五話 四月二十日 夕方 漱朋高校の校門にて
川岸に咲いた菜の花が、むせるような強い香りを放っている。
夏になると稲の青い匂いが生ぬるい風に運ばれてきて、秋になると台風で川の増水が心配になり、冬は遮るものがないために冷たい風に晒される。季節が変わるたびにその道を通る生徒たちは悲鳴を上げて友達と笑い合っている。
本庄と梅崎の前を歩く八尋は振り返って後ろを歩く本庄を見た。
一見普通に歩いているように見えるが、口元は緩んで楽しみでならないといった顔だ。なにより今にもスキップしそうな足取りで歩いている。
あれだけ楽しみにしていた鬼に会えるのだから心が躍るのはわかる。しかし忘れてはいけない事実があるのを本庄は覚えているのだろうか。
本庄は鬼が見えない。本人が今まで見たことがないと言っていたのだから今から会いに行く四条という女子生徒の生き霊も見えないだろう。
楽しそうにしているのに水を差すようなことはしないが、八尋は後で本庄がガッカリしないかどうか心配になった。
川沿いの道から左に曲がり、漱朋高校の校門の前に到着した。
八尋は時計を確認してまだ完全下校まで時間が残っていることを確認すると梅崎の顔を見た。
「四条さんとは二人っきりで会ってほしい」
「え?」
梅崎は固まった。
「もちろん梅崎さんに危険が及びそうなら助けに入るから安心して」
奏はほっと息を吐く。
「もし四条さんが梅崎さんを怨んでいるなら、おそらく君が目の前に現れると動揺して鬼が姿を見せるだろう。二週間も鬼になっていたんだ、そろそろ同化が起こっているはずだからね」
「わ、わかりました」
「大丈夫、絶対に怪我はさせないから」
勇気づけるように梅崎の肩を叩くと、梅崎は嬉しそうに笑った。
八尋は続いて本庄に顔を向けると、「君は危険だから絶対に隠れているように」と言って、電信柱を指差した。校門からは死角になっているから、そこから動かなければバレることはない。
本庄は不満げな顔をしたが、自分が出て行って何かできるわけでもないことを理解しているので何も言わなかった。言えなかったという方が正しいが。
八尋が梅崎に話の切り出し方や、鬼が現れたあとの対処の仕方を説明していると、完全下校を告げる放送が聞こえてきた。
その場に梅崎を残して八尋も電信柱に身を隠して数分、一人の女子生徒が校門から出てきた。
前髪が少し長めの黒いボブヘア。細いフレームの眼鏡に、膝が隠れるスカート丈。シャツもリボンも何一つ乱れていない。どこから見ても完璧な優等生タイプの生徒だ。
その女子生徒に梅崎は声をかけた。
「四条さん」
「え、……梅崎さん、だよね? どうしたの?」
梅崎を視界に入れた四条はびくりと肩を震わせて、肩にかけていた鞄の紐を握りしめた。
「急にごめんね、ちょっと宮本君のことで聞きたいことがあって」
「み、宮本君がなにか? 私、去年同じクラスで仲良かったけど、クラス離れてから一回も喋ってないし、梅崎さんの邪魔はしないよ」
早口でまくし立てると、四条は顔をしかめて苦しそうに後退って梅崎から数歩距離を取った。
完全に宮本が梅崎と付き合っているという噂を信じ切っているようだ。
その噂を否定しようと梅崎が四条に近寄るが、その度に四条は後退り距離は縮まらない。
梅崎に負けず劣らず顔色の悪い四条は、時間が経つごとに苦しそうに歯を食いしばり、胸元のシャツをくしゃりと握りしめた。何かに耐えるように背中を丸めていた四条は「違う、違うの」と呟きながら体を小さく丸め、ついに地面に尻もちをついて地面に倒れてしまった。
それに心配した梅崎は一気に距離を詰めて近寄ると、倒れた四条の体から黒いモヤモヤした霧が溢れ出た。
その瞬間、電信柱の影から八尋が飛び出してきた。
「動きそ」
動きそ? と八尋の発した謎の言葉に本庄がきょとんとしている間に、八尋はいつの間にか握られていた短冊状の和紙をモヤモヤしたものに叩きつけた。
モヤモヤしたものはピタリと動きを止めた。
