二話 四月十七日 夜 藤相談所にて
「あの! 鬼ってなんですか!」
工場から帰った八尋の元に訪れたのは、目を輝かせた少年だった。
短い黒髪に、かっこいいとも可愛いとも形容しがたいありふれた平凡な顔。まだ幼さが残っているものの大人を迎えようとしている高校生らしい顔立ちだ。
冷静に少年を観察しつつも、八尋は混乱したまま。
帰宅した直後に家の呼び鈴が鳴り、珍しく遅い時間に相談者が来たと思った八尋が扉を開けた瞬間に、さっきの言葉が飛んできたのだ。
八尋は玄関の扉に手をかけた状態のまま、呆気にとられて動きを止めている。しかし少年が相談者でないことを察すると、僅かに戸惑いを見せながらも少年を家の中に招き入れた。
玄関を入って突き当りの部屋が、相談所として使用しているリビングダイニングだ。
至るところに本棚が設置されており、物も多い。アームチェアが二脚と大きなソファーが置いてあるのだ。整頓はされているが、ごちゃごちゃしていて本来のリビングの用途としてはいささか使いにくそうである。
八尋はアームチェアの赤い方を少年に勧めると、自分はその前に置かれた緑の方に座った。
「僕はここで相談所をしている藤八尋だ。君は?」
「お、俺は
アームチェアに座って気持ちが落ち着いたのか、本庄は先ほどまでの威勢はなりを潜め気まずそうに目を泳がせた。
「いや大丈夫だよ。もう相談所は閉めるところだったけど、君は相談者じゃなくてただのお客さんのようだからね。……それで君はさっき『鬼』と言ったけれど、どうしてそれを知っているのかな? それに僕のところに聞きに来たのも不思議だ」
柔らかい声と表情とは裏腹に、探るような目で桃太を見つめた。
そんな八尋の目にまったく気づかない本庄はのんきに笑う。
「さっき藤さんが工場のとこで俺の高校のやつを助けてとき、俺もそこにいたんだ」
そのとき初めて八尋は本庄が先ほど助けた少年と同じ制服を着ていることに気付いた。
本庄は続ける。
「俺、たまたまあそこを通ったんだけど、人が殴られているところに遭遇して怖くて隠れてたんだ。そしたら、あなたの『鬼じゃないのか』っていう言葉が聞こえてきて、……本当はそのときに鬼が何か聞きたかったんだけど、いじめられてるのを助けずに隠れてたっていうのが同じ学校のやつにバレるのが怖くて出られなかったんだ。でも鬼が何か知りたかったから、いじめられてた人がどこかに行ったあと、藤さんのあとをつけてここまで来ました! ……藤さん、鬼ってなんですか?」
あのときか、と八尋は不良たちの前に姿を現したときのことを思い出した。そして八尋の返答を心待ちにしている本庄に向かって言葉を選びながら口を開いた。
「鬼というのは、あやかしのことだよ」
簡潔に過不足なく紡いだ言葉は本庄の好奇心を掻き立てるものだった。
興奮気味に、八尋の言った「あやかし」という言葉を反復する。そして今にも叫びだしそうな昂りを抑えながら「あやかしが、存在するの?」と聞いた。八尋が肯定することを予想した、確認のためのような問いだ。
本庄の予想した通り八尋が頷くと、本庄は全身で喜びを表現するように目を大きく開いて前のめりになった。
「あやかし、……幽霊が本当に存在するなんてすごい! あ、あの、俺も見ることってできますか?」
「いや、普通の人は見えないから君も見えないと思う。今まで霊を見たことがないのだろう?」
本庄はその言葉に肩を落とすが、あやかしを見たいという欲求は止まらない。
どうにか見られる方法はないかとあれこれ考えを巡らす。そしてここが相談所であるということを思い出した。
断られるだろうけれど、言わないですごすご帰るよりましだ。と、本庄は恐る恐る八尋を見た。
