第12話 瑠璃色サイコメトリー

 ママが幸せになれますように。


「……おなかすいた」


 両手をほどいて、カーテンを閉め切った窓を見る。もう暗くなってずいぶん経つ。そろそろママが帰ってくる時間かな。

 お夕飯の支度をしなくちゃ。

 疲れて帰ってくるママに、温かいものを食べさせてあげたい。

 立ち上がろうとして、ふらつく。手足がしびれている。

 そういえば、今朝からなにも食べてない。

 そうだ、食材が一食分しか残ってなかったから、とっておいたんだ。ママのぶんだけ支度しよう。

 でも、その前に水を飲もう。頭がずーんと痛む。脱水症状で倒れたら、ママを困らせてしまう。

 狭くて暗い賃貸契約の部屋、壁を伝って台所に向かう。術式で動く冷蔵庫の蓋を持ち上げた。水甕みずがめと、おにくと、おやさい。ハンバーグは作れるようになった。作ったら、ママ、喜んでくれるかな。嬉しくなってくれたらいいな。

 水甕を両手に挟む。重くて、冷えてる。持ち上げて冷蔵庫から出し、おでこで支え

 滑った。

 ごちん、と鉄さびの臭いが頭の中で鐘を打つ。


「痛っい!」


 陶製の音は素っ気ない。

 水を踏んで初めて、落とした甕が割れたんだと分かった。

 自分のやったことに気が付いた。


「あ、ああ……ああああああああああっ!」


 見えるものが色あせる。高いところから落ちているみたいに胸が締め付けられる。頭の中がぐらぐらする。へたり込みそうな腰を、引きずって、洗面所のタオルを引っ張った。

 拭かなきゃ。拭かなきゃ。拭かなきゃ。

 ママが帰ってくる。


「待って。待って待って待って待って待って」


 拭いても拭いても、水はなくならない。タオルはあっという間に濡れそぼって水を拭き取れなくなった。

 拭けないタオルでこすって、鼻の奥が苦いものでつんと痛む。こんな、水がたくさん、どうすれば。

 どうしたら。

 ママが帰ってきちゃう。

 ガチャン。

 頭が真っ白になった。

 ガチャッと扉が押し開かれる。


「あーのクソ上司、いい加減死ね……え?」


 ああ……。

 ママは扉を開ける途中のまま、書類鞄を落とした。


「てめぇっ!」


 視界が右に飛ぶ。

 水たまりに服が濡れて、倒れたことが分かった。


「水甕をっ! 高いのに! 気を付けろって言っただろっ! このグズ! バカ!」


 痛い。熱い。怖い。

 なんども踏みつけられる。


「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」


 グズだから。バカだから。

 水甕を落としちゃうし、拭くこともできないし、いるだけでママを傷つける。


「疲れてるってときに、わざわざ、こんなっ! なんなの!? そんなに私が嫌いなら出てけよ!」


 違うの。わざとじゃないの。ママのこと大好きなの。

 ただ、イデアがダメなだけなの。

 ママには幸せでいてほしい。

 心からそう願っている。

 本当の、本当に。

 だって。

 当然だ。

 ママが幸せなときは、イデアを蹴らない。




 月が迷い子で隠される。

 手は操縦桿を握っているし、背中はシートにもたれている。足は床についている。


「俺は……」


 今、正面スクリーンを通してヒロの目に見えているものは、エクスマキナだ。

 異界の巨神に擁されるイデアだ。


「俺は、ヒロだ」


 目を見開く。

 跳ね起きて操縦桿を押し込み、エクスマキナから弾き飛ばされるようにして距離を取った。

 離れる機体の制御もせず、ヒロは操縦桿から手を放す。胸をかく。目をつむる。荒い呼吸のなかに記憶を手繰る。


「カナは……覚えている。カナを忘れていない。塗り潰されてない。思い出せる、大丈夫だ」


 蒼い髪と犬の耳。ありありと脳裏によみがえってくる。

 目論み通り、カナの体を張った半裸の抱擁は強烈だった。そうそう記憶から引き剥がされない。


『ヒロ、大丈夫?』

「もう平気だ。ありがとう」


 ヒロは深呼吸し、操縦桿に手を添えてブースターを噴かす。ずいぶんと落ちた。

 エクスマキナを見上げて顔をしかめる。


「なんなんだ、今のは」


 間違いなくイデアの記憶だ。

 ゼロドライブに乗ってから、たびたび似たようなことが起こる。

 狭い部屋で繰り返す日々。不安と焦燥に炙られるような緊張感でひりついていた。

 愛されていたはずだ。それよりも、そんなことよりも。なのだ。


「なんて記憶だ」

『なんで……』


 エクスマキナが肩を震わせている。両腕から瀑布ばくふのように闇をあふれさせ、己の周囲に渦巻かせている。

 肩を怒らせ、エクスマキナは腕を高く振り上げた。


