六話 四月二十四日 夕方 砌駅周辺にて
砌駅に戻った八尋は、落ち着いて事件を整理するために喫茶シェーヌに入った。
ドアを開いた瞬間に包まれるコーヒーの香りと、昨日よりもアップテンポなピアノの転がる音。暗い天気を忘れさせる明るい雰囲気だ。
八尋は昨日と同じ席に座ると、上石から薦められたホットケーキを注文した。
考え事をするには甘いものが最適だ。
ホットケーキを待ちながら、テーブルに地図を開けて熟考する。
一件目はコインパーキング。夜間に女性が襲われた。外傷はない。目撃証言もなし。
二件目はスーパーの裏。こちらも夜間に女性が襲われた。外傷もないが目撃証言はあり。背の高い男。
三件目は公園。早朝に男性が襲われた。腹部が抉られていたが目撃証言はなし。
四件目は喫茶シェーヌの前。早朝に女性が襲われた。外傷はなし。目撃証言あり。中年の男性。
三件目の事件だけ外傷があるのは、おそらく被害者が男で抵抗されたからだろう。
今日現場を回って、話を聞いてわかったことは一つある。それは犯行を重ねる度に、手口が
相手は知性のない鬼だ。夜になるまで待てずに、欲望のまま美味そうな魂の人間が目についたら殺しているのだろう。
――今わかっていることはこれだけか。
八尋は地図をたたみ、目の疲れをほぐすように目頭を揉んだ。
目撃証言はあるが、中年の背の高い男だけではどうしようもない。背が高いのは鬼の特徴ではあるものの、なにも二、三メートルもあるわけではない。それくらい大きい鬼もいるが人間界に来るときに縮めている。
やはり
思考に区切りをつけて窓の外を眺めていると、昨日と同じ茶色い髪の藤原という店員がにこやかにホットケーキを運んできた。芳ばしい香りを放つホットケーキを八尋の前に置き、片手で伝票を丸めて伝票入れに入れた。
店員が立ち去ってから八尋はホットケーキの上に、
ふかふかのホットケーキにナイフを入れると、中から甘い香りとバターの匂いが押し寄せてくる。ゆっくり丁寧に切り分けフォークを突き刺し口に入れると、しっかりした弾力としっとり感が絶妙なバランスを保っていた。甘さもしつこくない。
――人に薦めるのも頷ける。
デザートどころか、普段まともに食事さえ疎かにする八尋でも、もう一度食べたくなる美味しさだ。
ホットケーキを食べながら、鬼について推考する予定は崩れ去った。
八尋は一度もナイフとフォークを離すことなく最後のひとかけまで食べ終えた。
さっさと会計をして喫茶店から出ると、ちょうど八尋の携帯のバイブが鳴った。奏だろうと八尋が予想した通り、電話に出れば上ずった奏の声が聞こえてきた。
「や、八尋さんですか? 私、梅崎です」
「ああそうだよ」
「今、学校が終わったので急いでそっちに向かいます! 八尋さんは今どこですか?」
「昨日行った喫茶シェーヌを出たところだ」
「ということは、まだ鬼を見つけてないんですね!」
「残念なことにね」
奏の声が遠くなり、そばにいるのであろう桃太に向かって「まだ解決してないって!」と嬉しそうに叫んでいる声が聞こえた。
事件を楽しんでいる二人に苦笑いしつつも、かつて八尋も大人からすれば不謹慎なことでもわくわくと心躍らせたことを思い出して、あまり強くは叱れないでいた。度が過ぎれば注意はするつもりではいるが、何事も悲観するより楽しんだ方がいい。
「じゃ、じゃあ桃太郎君とそっちに行きます」
「ああ。僕は砌駅で待っているよ」
電話を切ると、なだらかな坂の上にある砌駅へ向かった。
改札前で待つこと十数分。
待ち人はまだ来ないが、八尋の前を見知った顔が通った。
絹糸のように繊細に光る黒髪と、中性的な顔に映るアンニュイな表情。昨日相談所を訪れた出雲井千歳という少年だ。
「出雲井君?」
思わず声をかけると千歳は振り返った。そして八尋に気づくと物憂げな表情を笑顔で隠した。
「こんにちは、藤さん。こんなところでどうしたんですか?」
「人と待ち合わせをしているんだ」
「ああ、相談所の手伝いをしているという高校生の二人ですか」
「そうだけど、どうしてわかったんだい? 相談者と待ち合わせの可能性だってあるのに」
「簡単なことですよ。相談者と会うのにチョコとスナック菓子を買ったスーパーの袋を持って行かないでしょ」
そう言われて八尋は、自分がスーパーの袋を持ったままなことを思い出した。
「仕事をしている人と会うには早い時間。今はちょうど学校が終わる時間ですし、待ち合わせをしているなら中学生や高校生。それなら相談所の手伝いをしている二人の可能性が高いって思ったんです」
「すごいなあ。まるでホームズみたいだ」
