第9話 蒼色セレナーデ
「つかまって!」
魔力の霧を突っ切って、カナがヒロを抱き留める。蒼い耳の毛が逆立って、力強く空に留まった。
ヒロはカナを見ていない。目を奪われていた。
碧眼が視線を追い、痛ましく細められる。
桃色のもや。
「……大丈夫よ。ナタも連れて行くわ」
ヒロは抱えられたまま口を開き、しかし何も言わずに閉ざした。カナもなにも言わなかった。
彼女が手をかざすと、見えない糸で
一言も交わすことなく空を滑り降りて、カナはヒロの家のベランダに着地した。
「ヒロ。平気?」
うっそりと顔を上げたヒロは、見慣れた自室を初めて認識したかのように目をしばたたかせる。
隣に立つカナを見て、顔をあげた。
カナの手に促されるように部屋へ流れ込んでいく、魔力の塊。
「本当に、ナタなのか? これが?」
問うことすらカナの心を傷つけると知っていて。それでも問わずにいられない。
カナは痛ましく目を伏せる。
うそだ。
ヒロの喉は干上がって声が出なかった。よろよろと足を踏み出す。
手を伸ばす。
温もりもなく、手触りもなく。ただ湯気に触れるようなゆるい感触だけが残る。
「ナタ」
震える指を握りしめて、目を閉ざす。
ヒロは知っている。
ナタが本当はどんな温かさを持っているのか。肌の柔らかさや、体の形も、皮肉なくらい脳裏に焼き付いている。
どんな目の色をしているのか知っている。
どんな声でヒロを呼ぶのか知っている。
どんな思いでゼロドライブに乗ったのか、知っている。
「ヒロ? あの、」
「ナタ……っ!」
目を閉じていると聞こえてくる。ナタの戸惑ったような、少し恥ずかしそうな声。
まったく鍛えていない柔らかさ。少し高い体温も。かき抱けば伝わる、儚さの奥にあるしっかりとした骨格の生身。
「ちょっとヒロ、さすがに恥ずかしいんだけど……!」
「ナタの声が……ん?」
目を開いた。
鼻と鼻が触れそうな距離に、ナタの顔がある。ナタは困ったように眉を寄せて、頬を赤く染めていた。
ヒロの腕が、ナタの背中に回ってかき抱いている。ナタは戸惑ったように腕をヒロとの間に挟んで、しかし強く突き放さず、ただ身を任せている。
頬に触れる髪先から、ヒロがいつも使っているシャンプーの匂いがした。
「ナタァ!? ぎゃ、痛っ!」
「ひゃん!」
突き飛ばすように腕を解放して、転んでひっくり返った。バランスを崩したナタがベッドに足を取られて座り込む。
悶絶するヒロの耳に、スプリングを軋ませる音が届いた。
「信じられない! ナタっ! 本当にナタなの!? 生きてる? 生身ある!?」
「痛いよカナ! あれ? 私生きてるの? どゆこと?」
「こっちが聞きたいわよ!」
どうやら。
ヒロは結論付ける。ナタは死ななかったらしい。
「普通じゃないわ」
カナが最初にそう言った。
「ナタは自分を構成する全てを魔力に還元して、炉に取り込まれ始めてた。人体をタンパク質にバラしたようなものよ。助かるはずがない。……でも、ヒロがいた」
「俺が?」
うなずくカナは、ナタを背中から抱きすくめてベッドに腰掛けている。ナタは肩を縮めて気恥ずかしそうにしているが、抵抗しない。
「ヒロは異世界人で、ゼロドライブの魔力還流に関わりようがない。結果的に、ナタの核にあたるものが魔力炉にくべられるのを阻んだ。例えるなら、血管にはめたフィルターみたいになっていたのよ」
「そうだとしても、なんでナタが元に戻れたんだ」
「魔力はそれ自体が霊的なもの。ナタの魂が残る魔力は、ナタのものよ。私たちにとっての魂は観測も計量もできる実体だから、そうね……魔力は水、魂は色と考えていいと思う。私たちの体を成す氷には色がついている。ゼロドライブは染色するのね」
ナタの手首を持ってくるくると円を描く。この腕はナタの色をしているわけだ。
「ヒロにナタの魂が宿った。自我を失って茫漠とした体に、ヒロがナタの"色"を思い出させた。戻った自我がゼロドライブの色を振り落として、元の色が取り戻された。仮説を立てるならそんな感じ」
ヒロはナタの額をつつく。
感触は確かで、あやふやに消える気配はない。一度死んだとは思えない、間違いなく体がここにあった。
「このナタは幽霊みたいなものなのか?」
「一度は生命の容態を失ったもの、という意味でなら、そうかもしれないわね。なんでも構わないわ。ナタが戻ってこれたのなら」
「ん……」
ナタは実感がなさそうに自分の手を握ったり開いたりしている。
上目遣いにヒロを見た。
「私、ここにいるよね?」
「不安か?」
「ううん、感触はあるの。でも……自分がとろけたことも、覚えてる」
自分の体を、自分を抱くカナの腕ごと抱きしめる。
顔をうつむけたまま、そっとつぶやく。
「怖かった」
「……少し、休みなさい。体力が戻るうちに、実感していくでしょう」
カナが優しく頬ずりをする。
それからナタが眠るまでそばにいた。さり気なく二人に触れ続けていたナタは、いつからともなく目を閉じている。
「……それじゃ、カナ。ナタを任せるよ」
「待って」
ナタの寝息を聞きながら立ったヒロを、カナが見上げる。
「ヒロ、ちょっといいかしら」
