ――彼女のことは口止めされていたか。

 普通に聞くだけでは、まず答えないだろう。捕まえてから尋問しなければ彼女のことを吐かない。

 それがわかれば攻撃あるのみだ、と真正面から邪鬼に突っ込んでいく。

「おいおい、俺の魂の抜き方くらい知っているんだろう? そんな真っ向から来るなんて、飛んで火にいる夏の虫だよ」

 半笑いで邪鬼はかまえた。動かなくても、正面からくる八尋の腹に手を突き入れればすべては終わる。抵抗することもできずに魂を喰われて、あとは死ぬだけ。うっかり口を滑らしてしまったが、三人とも殺してしまえば片が付く。

 手の届く距離に入った八尋に、手を突き刺すことくらい造作ないことだ。

 するりと邪鬼の手首から先は八尋の体内に入った。

 一瞬のことで桃太と奏は理解が追いつかない。角度の関係で、突き刺さっているように見えるだけか? なんて考えてしまうほど、音もなければ血も出ていない。

 邪鬼がぬらりと八尋の腹部から手を抜くと、手のひらの中には大きな青い玉があった。輝く玉を見て邪鬼は素っ頓狂な声を出す。

「なんだこれえ? やけにでかいし青いし、今までこんなの見たことがない。まあいいか。食べたらなんでも同じだ」

 大きく口を開き、玉を飲み込もうとした邪鬼の左頬を八尋は力いっぱいに殴った。

 ザスッと木の葉の中に倒れた邪鬼はわけがわからないという顔で殴られた左頬を触りながら八尋を見上げる。

「はあ? なんで魂を抜いたのに動けるんだよ!!」

「何事にもイレギュラーはつきものだよ」

 八尋の声には色がない。

 もう一発殴ろうと近寄る八尋に、邪鬼は危機感を覚えた。

 興奮状態であるものの、八尋は理性を失ってはない。だから殴るだけにとどめた。理性を失っていたら、邪鬼を傷つけてはいけないことを忘れて襲いかかっていただろう。

 だから次の攻撃も邪鬼が完全に倒れない程度だ。

 邪鬼にとってはたいした痛みではないものの、人間に殴られるという屈辱が耐えられない。

 次の攻撃にやり返さないといけない、と邪鬼は真の姿になることを決意した。

 上石のときより鬼らしい形を保っているが、これでも本来の姿ではない。本来の姿の方が力は出せるが人界では不便なことが多いから滅多にならないのだ。

 しかし今は本来の姿になるときだ。

 邪鬼は親指の腹を噛み千切った。

 痛みとともに邪鬼の体は大きくなる。それと同時にオールバックだったくしゃくしゃの髪はよりカールし、身長だけでなく恰幅もよくなり、肌も赤く染まった。三メートルで身長が止まったときには、いわゆる「角のはえた、地獄にいる鬼」の姿に変わっていた。

 力はより強大になった。

 これで人間など取るに足らないと八尋に襲いかかろうとした邪鬼は、ひくりと鼻を動かした。

 力をセーブした姿のときではわからなかった匂いが邪鬼の大きな鼻の穴から入ってくる。

「アー、気持チ悪イ。嫌ニナルナア」

 さっきまでの威勢はどこへやら。邪鬼は急に気の抜けた声で吐き捨てるように言った。

 邪鬼は鋭敏になった鬼の嗅覚で、隠れていた八尋の匂いを嗅ぎわけてしまったのだ。その匂いは八尋に手を出せないことを邪鬼に知らしめていた。

 やる気がそがれた邪鬼は八尋から抜き取った青い魂を片手にその場から逃げ去ろうとした。

 それを阻んだのは八尋だ。

「君には聞きたいことが山ほどあるんだ。逃がしはしないよ」

 八尋はまるで羽が生えているかのように軽やかに邪鬼との間合いを詰める。

 ふわふわと羽衣のごとく八尋の背中で舞う黒髪。怪しく光る青い瞳。

 奏はまるで極彩色な浮世絵を見ているような気分になった。

 決して八尋は派手やかではないが、邪鬼の赤と、眼前で繰り広げられるこの世のものとは思えないできごとの応酬で八尋が鮮やかに色づいて見えた。

 お互いの攻撃は一つも当たらず、埒が明かないと思った邪鬼は八尋から桃太に狙いを変えた。

 邪鬼が桃太を捕まえたのは一瞬の出来事だった。

 パリンと結界の壊れる音とともに桃太の叫び声が森に響いた。

「ッチ、ウルサイナア。……ホラ藤、君ノ大事ナ子ドモノ命ハ、俺ガ預カッタヨ? 青イ目ノ女ノコトハ諦メロ。ソウジャナイト、コノ子ドモヲ殺スヨ?」

 うんざりした様子で八尋を脅す。

「や、八尋さん! その女の人って八尋さんが探している人のことなんでしょう? それなら俺のことは気にしないでください!」

「ア、コラ、余計ナコトヲ言ウナ」

「俺のわがままでついて来たんですから、迷惑はかけられません! それに俺と奏ちゃんは八尋さんの探し人を見つける手伝いをしているんですよ? 俺のせいでせっかくの情報が逃げてしまうなら俺はそっちの方が嫌です!!」

「そうですよ、八尋さん! 桃太郎君は見捨てても大丈夫です! 私が残ってますし!」

「え、奏ちゃん、それはさすがにひどいよ……!」

 これ以上、余計なことを喋らせないために、邪鬼は桃太の首を軽く締めた。邪鬼にとってはほんの少しの力だが、普通の人間にとっては十分苦しい。

「うっ、うう、……あ、ああ」

 苦しむ桃太の顔がよく見えるように八尋に向け脅す。

 桃太が人質にされてから、ピクリとも動かなかった八尋は目を閉じて息を吸った。

 次に目を開いたときも、まだ瞳孔は開いたまま。しかし幾分か落ち着いた様子で「ごめんね、本庄君」と謝罪してから地面を蹴った。勢いを殺さないまま隠し持っていた小刀に変化させた霊符で邪鬼を刺した。

 刺さったのは脇腹だ。

 痛みで人質の桃太と、八尋の魂をぽろっと落とした邪鬼は禍々しい表情で八尋を睨む。

「オ、オ前、俺ヲ刺スコトガ、ドウイウコトカワカッテイルンダロウ?」

「わかっているよ。もちろん。しかしリスクを背負ってでも、僕は君の知っている女の情報がほしいんだ」

「フン。イクラ刺サレテモ別ニ俺ガ消エルワケジャナイカラナ」

「ああ。僕では君を消せない。君を地獄に送り帰す力はないからね」

「ソウダロウ? ナラ、イイ加減ニ俺ヲ解放シナイト、モット多クノ人間ヲ喰ウヨ? 多クノ人間ノ命ト、タダノ女ノ情報、ドッチヲ選ブ」

 挑発的な邪鬼の笑みに、八尋も笑って返す。

「そんなの決まっているだろう? 両方だよ」

 もう一回、八尋は小刀を邪鬼に突き刺した。

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