止まってみると、そのモヤモヤの中に半透明の四条の姿があることに梅崎は気づき、「きゃあっ!」と声を上げた。
梅崎を背に隠した八尋は静かに四条の名前を呼んだ。
「四条さん、意識はあるね?」
「……はい」
四条はか細い声で答える。
「急なことでびっくりしただろうけど、落ち着いて話を聞いてほしいんだ。君は誤解して苦しんでいるだけだから」
「誤解?」
胸の前で両手を握りしめたまま座り込んでいる四条は混乱した様子で背の高い八尋を見上げた。
わけのわからない半透明の自分自身、見知らぬ男、それぞれをふらふらと見てから、奥にいる毎日妬んでいた女、梅崎奏を見つめた。
「そう。だけど詳しい話は僕じゃなく、梅崎さんから聞いた方がいい。僕はあくまで部外者だから」
四条から見えやすいように、八尋の背中から一歩横にずれた梅崎は眉を下げて、へらりと笑った。
「えっと、私、二週間前から寝ているときに金縛りにあうようになったの。一週間前からひどくなって……。そのこと調べてたら、もしかしたら四条さんが関わってるんじゃないかなってことになって話を聞きに来たんだけど……」
奏が話を進めるごとに四条の顔色は悪くなり、固く握りしめた指先は真っ白になっていた。
カタカタと歯を鳴らす四条に、八尋は「おそらく君の生き霊ではないかと思ったんだけど、どうかな?」と、あくまで優しく問いかける。
「ご、ごめんなさい!」
四条は泣きそうな声で叫んだ。
「ってことは、やっぱり四条さんが?」
「そ、そうだと思う……ちょうど私が……、その、梅崎さんのことをちょっとよく思わなくなったのと一緒だし……。それに私、夢で……梅崎さんを苦しめてたから……。で、でもね! 本当に夢だと思ったの! まさか本当に苦しめていると思わなかったの。ごめんなさい」
うわ言のように謝罪を口にする四条を落ち着かせながら梅崎は続けて聞く。
「私のことを嫌いになったのって、宮本君が原因?」
「う、うん。私、去年宮本君と同じクラスで、その……好きになって……」
四条は俯いて懺悔するように話し始めた。
「でも告白する勇気なかったし、せっかく仲よかったのにフラれて関係崩れたら嫌だなって思ってて……。それなのに二年生になってみたら宮本君とクラス離れちゃうし……。新学期始まった日に、宮本君と話してる梅崎さんを見て、羨ましいなって思ってたら、梅崎さんを苦しめる夢を見始めるようになったの……。……で、でも先週梅崎さんが宮本君と付き合い始めたって噂聞いて、私はただの仲のいい女友達の一人でしかないんだって諦めたの。元々私じゃ宮本君の彼女なんて相応しくないし……。」
「でも本心では諦めきれなかったから、生き霊の力はより強くなったのか」
八尋が納得したように言った。
「ちゃ、ちゃんと宮本君を友達として『彼女ができておめでとう』って言おうって思ってたの。……昨日、言おうと思ってたんだけど、やっぱり勇気が出なくて」
昨日、と聞いて八尋だけでなく話を聞いていた梅崎や本庄もピンときた。
「それで梅崎さんは生き霊に首を絞められたのか」
「ええ! そんなことしてたの!? 本当にごめんなさい!」
自分の生き霊が梅崎の首を絞めたと知って四条は目を見開いた。そして罪悪感で顔を歪めながら、また泣き叫ぶように謝った。
「ううん、もう済んだことだから大丈夫! それに私にも原因あるかもしれないし」
「原因?」
「そうそう。私、宮本君と付き合ってないもん」
あっけらかんと言い放たれた言葉に、四条はぽかんと口を開けたまま数秒固まった。
「ええ!? でも、先週委員会のときに梅崎さんが『宮本君のこと好き』って言ったって……。あ、もしかしてフラれた、とか……。ああああ、ごめんなさい、そんなナイーブなときにこんな……!」
「違う違う、フラれてないし、そもそも告白してないから。誤解なの」
「これ、言っていいかわからないけど、言わないと解決しないから言うね。実はね、――」
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