第10話 桜色センチメント
腰が抜ける、ということをヒロは初めて経験した。
立ち上がることすら失敗する。足腰に力が入らず、椅子を押しのけて転んだ。
「静かにしてよ。ナタが起きちゃう」
「待て、お前なに考えて……本気か!?」
「冗談でできると思う?」
ヒロの前に屈み込み、カナは指を伸ばす。細い指先がヒロの首をなぞって、
胸倉をつかんだ。
「こんな恥ずかしい思いして、半端だったから失敗するなんて真っ平ごめんよ」
「ごふ」
マウントポジションを取ってヒロの腰にまたがる。おもむろに服を脱いだ。
へそとくびれ以上に肌色が広がる前に、ヒロは顔を背ける。
「なにしてんだ!」
「仕方ないじゃない! 唯一の前例にあった事件が、ヒロのお風呂乱入なんだから……!」
ちらりと顔を戻して後悔した。脱ぎ捨てた服の下から現れたカナの顔は真っ赤で、涙目に揺れている。
カナは唇を引き結んで腕を背中に回し、ブラジャーのホックを外す。
ヒロは卒倒しそうになって天井を仰いだ。
「関係なかったかもしれないだろ!?」
「関連性あったのに日和った結果ダメでした、なんて冗談じゃないって言ってるのよ! 観念しろばかやろー! 私だって好きでやってるんじゃないんだぞ!」
カナはヤケクソ気味にヒロへと体当たりした。半泣きで抱き着く。
柔らかく密着する肌がものすごく熱い。羞恥のせいか、相手のせいか。ヒロはめまいがする。このまま失神してしまいたい。
「現実逃避しないで……ヒロもちゃんと私を意識してよ……!」
「あの、ホント、勘弁して」
ヒロは軽い過呼吸になっている。
ふと、肩を握りしめるカナの指先が震えていることに気づいて息を止めた。
ふるり。犬耳が揺れる。
「……自分でもバカみたいだって思うけどね。私、これでも真面目なのよ」
世界を超えるエクスマキナに対し、ゼロドライブが拮抗する可能性。
魔力炉を完全起動させても、生き残る可能性。
"ナタがなぜか帰ってきた"という結果は、唐突すぎて根拠を分析することもままならない。憶測に推測を重ねるのが関の山だ。
カナは
ヒロはため息を吐いた。
カナの背中に腕を回し、抱き寄せる。背筋と肩甲骨の滑らかな曲線を腕に感じた。
「本当に死にたくないんだよな」
「当然でしょ」
「ほかに手段はないんだよな」
「あるなら教えてほしいくらいだわ」
「……どうして、そこまで命を懸けられるんだ」
「大切な人が命を懸けてるから」
カナは即答して苦笑した。
「なんで私たちに――というか、ナタにゼロドライブが託されているか、考えたことなかった?」
「巫女だからじゃないのか? イデアがエクスマキナに乗ってるから」
「それじゃ半分ね。知己のナタに対抗手段を持たせるのは正気じゃないわ。普通ならね。でも、ゼロドライブは普通じゃない」
「使えば死ぬから……って待て。まさか、巫女ってのは」
「巫女、すなわち強大なるものの奉仕者。無害な神には召使いみたいなものだけど、荒ぶる邪神を鎮める場合、巫女は生贄の別名よ。……ナタはね、有事の際に命を使う役目を負って育てられ、満を持して送り出されたのよ。まあ、それは万が一の備えで、限定起動のゼロドライブを当てれば解決できる目算みたいだけど」
無理難題であることは、ヒロも痛感している。
戦闘においてすら神出鬼没なエクスマキナの強大さは折り紙つきだ。
思惑がどうあれ、誰かが犠牲にならなければ状況は最悪にしか向かわない。
「あの子は孤児院を手伝ってる。みんなのお姉さんなの。ナタが死んで悲しむ人は、私が死ぬよりも多いのよ」
私の方が命が軽いとは思ってないけど、と念を押した。
犬耳の先端でヒロの頬を撫でる。
「どこまで本気か知らないけど。幼馴染のカナちゃんとしては、放っておけないの」
「カナ、なにしてるの」
ナタが言った。
「ひぎぃ」
カナの耳毛がぶわっと広がった。
ヒロの腰に座って。半裸で。ヒロに抱きついて。
ダイニングの入口に立つナタは部屋全体を順番に見回す。乱暴に押しのけられた椅子、へたり込むヒロ、のしかかるカナ。脱ぎ捨てられた服と下着が散らばっている。
もう一度カナを見て、
「なにしてるの」
「いや、あの、これはね。違うのナタ!」
「下手な誤魔化しなんていらないよ」
「ごめんなさい」
土下座。ヒロから離れて三つ指を突き頭を伏せる、一連の動作によどみはない。
カナの後頭部をナタは冷ややかに見下している。
「どうせ、ヒロが泣きながら思いを馳せてくれたら魂を炉にくべても帰ってこれる、とか考えたんでしょ」
「うぐっ!?」
図星だ。