「ホームズですか……。僕はモリアーティの方が好みですね。僕がモリアーティ、藤さんがホームズの方がぴったりじゃないですか? 高校生の二人は
「たしかに協力者がいるという点では僕の方がホームズに向いているかもしれないね」
「一緒に滝に落ちますか?」
「遠慮しておくよ」
軽口を叩きつつ、八尋は千歳が昨日よりも表情が明るいことに安心した。顔色は依然として悪いが、数日もすればよくなるだろう。それまでに鬼を始末する予定であるし。
「それで藤さん、こんな駅で待ち合わせて何かあるんですか?」
「連続不審死事件について調べているんだよ」
「なんだ、まさにホームズじゃないですか」
千歳は楽しげに笑って通行人の邪魔にならないように端に避けた。八尋の待ち人が来るまで話を続けることにしたのだ。
「そういえば、格安で相談に乗ってもらった僕が言うのもなんですが、あんな料金設定で生活できるんですか?」
「はは、心配ご無用だよ。これでも結構相談を受けているんだ。それにパトロンもいるからね」
「パトロン?」
「そうだなあ、言うなれば僕にとってのワトソンかな。僕になくてはならない相棒だ。彼のおかげで僕はのんびりと悠々自適に相談所をかまえていられるからね」
「ワトソンはパトロンではありませんよ」
きっぱりと言い切られ八尋は笑った。
パトロンは冗談だったが、当たらずと
二人が和やかに話を続けていると、八尋の頬にぽつりと水滴が落ちてきた。ついに雨が降り出してきたのだ。
八尋と同じく千歳も傘を持っていなかったが、幸い
「体が冷えるといけないから、もう帰るかい?」
「いえ大丈夫です。帰るときはスーパーで傘を買って帰りますからね。だから藤さんの話し相手にさせてくださいよ。一人で待っているのは寂しいでしょう?」
千歳はふふんと得意げに鼻で笑う。
八尋は肩をすくめた。桃太と奏にしろ、千歳にしろ、自分の決めたことを意地でも変えない意思に年上のはずの八尋は振り回されている。
一人でいても寂しくはない。だけどそれを口に出すことは躊躇われた。
喋りたいのは八尋ではなく千歳の方で、それを素直に言わずに茶化して「八尋が寂しくないように」と言っている中学生の彼の気持ちを無下にはできないからだ。そんな気持ちがまだ残っていることに八尋は自分のことながら安堵した。
千歳がこの場に留まることを拒否できないならば、せめて帰りではなく今、傘を買うべきだ。そう考えて八尋はスーパーを見やると、一人の老婦人が紙に包まれた花を手にスーパーから出てきた。
濃い緑の葉に縁どられた、鮮やかな黄や紫、白の菊は遠目からでも仏花であることがわかった。
――そういえば、近くに墓があったな。
八尋は地図を思い起こす。
墓地の地図記号が記されていた場所を思い出したとき、はっと、ある仮説が脳裏を
大急ぎでその仮説を検証しようとしたが、それを阻むように遠くから八尋を呼ぶ叫び声が聞こえてきた。
「八尋さーん! あれ? 昨日の中学生も一緒じゃないですか。どうしたんですか?」
猛スピードで近づいてくる奏の声。それもそのはず、奏と桃太は自転車に乗っていた。
あっという間に二人は八尋に接近すると、勢いよくブレーキをかけて急停止した。
「こんにちは! 八尋さん、それに……」
「出雲井です」
「そうそう出雲井君だ!」
のっけからハイテンションな奏の腕を掴んだ桃太は、「話はあとで」とまずは自転車を停めさせた。
自転車に鍵をして、かごの中の鞄を持ち上げると改めて八尋に向き合った。
「今日は自転車なんだね」
「そうなんです。急ぎですからね!」
「それで出雲井君はどうして八尋さんと一緒に?」
「たまたま会ったんだよ。君たちを待っていると言ったら時間をつぶすのに付き合ってくれるというから、お言葉に甘えていたんだ」
「ええー、ずるーい。私も八尋さんとお喋りしたかったです」
唇をとがらせて羨ましげに千歳を見る奏は、次の瞬間にはパッと花が咲くように顔をほころばせて八尋を見た。
「八尋さん、事件の方は進展ありますか?」
「ああ、そうだ。ちょうど調べようとしてたことがあるんだった」
八尋は今度こそ仮説を検証するために内ポケットから地図を取り出した。
「地図?」
桃太はまた場所の確認かと楽しくなさげに八尋の手の中の地図を見た。しかしその表情は八尋の説明で一転する。
「気にも留めていなかったんだけど、この近くに墓地があるんだ。僕の記憶が正しければ……。やっぱり思った通り駅から
「鬼門! 漫画で見たことがある!」
「ちょっと桃太郎君、授業でも習ったでしょ」
「うわ、授業の話を今しないでよ」
「だって桃太郎君の言うことだけ聞いてたら、うちの学校がバカみたいじゃない。……出雲井君、桃太郎君がちょっとバカなだけで学校はちゃんとしているからね!」