「……ここ、相談所ですよね。どんな相談をするところなんですか? 結婚なら結婚相談所、法律なら法律相談所。それなのにここは『相談所』としか表に書かれてませんでしたよね」
まずは普通の質問で様子を見る。
「なんでもいい。不安なことをでも誰かに聞いてほしいことでも相談を受けるし、僕にできる範囲で一緒に解決するよ」
それなら、と本庄は用意していたセリフを口に出す。
「じゃ、じゃあ俺が『幽霊が見たい』って相談したら、一緒に方法を探してくれますか?」
八尋は苦笑いを浮かべた。それから、なんと返事をしようかと本庄から窓の外に視線を移す。そこには桜が咲いている。悩む八尋のことを気にすることなく優雅に散る桜。
できれば、この幼い少年を鬼という危険なものに近づけたくはない。
それを直接言っても目の前で八尋の返事を心待ちにしている本庄には納得しないだろう。
「ええっと、今たしかに僕は『なんでも相談に乗る』とは言ったけれど、あくまで『最近なぜだかモヤモヤする』とか『原因のわからない苦痛を聞いてほしい』とかいうものなんだ。……それに鬼はそう簡単に見つかるものでも、見られるものでもない。僕は鬼を探すために相談所をやっているが、めったに鬼にたどり着くことはないよ」
だから君も諦めなさい、と続くはずだった言葉は本庄によって遮られた。
「苦痛の原因が鬼の場合もあるんですか!」
本庄は歓喜の声を上げた。
「え? ああ、あるよ。原因不明の体調不良が鬼のせいというのは昔からよく言われているだろう?」
本庄は鬼のせいで体調不良になるなんて話を聞いたことがなかったが、そんなこと今はどうだっていい。
「相談したいことがあるんだ!」
本庄は喜色をにじませた声で叫んだ。
「相談? でも鬼を見るのは……」
「そっちじゃなくて、体調不良の方!」
「……君が?」
まったくそうは見えないけど、と怪訝な目で見る八尋に本庄は慌てて首を横に振った。
「お、俺じゃないです! クラスの女子が新学期に入ってからずっと体調がよくないみたいで、しょっちゅう保健室に行くんだ。絶対幽霊のせいだよ」
「元々体が弱いとか、風邪とかじゃなくて?」
「じゃないそうです。俺、高校二年なんだけど、去年もその子と同じクラスだったんからわかるんだ。去年は一回も授業中に保健室行くなんてなかったし、病欠すらなかったはず。……それに、その女子と俺の席が近いんで、体調不良の原因がわからないっていうのが聞こえてきたんです」
八尋はまだ本庄の言う女子生徒の体調不良が鬼によるものだとは思っていない。だが、鬼の可能性がゼロではない。
「ふむ、たしかに鬼が関わっている可能性はあるね。だけど絶対じゃない。君の話ではまだわからない部分が多すぎる。詳しく話を聞きたい……が、もう外は真っ暗だ。日を改めよう」
本庄は物足りなさそうな顔をするが、八尋の言う通り外は暗い。時間は遅くはないが。まだ春だから日が落ちるのが早いのだ。
居座りそうな表情をする本庄をどうにか帰そうと八尋は優しく提案する。
「一応明日も話を聞いてあげるから、また明日おいで。そのときはもう少し詳しい情報か、それかその女の子を連れてきてくれると嬉しい」
名残惜しいと言わんばかりの本庄にそう言い、彼を玄関先まで見送った。
一人になった八尋はソファーに寝転がり天井をぼうっと天井を見る。
今まで相談所を訪れるのは大人で、しかも皆悩みがあるので表情は暗く、語調はゆっくり。本庄桃太のように明るく騒がしい若者は間違っても藤相談所を訪れない。
慣れない対応に気疲れした八尋は窓の外の桜に視線を移す。
元気な本庄にしても、工場で助けた少年にしても、八尋には何を考えているかわからない。
子どもはこんなにも考えがわからないものかと目を閉じた。
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