閑話
桃太と奏
雨は夜になって止んだ。静寂な闇に、ひんやりと冷えた空気が漂っている。
月は鉛色の分厚い雲に隠れて出てこないが、雲の後ろで白くぼやけて光っている。
夜道を歩く桃太と奏は地面に溜まった水を蹴りながら歩く。
「八尋さんって不思議な人だよね」
奏が楽しそうに言う。
長い黒髪、吸い込まれるような青い瞳、浮世離れした雰囲気、鬼についての豊富な知識。どれをとっても不思議が多い。
「たしかに。謎が多い人だね」
「鬼については挙げたらキリがないし、今日また謎がいっぱい増えちゃった」
「なに?」
「まず、全然怪我を痛がってなかったこと」
「それは切り傷だからじゃ……」
「絶対違うって。切り傷ならあんなに血が出ないでしょ」
桃太はコンクリートに血だまりができた高架下のことを思い出す。雨のせいで量が多く見えていただけだと思っていたが、奏はすべて八尋の血だと言う。
「桃太郎君は鬼を見てたからね。私はほとんど鬼が見えないから八尋さんしか見てなかったの。攻撃を受けたときは顔をしかめたりはしていたけど、そのあとは気にしていないっていうか、気にしてたらあんなに無防備に鬼に向かっていけないでしょ」
奏の言うことはもっともだ。
八尋はあのとき、鬼を恐れていないように突っ込んでいっていた。だから桃太はてっきり鬼は弱いのだと思っていたのだ。攻撃を受けてもたいしてダメージがないからこそ突っ込んでいけるのだと。
実際は違っていた。鬼の力は強く、攻撃を受けるたびに八尋の体は血に染まっていた。
奏はその他にも「尾谷さんとの関係でしょ、あとあの紙も謎だね」などと指を折って今日増えた八尋の謎を数えていく。
「俺は八尋さんが不思議っていうか、なんで探している人を見つけるために鬼を追うのかわからないんだよな」
「私もそれは思った」
「鬼に攫われたとか?」
「逆に探している人が鬼なのかも!」
「それじゃあ、八尋さんは大切な人を殺さないといけなくなるんじゃないか?」
「あー、それもそうか」
桃太の言葉に納得した奏。
風に吹かれて雲はいつもより早いスピードで流れる。雲間から月が顔を覗かせる度に、二人の影が濃くなる。
風は雲だけでなく、奏の長い髪も揺らす。
「八尋さんの大事な人ってどんな人なんだろう」独り言のように呟かれたその言葉もまた風に乗って桃太に届いた。
――奏ちゃんは、八尋さんのこと好きなのか?
桃太に女心はわからない。だからいつも八尋を見つめる熱い視線がどういった種類のものか判断できない。
奏が八尋を好きだからといって、桃太はどうということはない。桃太にとって奏は普段ならば関わらないような関係の女子で、鬼のことがなければ去年度と同じように一度も喋らないまま一年が過ぎていただろう。今、隣を歩いているだけで十分満足はしている。
柔らかい、長い髪が揺れる度に匂う優しい花の香。くりくりした丸い瞳で真っすぐに見つめられて、そして形のいい唇から紡がれる自分の名前。すべて数日前までの桃太には想像もつかなかった贅沢だ。
それでも桃太は気になった。奏が誰を好きでもいい。ただ、桃太は好奇心が刺激されたのだ。
分かれ道の前、立ち止まった二人。
「奏ちゃんは、八尋さんのことが好きなの?」
今しかないと直球で尋ねた。
ぽかんと桃太を見つめる奏。
さあっと風が木々を揺らす音が二人の間を流れていく。
風が止まり、音もなくなったとき、ようやく奏が動いた。くすくすと笑っていたずらっ子のような口調で「どうだろうね」とはぐらかす。
「好きかもしれないね」
「かもしれないって……」
「じゃあ好きだよ。桃太郎君のこともね」
「いや、そういう好きじゃなくって」
わかって言っているな、と桃太はそれ以上聞くことを諦めた。
今までになく楽しそうな奏は「好きだよ。本当に」と弾む声で言う。
照れもせず言う言葉に桃太は信用できないが、少なくとも八尋のことも自分のことも嫌ってはいないことがわかってちょっとだけ安心した。本当に聞きたいことはわからなかったけれど、それだけで十分だ。
「まあ、そういうことにしとこうか」
「あ、信じてないな? 聞いてきたのはそっちのくせに」
「だって曖昧すぎでしょ」
「そっちがその気なら、もう宿題忘れてても教えてあげないよ」と言いながら、奏は桃太とは逆の方の道を進んでいく。
拗ねているような言葉だが、声音は明るい。ただの冗談だとわかっている桃太は笑いながら奏の後ろ姿に「また明日」と声をかけた。
奏は振り返って笑顔で大きく手を振って、また歩き出した。
桃太も歩き出す。数日前とは比べ物にならないくらい充足した気持ちと高揚感に包まれながら。
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