二話 四月二十一日 夕方 駅にて

 藤相談所を出た三人はつい昨日通った漱朋高校への道を歩く。どうやら事件現場というのは漱朋高校の最寄り駅で起きたことらしい。

 車の通りが少ない広い道には、両サイドに低層マンションや小料理屋、習い事といった建物が連なっている。脇の道に入ると小さい公園もある。ごくありふれた風景だが、多発する事件の影響か出歩いている人は少ない。

 雨脚は弱まった。けれどまだ霧のように細かい雨が降り続いている。

 透明なビニール傘の桃太は後ろを振り返って黒い傘に入っている二人を見た。

 狭い傘の中に、八尋と奏と青い蝶。


「蝶々、逃げませんね」

 外に出たというのに八尋から離れない蝶を見る。

 八尋は鬼に詳しくても蝶にはこれといって詳しくない。だから蝶が雨に濡れたくないから八尋から離れないのか、他の理由があって八尋から離れないのかはわからない。

 雨に濡れたくないといっても限度がある。蝶はすでに八尋の元に訪れてから一時間以上つかず離れずの距離を保っている。

「なんか八尋さんに懐いてる感じですね」

 奏の言う通り、蝶はまるでペットが飼い主に甘えるように八尋の周りを飛ぶ。

 「蝶々って懐くの?」「さあ」と桃太と奏が首を傾げていると、駅の屋根が見えてきた。

 数年前から少しづつ改装されている駅は、このあたりでは一番綺麗で大きい。そして人の乗り降りも他と比べると多い。

 鬼は古くて暗い場所を好むが、その逆の明るく人の多い場所には発生しやすい。人が多いということは、それだけ諍いや不満も多くなる。毎日乗る電車、毎日積み重なるストレス、そしていつしかそのストレスが鬼になる。

 今回もそのタイプだろうと八尋は当たりをつけた。


 軽く雑談を交わしながら三人が駅の前のスーパーに近づいたとき、どこからか怒声が聞こえてきた。

 きょろきょろと辺りを見回した桃太は近くの小さな雑居ビルの玄関に中年男性が二人いることに気づいた。気の弱そうな小太りの男が一方的に殴られている。耳を澄まさなくても聞こえる罵声を放つのは人相の悪い男。

 周りに人はまばらにいるが、誰も小太りの男を助けようとはしない。それはそうだ。近づいただけでも巻き込まれそうなのだから。

「あまり見てはいけないよ、あれも鬼だから」

「え?」

「鬼?」

 じっと見ていた桃太を諫める八尋に二人は聞き返す。

 そして見てはいけないと言われたのにも関わらず、つい男を見てしまう。

 どこからどう見ても人間にしか見えない。

「人を人と思わない人のことを『鬼畜』と言うだろう? それに殺人を犯す人を『殺人鬼』とも。彼らも一種の鬼なんだよ。あやかしの鬼と区別するために人鬼ひとおにと呼ぶこともある」

「じゃああの人たちも八尋さんが退治するの?」

「いや。見ての通り僕はひ弱だからね。ああいう鬼には専門家がいるんだ」

 細い腕を指差して軽く笑いながら、八尋は傘を片手にポケットから携帯電話を取り出すとどこかに電話をかけた。

 今いる場所や状況を伝え電話を終える。微かに漏れ聞こえた電話の相手は男だった。

「これで大丈夫。あとはなんとかしてくれるよ」

「八尋さん以外にも鬼を追っている人がいるんですね」

「ああ、僕より鬼については専門家だよ」

 二人は八尋より鬼に詳しい人がいるのかと驚いた。

 八尋より鬼に詳しく、そして暴力を振るう男にも負けない力を持つ。まったく想像がつかない。桃太の頭にはゴリラのような男が思い浮かんだ。

 桃太が脳内からゴリラを追い出している間に、件の事件現場に到着した。


 駅のホームから少しだけ離れた高架下。駐輪場もあり人通りがないということはないだろう。今は電車が来ていないので人影はないが。

 奏はブレザーのポケットから出した薄いメモ帳を開きそれを読む。

「このあたりで何かに鞄を引っ張られて引きずられた人が二人、駅の階段で突き落とされたのが一人。他は関係あるかはわかりませんが駅の近くで事故に遭ったり自転車から落ちたりしています。なんでも背中を押されたらしいです」

