第二章 私を見つけてください

一話 四月二十一日 夕方 藤相談所にて

 朝からどんより重たい空は、昼前には雨雲を連れてきてぽつりぽつりと雨を降らせた。

 坪庭の桜が雨粒に揺れてはらはらと花びらを落とす。

 こんな天気の日は相談者は来ないだろう。八尋やひろは本を読みながらそう思った。

 盃山市さかずきやましに越してきて、もう早いもので三週間が経つ。昼間は主婦が相談に来るが雨の日は客足が途絶えることを十分に理解していた。雨に濡れてまで相談に来るほどの用事は少ない。そもそも切羽詰まった人がわざわざ相談所に行くはずないのだ。体調が悪いなら病院に、何か起きたのなら警察に行くのが普通である。ここは、そういった明確な悩みではなく漠然な悩みを相談する場所なのだから、雨が降ったのなら日を改めてやって来る。

 お決まりの、緑のアームチェアに座る八尋は読み終えた本をサイドテーブルに置いて目の疲れをほぐす。

 鬼についての知識は多い方がいい。

 いくら鬼に詳しい八尋でもすべての鬼を熟知しているわけではない。今までは知っていなくても生活ができたが、今は知らなければ生きてはいけない。この世界にのさばる鬼を見落とさないためにも、鬼について知らなければならないのだ。

 とはいっても、もう本を読み始めてから数時間も経っている。

 八尋は気晴らしに立ち上がって庭に面した窓を開けた。

 今まで遮断されていた雨音が部屋の中まで響いてくる。まだ昼間なのに、すっかり夜のように暗い。

 ――鬼が出そうだ。

 出るというのはいささか語弊がある。鬼は雨の日に現れるのではないからだ。

 鬼は常に存在している。ただ、こういう雨の日のような人間が注意散漫になる日を狙って暴れているだけだ。

 散歩がてら鬼が現れそうな場所を回ってみるかと八尋が窓に手をかけたとき、どこからともなく蝶が現れた。青く小さなどこか神秘的なその蝶は、八尋が窓を閉める前にふわりと部屋の中に入ってきた。

 迷い込んできたというよりも自分の意志で入ってきたような蝶を八尋は追い出すことはせず、いつでも勝手に外に出られるように窓を開けたままにしてソファーに戻った。

 ただの雨宿りだと考えた八尋は、そのうち外に出ていくだろうと思ったがなかなか外に行く気配がないまま夕方になった。


 静寂な相談所にインターホンが響く。

 雨の日なのに珍しい、と蝶をそのままに八尋が玄関に行くと、そこには昨日ぶりの高校生二人がいた。

「八尋さーん、こんにちは」

 一晩で元気になった様子のかなでが笑顔で八尋に挨拶した。

 そこでようやく八尋は、昨日二人が自分の人探しの手伝いを買って出たことを思い出す。蝶が飛び込んでこなければ、すっかり忘れたまま散歩に出かけるところだった。

 八尋は忘れていたことをおくびにも出さないで微笑んで二人を迎え入れる。

「やあ、梅崎うめざきさん。元気になったようだね」

「えへへ、昨日ぐっすり寝たら綺麗さっぱり疲れは吹き飛びました! それに八尋さんのお手伝いが楽しみで朝からわくわくしていたんです」

 昨日と同じソファーに座った奏が照れたように笑う。

「そんなに楽しいことかな?」

「楽しいです!」

 八尋には理解ができなかったがそれを口に出すほど無粋ではない。

 若い女性の感性はそんなものかとひとまず納得していると、桃太とうたが話に割り込んでいいのか戸惑いながら奏に話を促す。

「そ、それより奏ちゃん、学校で聞いた話をしないと」

「学校で聞いた話?」


 ああ、そうだったと奏は今日二人が相談所に来た目的である、八尋に学校で得た鬼の情報を伝える。

「今日、友達に変わったことを聞いたんですけど、何人かが怪我で休んでいるそうです。前からちょこちょこ怪我をしてる人が多いなって思ってたんですけど、それがただの怪我じゃなくて襲われたそうで……。階段から突き落とされた人もいるらしいです」

「みんな声を揃えて言うのが、『犯人は見ていない』」

「『見たはずなのに見えなかった』と言う人もいました」

「これって鬼、じゃないですか?」

 交互に喋る奏と桃太の話を聞いた八尋は頷く。

「そうだね」

「じゃあじゃあ、事件現場見に行きますか?」

 奏はうきうきした気持ちを隠し切れていない。

 場所まで調べているのかと感心していた八尋だったが、ふと疑問を抱く。

「梅崎さんは鬼は見えないんじゃないかな?」

 生き霊が見えたのはあくまで当事者だったから。他の鬼は見えないはずである。

 それなのに楽しみにさせるのは心苦しいと困った顔で八尋は聞いたが、奏はからからと笑いながら「私は桃太郎君と違って別に鬼は見たくないので大丈夫です」と言う。

 桃太は、まるで俺が鬼のことが好きな変人みたいじゃないかと文句を言おうとしたが、あながち間違っていないことに気づいて口を閉ざした。

「それならいいけど……」

 ではなぜそんなに楽し気なのかという疑問は闇に葬った。ただでさえ雨で外は暗いのだ。ここで無駄話をしている暇はない。

 出かける準備をする八尋を見ていた桃太は、今、八尋の周りを優雅に飛ぶ青い蝶の存在に気がついた。

「あれ? その蝶々どうしたんですか?」

「どうやら迷い込んできてしまったようでね。外に行くついでに逃がしてあげるよ」

 へえ、と二人は美しい蝶を眺め、用意の済んだ八尋とともに玄関に出た。

 外に出て傘をさす桃太の横で、奏は傘をさす様子はない。それどころか傘を持っていなかった。

 どうやら傘を家に忘れてきたらしい。

 一人暮らしの八尋の家には傘は一本しかなく貸せる傘はない。相談所に来たときは桃太の傘に入ってきたと言うので、またそうするのかと思いきや、奏はもじもじと手を握りながら「八尋さんの傘に入ってもいいですか?」と聞いてきた。

「もちろんだよ」

 桃太の傘より八尋の傘の方が大きい。

 だからといって体の大きさが違うのだからどうせ窮屈なことには変わりないだろうに。

 八尋は不思議に思いながらも奏に傘を差しだした。

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