三話 四月二十一日 夜 藤相談所にて

 八尋は濡れた髪をフェイスタオルで拭きながらキッチンに立つ。

 すでに茶葉が入れられた急須に、沸騰してしばらく経ったお湯を注ぐ。湯呑は三つ。それぞれに一巡、二巡、三巡と少しずつ最後の一滴までお茶を注いでいく。

 そしてお盆に湯呑三つと二切れのカステラを乗せるとダイニングのソファーで待っている桃太と奏の元に持って行く。

 このあと事件の詳細を知る人が相談所を訪れると知った桃太と奏が解決後も帰らずに相談所に来ているのだ。


「お待たせ」

 お茶とカステラを二人の前に置くと、二人はカステラを見て嬉しそうに笑いってお礼を言う。

「寒くはないかい?」

「大丈夫です!」

 奏は元気よく答えた。

 一緒に出されたカステラを一口食べた桃太は上品な甘さと美味しさに頬をほころばせた。

「前のどら焼きも美味しかったですけど、このカステラもすごく美味しいです」

「八尋さんって甘いものお好きなんですか?」

 大きな体でお菓子を買う八尋の姿を想像しながら、奏はキラキラと期待した目で聞が八尋は首を横に振った。

「いや、甘いものはあまり食べないよ。昨日のやつも今日のやつも、相談のお礼にいただいたものなんだ」

 八尋はアームチェアに座る。

「二人とも、ご家族に連絡は済ませた?」

 すでに七時を過ぎている。心配そうに聞く八尋に二人は笑って頷いた。

「俺も奏ちゃんも、八尋さんがお茶をいれている間に連絡したので大丈夫ですよ」

「それならいいけど、あまり遅くなったら話が聞けなくても諦めてね」

「少しくらい遅くなったって大丈夫です! ……まあ桃太郎君はダメかもしれないけどね」

「え? なんで?」

「だって明日の数学の宿題してないでしょ」

「あ! 忘れてた!」

「私は休み時間に済ましたけどね」

「えーずるい!」

「ずるくないですー」

 わいわいと騒ぐ二人に八尋は口元を緩めた。

 この家に越してきてから、こんなに家の中が明るいのは初めてだ。それどころか、八尋の周りはいつも静かなのでケラケラと笑う人が近くにいることが久しぶりのことだ。

 ――懐かしい。

 八尋は自分の幼かったころのことを思う。もう思い出せないことの方が多くなってしまった。それでも毎日が楽しく、輝いていて、そして隣には大切な人がいた。すべて今は変わってしまった。

「や、八尋さん! 八尋さんって数学得意ですか?」

 奏に宿題を手伝ってもらうのを断られた桃太が縋るような目で八尋を見た。

「あー、ごめんね本庄君。数学はあまり詳しくないんだ」

「そ、そうですか……」

「諦めて自分でやりなさいよ。教科書見たら簡単にできたよ?」

「そ、それが……」

「まさか教科書忘れてきたとか」

「そのまさかです。宿題出てたことすっかり忘れてて」

 呆れ顔の奏は仕方ないとばかりに「答えは教えないけど解き方くらいなら教えるわ」とため息をついた。

「あ、ありがとう!」

「八尋さんの知り合いが来るまでだからね。終わらなかったら一人で家でやるか、明日学校でやってね」

「うん、うん!」

 いそいそと通学鞄からくしゃくしゃのプリントを引っ張り出した桃太は、掌でプリントのしわを伸ばす。

 桃太の横からプリントを覗き込んだ奏は問題を指差して説明する。それを真剣な顔で聞きながら、桃太はシャーペンを紙に走らせる。


 半分ほど答えが埋まったころ、二人の声とシャーペンの音だけに包まれた部屋に、硬い男の声が響いた。

「八尋」

 玄関が開く音も聞こえなかったので、桃太と奏はびくりと肩を揺らした。

 顔を上げると、ドアのノブに手をかけたまま立っている一人の男がいた。

 八尋に負けず劣らずの高身長。柔和な八尋とは正反対の不愛想な表情。きちりとスーツを着込み、茶色がかった髪はワックスでまとめられている。

「いらっしゃい善夜よしや

 八尋は動じることなくにこやかに男に話しかけた。

 善夜と呼ばれた男は訝しげに桃太と奏を見る。

「その子どもたちは?」

「鬼を探すのを手伝ってくれているんだ」

 簡潔すぎる八尋の紹介に、善夜は見定めるような鋭い目をした。

「梅崎奏です!」

「ほ、本庄桃太です」

尾谷おたに善夜よしやだ」

「善夜は警察官なんだ」

 桃太と奏は驚いてまじまじと善夜を見る。言われてみると真面目な風貌は警察官らしい。それに警察であるなら、確かにスーパーの近くで暴行を行っていた男もどうにかできるだろう。

 注目されていても物怖じする様子のない善夜は八尋の隣の赤いアームチェアに座った。

 物が多く、決して広いとは言えない二十畳のリビングダイニングに合計四人は少々圧迫感がある。元々この家は相談所としてしか人を呼ぶ予定はなかったため、こんなに人が集まるのは想定外なのだ。


 善夜にお茶をいれようと席を立とうとした八尋は、まごまごした桃太の声で動きを止めた。

「あ、あの尾谷さんは八尋さんのお友達なんですか?」

 善夜と八尋はお互い見つめ合って「友達?」という顔をした。

「腐れ縁……いや、八尋の親かな?」

 しれっと答えた善夜に、桃太と奏は目を見開く。

「お、親!?」

 桃太が驚いて声を荒げても、善夜はどこ吹く風といったように悠々と足を組んでどっしりと座っている。

 桃太と奏は八尋の年齢を知らない。それでも見た目は二十代半ばから後半であることはわかる。どれだけ若く見積もっても二十三歳ほどだろう。

 善夜も八尋と同年代か、もしくは少し上くらいにしか見えない。

 善夜が若作りしているのか、それとも八尋が老けているのかと混乱している高校生二人を見て、八尋は善夜をいさめる。

「善夜、冗談がきついだろう。二人が驚いているじゃないか」

「なんだ冗談かー」

 桃太は胸をなでおろした。

 素直な高校生二人の反応に心持ち表情を和らげた善夜は、お茶をいれようとする八尋に「すぐに帰るからいい」と断ってから口火を切った。


「八尋の連絡を受けて、生馬句山しょうばくやまの桜の近くを捜索したら白骨遺体が発見された」

 生馬句山は盃山市の山の正式名である。春は桜を見にハイキングする人もいるが、桜の量が少ないため賑わうというほどではない。どちらかというと紅葉が見どころの山である。

「遺体は一年前に捜索願が出されていた老人のものだとわかった。損傷からして、足を踏み外して崖から落ちたときに足を怪我して動けなくなって亡くなった事故だろうと推測される」

「そうか……」

 事件性はなく、すでに遺族に連絡がいっていると言う善夜の話を聞いて八尋は嬉しそうに目を細めた。

 弔われたら、あの鬼も蝶も無事に消えることができる。死んでもこの世に留まり続けることほど辛いことはない。

 残念なことに一度は鬼と化してしまったから地獄にいくだろうが、それでも時が経てばいつかはまた人間として生まれ変われる。今世で出会った大切な人とは、もう会えないけれどそれでも進み続ければまた新たな出会いがあるのだ。

 八尋は目を閉じて、あの悲しい鬼の行く末に幸せがあることを願った。

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