「被害に遭ったのはみんな二人と同じ高校の子なのかい?」

「いえ。うちの高校だけじゃなくて、他の学校の生徒や家族に事故に遭った人もいます」

「そう。ありがとう、よく調べているね」

 八尋に褒められて奏は照れ笑いを浮かべる。

 一つのコミュニティで起きた事件ではないのなら、やはりこの駅が関係しているのだろう。そしてそれはおそらく、この高架下。駅の階段や周囲で起きた事件は突き落とされたものや背中を押されたのに対して、この高架下は引きずられた。どこかへ連れて行こうとしたのか……。八尋は前髪がはらはらと顔にかかるのも気にせず考える。

 しかしある程度の場所は絞れても、大きな駅の高架下はそれだけで距離がある。闇雲に探し回ったところで見つけたころには夜になっているだろう。

 一般人のいる前であまり力を使いたくない八尋だったが、そうも言ってられない。八尋は「残留思念を探してみるよ」と和紙を取り出した。

 桃太は「ざんりゅうしねん?」と頭の中で漢字変換できないその言葉にぽかんとする。

 八尋は気にせずその和紙に息を吹きかけるとたちまち和紙は黒色に染まった。綺麗な黒ではない、たくさんの色が混ざり合った黒だ。

「黒くなった!?」

 桃太は驚いて声を上げた。

「黒は恐怖や心配の色だ。黒に近い紫は恨みの色」

 青に染まった部分を指差し「ここは悲しみを表していて」、次に濃い赤の部分に指を動かし「この赤は怒りだろうね」と説明する。

「色に統一感がない。どす黒い恨みの色の中に淡い悲しみの色。……おそらく」

「おそらく?」

「鬼は複数いるか、もしくは複数が集まった鬼」

 負の感情が寄せ集まって鬼になることはよくあることである。駅を利用する人には学校や会社に不満を持つものも多くいる。条件としては好都合。

 紙を人差し指と中指で挟んで持ち歩き始める八尋を桃太と奏は黙って見守る。

 しばらく歩き、より人気のない場所まで来ると紙はふわりと消え去った。

「近い」

「ええ! 紙が消えた?」

「この紙は清められた紙なんだ。鬼のように穢れた存在に近づくと紙が耐えられなくなって消えてしまう」

「ってことは、この近くに鬼が!?」

「ああ」

 八尋が鋭い目でキッと警戒していると、コンクリートの太い柱がゆらりと揺れた。

 人の形をしたがそこにはいた。

 黒いモヤに包まれた鬼はあくまで人型ではあるが一つの形を保っていない。子どもの姿になったかと思うと大人になり、男かと思えば女になる。表情も多種多様。

「やっぱり負の感情の集合体か」

「『怖イ、怖イ……』『コンナ場所ノセイデ、アノ子ガ……アノ子ガ!』『ツ、次ハ俺ガ殺サレルンジャ……』『警察ハナニヲシテイルノ!!』」

 怯え、悲しみ、怒る。

 鬼の言葉に共通していることは、最近起こった不自然な事件についてを話していること。負の出来事が負の感情を呼び、そして新たに負の出来事を起こす。その連鎖が起こっていることをこの鬼は示していた。

 のそのそと三人に近づく鬼。

 八尋は桃太を見た。

「あの鬼は昨日の生き霊とは違う。確かな殺意を持っている。僕は君たちを必ず守るがなにがあるかわからない。……本庄君、梅崎さんは鬼が見えないから絶対に梅崎さんから離れずに、鬼に近づかないようにするんだよ」