逸れた話を戻すように、八尋はゴホンと咳払いして注意を促す。
しまったと二人は言い争いをやめて静かにした。
しかし八尋の説明より先に、耳を突き刺すような甲高い女性の悲鳴が雨の隙間を通り抜けて四人の元まで届いてきた。
尋常じゃない叫びにすぐさま動いたのは八尋だ。
悲鳴が聞こえたのは、喫茶シェーヌとは反対の北側。スーパーの前を通り過ぎた丁字路に目を見開き血の気の失った顔の女性が腰を抜かして座り込んでいた。
そばに駆け寄った八尋は、女性の視線の先に血まみれで倒れている人がいた。
顔は見えないが体形からして女。ベージュのトレンチコートは血で汚れ、根本は黒く毛先にいくにつれて茶色い髪は地面に広がり雨と血で汚れている。遺体の近くにはピンク色のビニール傘。これも血が付着しているから被害者のものだろう。女性の周りには赤い塊が散乱している。状況から見て臓器であろうだろう。
「や、八尋さん! これって……」
初めて生で見る血まみれの人間に奏は泣きそうな声を出す。
「連続不審死事件の新しい被害者の可能性は高いね。……梅崎さん、君はそっちの女性についてあげてくれないかい? 気が動転しているようだから」
「は、はい」
まだ混乱気味ではあるが、八尋の指示に従って奏は腰を抜かした女性の隣に膝をついた。
「本庄君……いや、出雲井君、救急車を呼んでくれないかい」
「え?」
どうして自分の名前を読んだあとに千歳に変えたのか。八尋の考えがわからない桃太は戸惑いながらも手持ち無沙汰なため八尋とともに倒れている女性に近づいた。
女性はピクリとも動かない。
「八尋さん、この人って死んでいるんですか?」
生を感じられない目の前の女性に、口の中がからからに乾燥して喉がへばりつく。
八尋は桃太の言葉に何も答えず、倒れている女性の首を優しく触れた。
温もりはあるものの脈はない。
「亡くなっているよ」
「そ、そんな……」
たった今、倒れている女性から遺体の女性に、桃太の中で変わった。
八尋は遺体に手を合わせると、素早くトレンチコートの前を開き腹部を確認する。
三件目の男性の被害者と同じように、白いシャツには直径十センチほどの穴が開き、腹部が抉られていた。
桃太はウッと吐き気を催し、遺体から顔を背けた。
「……本庄君、どうせ君はここに残っていなさいと言っても聞かないんだろう?」
桃太は両手で口を塞いでいるが、八尋を見る目は力強い。
「はあ、本当に危険なんだよ?」
「危険なら、なおさらついて行きます。八尋さん一人の方が危ないですよ。俺、何もできませんけどヤバそうなら人を呼びに行くくらいできますから! 警察でも、えっと尾谷さんでも!」
「ふふ、それは心強いね。……だけど梅崎さんは」
「私もついて行きます!」
耳を澄ませて八尋の話を聞いていた奏は叫んだ。何が何でもついて行くという気概に、八尋はもう一度嘆息する。
――やっぱりこうなるか。
薄々気づいていた展開だ。今は説得するよりも鬼を追いかける方が大事だ。
説得を諦めた八尋は、まだ腰を抜かしている女性に近づきゆっくりと怯えさせないように優しく話しかけた。
「不審な人は見ましたか?」
「あ、ああ……あ」
「大丈夫。救急車を呼びましたから、すぐに救急車と警察が来ます。だから落ち着いてください」
「あ、あ、ああ」
落ち着く様子のない女性に八尋は話を聞くことをやめた。
「出雲井君、電話が終わったところで申し訳ないんだけど、この女性についていてくれないかい? まだ錯乱しているようだから。あと救急車が来たら状況の説明もよろしく頼むよ」
「え、あの、藤さんたちは?」
「遺体はまだ暖かかった。それにトレンチコートの内側は濡れていなかった。ということは殺されて傘が転がってから時間は経っていない。近くに犯人がいるはずだ。……というわけで僕たちは近くに不審な人がいないか探してくるよ」
「そ、そんな、危険ですよ!」
「なーに、僕はホームズだから大丈夫さ」
改札前で交わした会話を知らない桃太と奏は突然飛び出したホームズの名に顔を見合わせた。
千歳が反論する前に八尋は走り出した。振動に合わせて八尋の長い髪が上下に揺れる。
それに続いて桃太と奏も口々に千歳に一言謝ってから八尋を追う。二人とも中学生に任せて立ち去ることに多少の抵抗はあったが、それ以上に鬼を追い詰めることに興味があった。
無残な遺体と錯乱する女性とともにその場に残された千歳は、しかめ顔で救急車が到着するまで弱い雨に打たれながらその場に佇んでいた。
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