第三章 空腹は最大の調味料
一話 四月二十三日 昼 藤相談所にて
珍しく雲一つない晴天の日曜日。ぽかぽかと暖かい花見日和に、相談所の前を楽しそうに通り過ぎる親子の姿も多い。せわしなくクーラーボックスや食材の入ったビニール袋、それに荷物の詰まった鞄を担いだ人が右に左に歩いていく。
その陽気な空気にあてられた
瞼の裏に、在りし日の思い出がよみがえる。狂ったように咲き乱れる桜と、服とは思えない汚れた固い布を身に着けた幼い八尋と、そんな八尋に優しく微笑みかけた美しい女性。すべてが始まった日だ。自分を捨てた世の中に絶望していた八尋に、白くたおやかな手を差し伸べてくれた、あの日のことを八尋は昨日のことのように覚えている。どれだけの時が過ぎようと、その記憶だけは色褪せることはなかった。
懐かしいけれども苦しい記憶を手繰りながら、このまま春の日差しの中にとけてしまおうか。八尋は微睡の中でそう思った。
しかし、ふわふわと夢とうつつの間を浮かぶ八尋を現実に戻すチャイムが鳴った。
夢の中で彼女と再会するよりも、現実で彼女と再会する方がよっぽど大事だ。八尋はすぐにソファーから身を起こして、乱れた髪を手ぐしで整えた。艶やかだが一本一本がしっかりしている漆黒の髪は自らの重みで下へ下へと向かうので、あまり癖にはなりにくい。さっと結びなおすと、今までソファーで寝ていたとは思えない見た目になった。
玄関を開けると、
まだ声変わりも済んでいないソプラノの声で少年は相談に来たことを告げた。
快く少年を相談所に通した八尋は、少年を赤いアームチェアに座らせると陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「僕は
少年はじっと八尋を見つめたまま口を開く。
「
「それで、出雲井君はどういった相談で?」
「……最近、ずっと不安なんです。ぐらぐらしているような感じがして……。別に熱があるわけじゃないし、病気ではないのでどうしようもなくて」
千歳は目を伏せた。長い睫毛の影が頬に落ちる。
二人の間に沈黙が流れた。外の喧騒が聞こえてくる。
八尋は千歳を観察した。白い肌は室内で見ると青白く、目の下には隈ができている。目も弱弱しいが、しかし光は失っていない。
「しんどい?」
「しんどいと言うより、……気持ち悪いです」
考えながら言葉を紡ぐ。
「僕は別に不安になるようなこと何もないのに、どうしてか不安になる。それが気持ち悪いんです」
八尋は彼の話を聞きながら、鬼とは関係なさそうだと息を吐く。
体調不良は不安によるものだろう。鬼の仕業ならばもっと直接的に干渉してくるか、精力が失われている。八尋の知っている鬼に、彼のような症状を引き起こすものはない。
八尋は千歳を安心させるように、ゆっくりとした声で「ずっと天気も悪いし、余計に気が滅入るよね」と笑いかけた。
「原因がわからないと打つ手がなくてイライラするだろうし、一緒に原因を探してみよう」
「原因、ですか」
八尋は手始めに千歳が中学三年生ということで受験の話題を出したが、彼は勉強が得意だと言う。そのあとも家族関係、友人関係、好きな女の子の話にも話を膨らましたがすべて千歳の答えは「問題ないです」。
中学生の事情に疎い八尋は早々に八方ふさがりを感じてしまった。
「いつごろから不安を感じ始めたんだい?」
少し質問を変えてみた。
「春、だったはずです。暖かくなってきたころに焦りとか不安を感じるようになって……」
「ご家族には?」
「体調が悪いとだけ言っています。それで病院に行ったんですけど、何も悪いところはなく。……自分でも理由がわからない不安をどう説明したらいいかわからないんです」
「そうだよねえ」
なおさら原因を突き止める必要が出た。
もう少し雑談でもして性格を探ってみるか、と八尋が口を開こうとしたとき、千歳はふいと顔をそらして窓の外を見た。
「桜……」
千歳が呟いた。