「あ、八尋さん! 私、はっきりとは見えませんがぼんやりとなら見えます!」

「……二週間もそばに鬼がいた影響かな? あまりいいことではないけど、それなら身は守れそうだね」

 体を頭上の線路まで届かんばかりに大きくした鬼が三人を襲う。

 八尋は傘を奏に預けて新しい和紙を両手で持ち、結界を張るが巨大化した鬼から無数の黒い腕が生えてきて結界ごと後方に吹き飛ばされた。

 腕のうちの一本が八尋の後頭部を掠めて、ぱさりとまとめていた髪がほどける。

「っく、大丈夫か?」

 鬼は弱そうな桃太と奏に狙いを定めて襲いかかろうとしたが、ふと動きを止めてゆらゆらと体を揺らす。そしてぐるりと八尋を見た。

 八尋は長い髪を鬱陶しげに後ろに払いながらも鬼から目を離さない。

「匂イガスル」

「匂い?」

「オ前ヲ倒サナイト」

 鬼は力のこもっていない声で呟いた。そしてまた、黒い腕を伸ばす。

 八尋は桃太と奏が標的から外れたことに安堵した。一対一なら勝機はある。

 襲ってくる腕を左右に飛びのいて避ける。それと同時に和紙を掌で撫でならが「この憑代、刀となりたまえ」と祈るとたちまち和紙は小刀になった。

 八尋は小刀を右手で握ると狙いを定めるように切っ先を鬼に向けた。

 八尋が構えるより早く、鬼はまた無数の腕で八尋を襲ってくる。それを今度は避けることなく一直線に鬼に向かって走る。邪魔な腕は小刀で切り落とすが、切り落としきれない腕は八尋を捕まえようと蠢き八尋の腕や足を傷つける。その度に後方では桃太と奏が悲鳴を上げる。

 八尋の服に血が滲み、雨で重くなった髪を振り乱しながらただ鬼に接近する。そしてようやく鬼の懐に入り込むと勢いをつけて首を掻っ切った。

 手ごたえはない。豆腐を切るにするりと鬼に刃が刺さり、ごとりと首が落ちた。

 その瞬間、黒いモヤは桜の花びらとなる。


「桜……?」

 八尋は手のひらの上に落ちてきたひとひらの花びらを凝視した。

 ――どうして桜が?

 その場に似つかわしくない優雅な桜に動揺する。突然の桜吹雪に困惑しながらも倒れた鬼を見ると、みるみるうちに鬼は姿を変えて骸骨となった。そしてその上に、青い蝶が止まる。

 まだ動こうとする醜い骸骨と、その上に鎮座する美しい蝶。あたりには桜の花びらが舞っている。不思議な光景を見つめていた八尋はハッと気づく。

「や、八尋さん、大丈夫ですか?」

 泣き出しそうな奏が八尋の血の滲む体と乱れた髪がへばりつく顔を交互に見ながら尋ねた。

 今まで生きてきてこんなに傷ついた人を実際に見たことがないのだ。それも故意に傷つけられたのだから奏は人の傷つく恐怖と命の危機とを経験した。まだまだ精神的に成熟していない奏には血に濡れた八尋はひどくショッキングなものだった。

 そんな奏を安心させるために「ちょっと切っただけだよ」と笑顔で嘘をつく八尋。実際はえぐられるように腕が刺さった個所もある。

「これ、終わったんですか?」

 倒れている骸骨を見て桃太は尋ねた。

「ああ。だけど、まだ終わっていない」

 八尋は雨に濡れた顔を袖口で拭う。

 終わっていない。変化した骸骨と青い蝶がそれを示している。

「終わっていない?」

「さっきの鬼は負の感情の集合体でしかない。本体はこの骸骨だ。この骸骨に引きずられて鬼になっていたようだね」

 桃太と奏は、首を切られてもなおカタカタと動く骸骨を見た。何かを伝えたいように顎を動かしているようにも見える。しかし言葉を発さない骸骨が何を言おうとしているのか二人にはわからない。ただただ、哀れで恐ろしい姿に奏はぶるりと震えた。

「この骸骨って?」

「がしゃどくろだよ。埋葬されなかった亡骸が鬼となった姿だ」

 八尋は鬼に近づき、そっと差し出した手に青い蝶が止まった。そして「あなたは相談者だったんだね」と話しかける。鬼と同じように蝶も何も答えない。しかし八尋にはすべてわかっていた。

「あ、あの八尋さん、その蝶々が相談者ってどういうことですか?」

 桃太が挙手した。

「この蝶は亡骸の魂だよ。僕のところに来て、いまだにどこかで眠っている亡骸を探してほしかったんだろう」

「どこかって?」

「だいたい予想はついているよ」

 悲しそうに桜の花びらに目をやった八尋は蝶を放すと携帯電話で、またどこかへ電話をした。相手の声は、スーパーの近くで電話をかけたときと同じ、固い男の声だった。

 八尋はその人に桜の近くに遺体があることを伝えると、またもすぐに電話を切った。

 青い蝶はもう八尋のそばには近づいてこない。用事が済んだからあとは遺体が見つかって消えるまで鬼とともにいるのだろう。

 鬼と青い蝶の周りに散る桜の花びらが、まるで手向けの花のようだった。

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