『勝手に、イデアの心に、入ってくるなっ!』

「カナっ!」

『くっ、バックラー!』


 傾けた盾がえぐられる。手を放したゼロドライブの先で、盾は腐蝕されたように粉々に散った。

 エクスマキナの巨腕が迫る。仰け反り、紙一重でかわす。胸部装甲が削げた。


『なんで、なんでよっ! イデアのこと知りもしないくせに!』


 涙をはらんだ悲鳴でヒロは悟る。心を見たのは、ヒロだけではない。

 イデアもまた、ヒロを見た。

 振り下ろされた手のひらを避ける。曲剣でさばき、打ち消す。なお漆黒が迫る。


『ぜんぜん話してなんかいないのに! なのに……なんで!』


 間に合わない。左の拳でエクスマキナの闇を殴る。左腕が消え去った。

 構うものか。できた隙間に槍をねじ込み、薙ぎ払う。消される。エクスマキナが腕で払いのけた。


『なんでそんなに、勝手にイデアのこと大事に思ってるの! こんなイデアを……イデアなんかを!』

「なんかじゃない!」


 馬上槍を脇に抱え、肉薄。

 エクスマキナの装甲を打つ。

 声とともに。


「イデアだからだっ!」

『ひぐ……っ!』


 イデアがしゃくり上げる。

 泣きながらつかみ掛かるエクスマキナの手を、身をよじって避ける。肩をかすめてえぐられた。操縦桿が軽くなる。腕が上がらない。


「俺は、イデアを!」


 ゼロドライブの青白い噴射炎が弧を描く。高々と振り上げた足がエクスマキナの左肩を蹴り潰した。衝撃に押し返されたように、月明かりが漏れる。曇天のようだった迷い子が薄まる。

 続けざまの浴びせ蹴りを、エクスマキナは手で止めた。握り潰される。右足がもがれた。

 ゼロドライブは退かない。


「知らないのに大事に思ってるわけじゃない! 知らないから守りたいんだ!」

『……なん、で……!』

「大切な人たちが、命を懸けてるから!」


 ナタも。そしてカナも。

 イデアに命を懸ける価値があると。そう思っているから。

 左の膝蹴りが、エクスマキナの首を打つ。異界が狭まり、迷い子が薄まる。


『もう、やめてよぉっ!』

「お前がやめたらな!」

『しらないっ! お兄ちゃんが諦めてよぉ……』


 接触点に発生した闇がゼロドライブの膝を削り取った。切断された膝下がくるくると落ちていき、ぱっと魔力に散って消える。

――イデアを止めなきゃ。

 二人にそう言わしめるイデアのことを、もっと知りたいと。ヒロは思っている。


『諦めてよ! どうでもいいでしょ、イデアなんか……!』

「なんかじゃねぇって言ってるだろ! 槌!」


 生み出された槌を、ゼロドライブの全身を使いエクスマキナに振り下ろす。掲げた漆黒の籠手をひしゃげさせた。直後に闇に呑まれて消滅する。

 イデアが追いついていない。操作がどうしようもなく乱れている。


『なんで、こんなことっ』


 伸ばされた邪神の手を、青白い噴射炎が焼く。

 小さく旋回したゼロドライブの右手に槍が生み出された。飛ぶ。エクスマキナの拳が迎え撃つ。

 エクスマキナの右目を貫いた。


『なんで……』


 夜風が吹き込み、ヒロの髪を揺らす。

 裂けたスクリーンの向こう。赫赫と揺れる左目を見上げる。

 闇はゼロドライブの胸郭を削り尽して穴を開けていた。

 コックピットを消し飛ばす前に、エクスマキナの手は逸らされている。

 イデアが、逸らした。


「イデアには、イデアのために戦うだけの価値があるからだ」


 エクスマキナは動かない。

 殴る、薙ぎ払う、ゼロドライブを押しのける、自分の身を護る……どうすればいいのか、決められなくて。

 そんな幼さにヒロは笑ってしまう。


『まったく……無茶苦茶するわ。うっかりナタごと死なせたら末代まで呪うところだったわよ』


 カナが呆れたように息をつく。

 ヒロは苦笑した。確信はあったが、ひどい賭けには違いない。


「でも杞憂だと思ってたよ。なんせイデアはナタの妹だからな」

「ん……ふふ。とーぜんだね」


 くすぐったそうな含み笑い。ナタは愛おしそうに目を細めて、エクスマキナを見つめている。

 泣きじゃくるイデアの写し絵のようなエクスマキナの震えが、

 変わる。


【――ァア、】


 ごきり、と首を傾けて。

 腕を持ち上げてゼロドライブに手をかざす。闇に包まれていく。


【我が契約者を、勝手にそそのかさないでくれないか】

『ぁ……だめ! ――逃げて! お兄ちゃん!』


 イデアの悲鳴を食い破るように。

 噴出した闇がゼロドライブの頭を貫く。

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