「藤さんは桜がお好きなんですか?」
「え、ああ、好きだよ。君は?」
「僕は好きじゃないです」
真っすぐに八尋を見つめる瞳は深い闇のようだった。
驚いて八尋が何も言えないでいると、千歳はにっこりと笑った。闇は
「儚く散ってしまうのなら、咲かなければいいのにって思いません? 人の心を惑わせて自分はさっさと散ってしまう。なんだか自分勝手ですよね」
「……そうだね、僕もそう思う。散った後のことを考えずに美しい姿を僕たちに惜しげもなく見せつける。とても残酷だ。だけど、美しいから僕は来年も桜が咲くのを楽しみにできるんだ。いいじゃないか、散ったら悲しいし寂しい、けれど来年への楽しみになる」
八尋の言葉に納得しているのかいないのか、よくわからないと言いたげな表情の千歳。
相談所の重い空気を払拭したのは明るい女の子の声。
「こんにちはー! 八尋さーん」
玄関から聞こえた奏の声。
八尋が席を立って玄関に行くより先に、相談所の扉が開いた。
「あ、お客さんですか。うるさくしてすみません」
部屋に入った桃太は、千歳の姿が目に留まり軽く頭を下げた。
「いえ大丈夫です」
柔らかい微笑みを浮かべて千歳は手を振った。そのあとに八尋を見て「この人たちは?」と聞く。
「相談所の手伝いをしてくれているんだ」
鬼のことには触れず表向きの紹介をすると、奏も桃太もその言葉の裏に隠された意味を理解して、ただのお手伝いという顔で千歳に向き合った。
「初めまして
「俺は
「天翔中学三年の出雲井千歳です」
千歳の中学の名前を聞いた奏は何かを思い出すようにふらふらと宙を見つめる。
桃太と八尋が千歳の相談について話している間、一人黙って考え込んだ奏は、はっと引っかかっていた何かに気づいてポケットから手のひらサイズの手帳を取り出した。
この黒い紙製の表紙の手帳は鬼について調べたことをメモしている手帳である。
パラパラとページをめくり、真ん中あたりのページを開くとそこに千歳の学校「天翔中」の文字が書かれている。
「天翔中、最近家出の女の子が多いんじゃなかったっけ?」
盃山市一帯で家出の報告はあるが、特に多いのは天翔中の生徒だ。悲鳴や争った跡はなく、夜中に自分で鍵を開けて家を抜け出している生徒もいるため、進学校のストレスで家出をしているのではないかと噂されている。
千歳は頷いて、奏の言葉を肯定した。
「はい。先生もよく注意しています」
八尋は身近に起こった家出という事件がストレスの原因になっているのではないかと推理すると、それを後押しするように奏はまたページをめくり書かれていることを読む。
「それに天翔中の近くではないけど、このへんだと連続不審死なんかも増えてるからね」
「あ、それ知ってます。家が事件現場のそばなんです。だからよく学校の帰りに警察に遭遇します」
犯人はまだ捕まっていないんですよね、と千歳が不安そうな顔をした。
この相談所の門をくぐってから千歳がそんな表情をするのは初めてだった。八尋はすかさず追尋する。
「そのときに嫌な気持ちになったり、死について何か考えたんじゃないかな?」
「はい、確かに通ったときは憂鬱な気持ちになりました。でも別に直接死んだところを見たわけではないんですよ」
「それでも十分死に直面しているよ。それに恐怖心も抱いている」
「恐怖心?」
「死についての恐怖だ。自覚がないほど微量だけどね」
千歳は視線をさまよわせながら「そうかもしれません」と不安を吐露するように呟いた。
「でも、なんでそんな事件のことを早く言わなかったんですか?」
桃太はつい口から出たという風に言ってから、あっと口を押えた。
「べ、別に悪いわけじゃなくて! 事件現場を通りがかるなら真っ先にそのことを相談しそうなのに……」
「本庄君、君だって新学期が始まって初めのうちは新しい教室やクラスメートに違和感を覚えるだろうけど、そのうちそれが当たり前になるだろう? 出雲井君もそれと同じだ。盃山市で事件が起きることが日常になっているんだよ」