ナタの視線が向けられ、ヒロも震えあがる。整った柔和な顔立ちが無表情に発する透明な威圧感は絶大だった。
ナタは厳かに手招きする。
「ヒロ、来て。少し話そう? ……カナはそこで頭を冷やしてて」
「ひゃい」
力関係に心を痛めつつ、ヒロを待たずにずんずん行ってしまうナタの背中を追いかける。階段を上がり、廊下を過ぎ、窓を開ける音をたどって部屋を覗き込んだ。
ナタはベランダに寄りかかっていた。夜風に髪を散らし、ヒロを見る。
「ヒロのすけべ」
ぐさ。
ヒロはダメージを負った心臓を押さえながら戸口に手をかける。
「頑張って耐えたんだぞ……」
「ふん、だ」
口をとがらせるナタはわざとらしく、本気で怒っているわけではない。怒るフリをしていると分かってほしい、という甘え方にヒロは苦笑をにじませた。
夜の住宅街に目を投じるナタは、静かに口を開く。
「ねぇヒロ」
「なんだ」
「私はカナのこと大好きだよ。カナも、私のこと大好きだと思う」
「見てると伝わる」
「だからね、ヒロ」
琥珀色の瞳がヒロを見上げた。
「私の大好きな人が、私の大好きな人と一緒にいてくれるなら、私は幸せだよ」
ヒロは息を呑む。
ナタの目が涙をため込むように潤んでいる。
彼女は顔を伏せて首を振った。
「絶対に、どんな道を選んでも後悔する。そう分かってる。だから悲しいのは、自分が死ぬことじゃない。 後悔に苦しむ大好きな人を、助けてあげられないこと」
だから。ナタは力なく微笑んだ。
「ヒロがいてくれれば、それだけで。怖いものはなくなるんだ」
ヒロは顔を背ける。無力感が背中を舐めあげ、拳をきつく握った。
「嘘を吐くなよ」
「うん、ごめん」
あっけなく認めた。
「怖い。すごく怖い。自分だけが置いていかれるなんて嫌だ。そんなのってないよ。寂しすぎる、絶対に嫌だ……」
うつむいて小さく悲鳴を絞り出すナタは、ぽつりと。
「けど、イデアはもう置いていかれちゃってるんだ」
胸を衝かれた。
夜の公園に座るイデアを思い出す。
あの小さい肩が。頼れる人もいないまま。ずっと一人で。
「一人じゃなくしてあげたかったけど、私にはできなかった。だからせめて、芽は残してあげたい。私ね、誰かのために命を使うって、生まれたときから決められてるの。ゼロドライブの巫女はそういう役目なんだ」
ナタは階下のカナを見通すように床を見て微笑んだ。
「カナが救ってくれた。自分が身代わりになるって目論んで、一緒に来てくれた。バカだよね、自分はお姫様なのに」
大切な人が命を懸けてるから。
カナは臆さずそう言い切った。そして、それはナタも変わらない。
「そんなカナがいてくれるから。私は命を使おうって思える。イデアを救うためなら自分の役目に殉じてもいい。どのみち、エクスマキナは放置できないんだから……。それなら、イデアを救うために戦いたい。
「ナタ」
言葉を遮る。
痛ましい決意をすり抜けて、ナタを見つめた。
「助かりたくないのか?」
ナタは泣きそうに微笑んだ。
「いじわる」
涙がこぼれた。
しずくを追うようにうつむき、
ナタはヒロの胸に頭突きをする。そのまま、ヒロの両腕をつかんだ。
「助かりたいに決まってるよ。ずっと一緒にいたいよ。離れるなんて嫌だよ……! 怖いよ! もう一度イデアを抱きしめて……それから、カナも抱きしめて……ヒロも、みんな、一緒に、って!」
願いの優しさを確かめるように、不器用に抱きつく。抱きしめて抱きしめて、力を抜いた。
「あったかかったんだ」
ナタは頭をこすりつけるようにしてヒロを見上げる。ヒロの体温を感じている。
「たぶん、私が私じゃなくなったあと。温かくて、優しくて、でも悲しそうなのが切なくて。いやだなって。泣いてほしくないって……思ったときには、私に戻ってた」
しがみつくように、ナタの手がヒロの体をつかむ。
ヒロはためらいがちに細い肩を抱き寄せた。少しずつ肩の緊張が緩んでいく。
「夢を見ても……いいのかな」
「ああ」
ヒロはうなずいた。
カナは、おそらく正しかった。
この温かさを。この存在の確かさを、ヒロは確かに思い出した。そうして、ナタが帰ってきたのだ。
――魂に、 "ナタ"であることを思い出させた。
ナタのぶんまで、ヒロがナタを覚えている。
カナの代わりに、ヒロがカナを忘れずいる。
そうすれば二人は自分を失わない。
「俺が力になる」
ナタは泣きそうな顔で笑った。
「お願いします」
夜空がゆっくりとたわみ、歪む。
この世のものではない空が、世界に滲み始めている。
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