第一章 伝えられない想いが鬼になる
一話 四月十七日 夕方 工場にて
黄昏時、それは人ならざる者と出会う時間である。
藤相談所は山にほど近い小さな町にある。
戸建ての家を相談所兼自宅として使用している。
この相談所の主、
後ろで束ねた漆黒の髪は、背中を流れるように腰まで伸び、短いまつげに縁どられた瞳は天のような淡い青色をしている。柔和な微笑を浮かべた表情は、彼の高い身長の威圧感を打ち消してくれている。
晴れやかな笑顔の相談者は何度も振り返って八尋に頭を下げた。それにつられて八尋も会釈を返し、ようやく女性の姿が見えなくなると、短く息を吐いた。
八尋がこの町に相談所を構えたのは桜がほころび始めたころのこと。表札には「藤相談所」としか書かれていない。広告も出したことがなければ、宣伝もしたことがない。それなのにも関わらず、相談所を訪れる客は後を絶たない。
藤相談所がある
しかし現在はその限りではない。平和な盃山市が、週に一度は全国ニュースで名前が聞かれるようになったのは肌寒い三月上旬のころ。ニュースの内容は平凡なまちに似つかわしくない犯罪や事件事故ばかり。
短期間に急増した犯罪にネット上では、「何かに呪われているんじゃないか?」「きっと祟られてるんだよ」と面白おかしく囃し立て、桜が咲くころには盃山市は「呪われた土地」と呼ばれるようになっていた。
突然の治安の悪化に不安になった住民たちは、この一見怪しげな藤相談所を訪れては事件や事故に対する不安な胸の内を相談していた。
特に藤相談所は盃山市でも特に事件が頻繁に起こる場所にある。近隣に小学校・中学校・高校があり人が多いうえに、少し離れたところには工場地帯まであるのだ。
前まではちょっとグレた若者が深夜に集まって駄弁るだけの場所だったが、今では犯罪を企てる者や、闇に乗じて犯罪を犯そうと待ち伏せる人の絶好のたまり場となっている。
八尋は赤紫に染まる空を見上げながら周りを行き交う人の会話に耳を傾けた。新しいクラスのことを話す学生、無邪気に笑う子ども、今日の献立を相談する親子。そんな何気ない会話の中に、不穏な会話が紛れている。最近起こった殺人未遂の話、近所の高校の生徒がいじめられている噂、少女たちが家出をしている情報。雑音ともとれる音を聞きながら、藤は玄関の鍵を閉めた。
越してきてまだ間もない八尋は、時間ができれば散歩に出かけて近所の地理を覚えていた。昨日は近くの神社、その前は山に。頭の中で地図を思い浮かべながら、八尋はまだ行ったことのない工場地帯に足を進めた。
歩き始めて十分。大きな川を渡ると、今までの細々とした住宅地から一転、大きく区画整理された工場地帯に変わった。公園や木々の多かった住宅地とは違い、工場地帯は鼻につく化学薬品の臭いが漂っている。
八尋はそんな臭いを気にせず大きな道を歩く。
工場地帯と言ってもコンビニもスーパーもあるし、なにより住宅地の近くのため人通りもまばらにある。特に今の時間だとまだ下校途中の生徒も見かけるため、噂のような不良のたまり場にはなっていない。
すでに業務を終えた工場も多いが、それでも八尋のイメージしていた場所ではなかった。
――これは時間を改めてまた出直すしかないか。
平和そうな空気に肩を落として、せめて場所を確認しようと目的を変更する。
碁盤の目のように整理された大きな道では見落としも多い。
今の時間なら問題ないだろうと人気のない細い道を選んで歩いていると、微かに人の話し声が聞こえた。
八尋は足を止め、耳を澄ませてその声を聞く。
「おい、なんだその目は」
「なんか文句あるのかよ」
「あっても何も言えねえだろ? なあ? 弱虫くん」
聞き取れた言葉は怒気を含んだ低い男たちのもの。
八尋は音を立てないように気をつけて立ち止まり、聞き耳を立てる。
どうやら複数の男が誰かを暴行していることがわかった。鈍い打撃音と呻き声、そして会話からするに、喧嘩ではなくリンチ。それもただストレスを発散するためだけの暴行で、日頃行われているらしい。
声でおおよその人数を確認していると、男たちはどんどんヒートアップして狂気じみた笑い声とともに暴行のスピードも大きくなる。
ひと際大きな音がしたかと思うと、リンチを受けているのであろう若い少年の声が途切れた。
このままでは大怪我では済まない。
八尋は歩みを進め、男たちの前に姿を現した。
細い道にはボロボロの制服を着た高校生と、その高校生を囲うようにして立つ男が四人。
工場の一角に響いていた音がピタリと止んだ。
八尋の姿は、ちょうど逆光になっていて不良たちには見えない。それがよかったのだ。八尋の優しい顔が見えない今、不良たちにわかる八尋の特徴は身長が高いということだけ。それだけで不良たちは危機を覚えた。
突然の八尋の登場に目を見開く男たちに向かって、八尋はゆっくりと口を開いた。
「おや、鬼ではありませんでしたか」
小さく呟かれたその言葉は、空気にとけて固まっている不良たちの耳には入らなかった。
八尋の目の前の四人の不良たちは、八尋が何者か判断できずにいた。しかし八尋が警察やリンチを受けている少年の関係者でない一般人であっても、暴行現場を見られたことが不味いことだということは理解している。もちろん暴行が犯罪だということも。
「お、お前、喧嘩売ってんのか! お前も一緒に殴られてえのか!?」
泥だらけの高校生を押さえつけている男が舌を巻いてケンカ腰に八尋に食ってかかった。
見つかった以上、男たちに残された道は逃げるか威嚇するかしかない。この男は後者を選んだのだ。
しかし他の三人は違った。
「よせ。他に誰か来たらどうするんだ」
「お、おい、こんなやつに構って俺らが捕まったらたまらねえぞ」
「そうだな、逃げるぞ」
言うが早いか、三人は食ってかかった男を置いてその場から立ち去るので、押さえつけていた男も慌ててその後を追った。
完全に男たちがいなくなったのを確認した八尋は、まだ地面に倒れている高校生に顔を向けた。
ブレザーの制服は近くの高校のものだ。青白い肌に小柄な体。いわゆるいじめられっこにありがちな容姿をしている。しかし表情だけは気弱なものではなく、今にも牙をむきそうな険しい顔。
八尋は少年を助け起こそうと手を差し出すが、その手は払いのけられた。
少年は一人で起き上がると、八尋には何も言わずに八尋の横を通り抜けた。
「あ、君」
八尋は振り返って少年に声をかけたが無視された。
助けが邪魔だったかのような反応に八尋は首をかしげる。しかしあのとき聞こえてきた呻き声は確かに苦し気なもので、間違っても嬉しそうな声ではなかった。だからこそ八尋は助けに入ったのだ。
誰もいなくなった工場のそばで、八尋は気難しい思春期の少年との出会いにため息をついた。
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