八尋は確認するように千歳を見た。
「はい。もう日常になって登下校中に事件現場を見ているのがおかしいって思わなくなっていました」
「おそらく君は初めて事故現場に遭遇した時からずっと緊張状態なんだと思うよ。睡眠も十分にとれていないし、気が休まっていない。だから気が擦り減って不安定なんだろう。……まだ肌寒いから、今日は十分に暖かくしてホットミルクを飲んでから眠るといい。それから、不安な気持ちを家族や友人に伝えてみるのもいいかもしれないね。しばらくご両親に学校まで送り迎えしてもらえると一番いいんだけどね」
「相談してみます」
千歳の緊張の抜けた表情を見て八尋は一段落したことに安心した。
これで千歳の悩みが晴れるといいが、晴れても一時的なものだろう。現在の盃山市の状況が続けば、また不安はよみがえるし、それどころかひどくなるかもしれない。
「ありがとうございました。あの、相談料は……」
「あなたのお気持ちでいいですよ」
八尋の言葉に少し困ったような表情をした千歳は、時計を見てここに来てから一時間弱経っていることから申し訳なさそうに財布から千円札を一枚テーブルの上に出した。
「あの、僕は中学生でお小遣いしかお金がないのでこれだけですみません。一応、インターネットでこういうことの相談料はもう少し高いことは知っているのですが」
「いや、いいよ。話を聞いただけだからね」
お金を受け取った八尋は、帰ろうとする千歳を呼び止めて個別包装されたチョコレートを一粒渡した。
それを一口で食べた千歳は口いっぱいに広がる甘いチョコの味に目を細め、八尋や桃太、奏に頭を下げ今度こそ相談所をあとにした。
千歳がいなくなると八尋は二人をソファーに座らせ、一度キッチンに入りコーヒーを人数分と、二人分のチョコレートをトレーに乗せて戻ってきた。
二人に対面するように緑のアームチェアに座ると、口火を切った。
「さて梅崎さん、さっき言っていた連続不審死について教えてくれないかい?」
「え? はい」
千歳以外にも同じように不安を抱えている人はいるだろう。その人たち一人ひとりの相談に乗ることは難しい。一番手っ取り早いのは不安のもとを取り除くこと。つまり連続不審死を解決することだ。八尋は警察でも探偵でもないので人間の起こした事件を解決することはできないが、鬼の場合は違う。
八尋にはこれは鬼によるもののような気がしたのだ。
奏は手帳の先ほどまで開いていたページを探すと「隣の
水限駅とは、がしゃどくろの出た駅とは反対方向にある駅である。藤相談所よりも山に近く、夜になると真っ暗になる。
「先月十二日に砌駅のそばで女性が心肺停止の状態で見つかると、二十二日と二十九日にもその近辺で遺体が見つかりました。その後はしばらく事件は起こっていませんでしたが、今月十七日にまた心肺停止の女性が発見されました。三月十二日と二十二日、四月十七日の遺体には外傷性の傷はなかったみたいですけど、唯一、三月二十九日の遺体は腹部に抉られたような傷があって死因は外傷性ショック死だそうです」
すらすらと事件の概要を述べると、手帳を閉じてから最後に「今あまりあっちの方に遊びに行く人はいないですね」と締めくくった。
奏に事件のことを尋ねた八尋だったが、まさかここまで調べられているとは思わず目をぱちぱちとまばたきさせた。
「詳しいね」
「実は、そのことを言いに来たんです」
「ニュース見てて、鬼じゃないかなって思って桃太郎君誘ってきたんですよ!」
それで休日なのに相談所に来たのか、と八尋はようやく二人が今日来た理由を知った。
「まだ
わくわくと目を輝かせる二人に苦笑いしてから八尋は「現場に行ってみようか」と誘った。もちろん二人の返事は元気いっぱい「はい!」だ。
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