「ん?」
カナは眠ったナタを置いて立ち上がった。
「ナタのそばにいてあげた方がいい」
「そうもいかないの」
真剣にヒロを見つめている。
ヒロは顔を逸らして、うなずいた。
「俺も、聞きたいことがあった」
深夜の家は静けさが降りて、世界の広がりを忘れさせる。白白と明かりに照らされるリビングダイニングは、こんなに狭かっただろうかとヒロは天井を見上げた。ヒロの母はとうに眠っているだろう。
音を殺してリビングダイニングに着くと、ヒロはレモンミルクを温める。
「カフェインはよくないから」
「ふふ。夜にそんなもの飲むなんて久しぶり。甘い匂い。牛乳はこっちでも変わらないのね」
カナはほほ笑む。犬耳はぺたんと垂れて、しおれていた。
湯気を立てるマグカップを机に並べ、ヒロは彼女の正面の椅子を引いて腰掛ける。
「どうして隠してたんだ」
「言えるわけないじゃない」
マグカップに視線を落としたまま、弱々しく微笑んだ。
「助けて、と言いながら。私たちには助かるつもりがないなんて」
初めから、どちらかが自殺するつもりだった。
エクスマキナという強大な力に対抗するためには、他に選択肢がなかったのだ。犠牲を最小限で済ますために。
「どうしても、死ななきゃいけないのか……?」
ヒロの言葉に、カナは応えなかった。
マグカップに目を落として指でなでている。肩を上げて、ゆっくりと下ろした。
「ヒロ。聞いてほしいの」
しっかりとヒロの顔を見て、唇を揺らす。
「私はイデアの母親に会ったことがある。イデアは……虐待児童だったわ。父親はとうに亡くなって、母親の他には身寄りのない、二人暮らしだった。親元から引き離されて、ナタのご両親が経営されている孤児院に入ったの。もう三年も前になる」
イデアの来歴に息を呑む。
それでナタとイデアが姉妹同然になったのだ。
「イデアの母は経済的に困窮していたにもかかわらず、罰金も孤児院への入院費もすぐに払ったわ。だから私は思ったの。経済的なストレスから虐待せずにはいられなかったのだろうと。幸せにする力がないと知って、イデアを託したのだろうと」
「それは……そんなことが」
「違ったわ」
カナはうつむいた。
「イデアが落ち着いたころ、私はイデアの母に会いに行ったわ。職業訓練の紹介状と、養育支援プログラムのパンフレットを持ってね。私って実は公務員なのよ? バイトだけど。これでも現代の貴族様だからね」
悪戯っぽい笑みにも覇気がない。すぐに明るさを失って、言葉を続ける。
「イデアの母は、結婚していたわ。私の持ってきた養育支援を、新たに宿った子へのものだと勘違いしていた。私は、あの声を、絶対に忘れない」
『え? イデア? ――あぁ』
ぎゅ、とテーブルの上で拳が握られた。
「イデアのことを忘れていた。とても幸せそうにしていた。イデアを思い出したとき、下らなそうな顔になった。……今でも
「待て。待ってくれ。おかしいだろ、それは」
ヒロは思わず立ち上がっていた。頭を押さえながら制止する。
それはおかしい。だって、それでは。
カナはヒロを見上げて、肯定した。
「もし仮に、イデアが彼岸を越えて彼女の母に会えたとしても。――"愛してる"と言ってもらえることは、あり得ない」
――たとえ世界を滅ぼしたって、あなたの願いは叶わない。
「そんなことって!」
絶対にイデアを止めなければならない。
世界を壊すなんて許されない。
ましてや、母に会わせるなんてもってのほかだ。
ヒロは力なく椅子に腰を下ろす。
「……それなら、ナタを殺さなきゃいけない理由って」
「ただ母に会いたいだけなら、私たちを無視すればいい。無視できない理由は、ただ一つ」
カナのマグカップを握る手に、力がこもる。
「ナタが、イデアを愛しているからよ」
ナタに愛されている。ナタが愛を注いでいる。
それは取りも直さず、イデアが母親に向けられたものは、愛ではなかったと知らしめてしまう。
――ママに、イデアのこと愛してるって、言ってほしいんだ。
「イデアをなんとしても、止める……。エクスマキナを……ああ、そういうことか」
ヒロは頭を抱えた。
なのに。
イデアは原初の邪神に見初められてしまった。力を得てしまった。ゼロドライブの素体では手も足も出ない。
エクスマキナは強大だ。
誰かが死ななければならないほどに。
「嘘だろ」
嘘だと言ってほしい。前提のどれかが間違いであってほしい。
誰かが傷つかなければ終われないなんて。
――助けて、誰か。
「ああ」
ヒロは笑った。理解した。
ナタが助けを求めた理由を。
関わるなと突き放す理由を。
どうにもならない運命から救ってほしい。
ヒロのように無関係な普通の人が優しさだけで関わっても、なんの助けにもなりはしない。
……いや、違う。
ぞっとした。違う。ヒロは新たな可能性を提示した。してみせた。
「まさか、カナ。お前」
顔を跳ね上げる。目の前にカナがいない。
声は、すぐ隣から。
「ヒロ。甘えてもいい? 甘えることが、許される……?」
カナがヒロに体を預ける。
その重さが。命の温かさが。ヒロの心胆を凍らせる。
なぜカナが急にこんな話をしたのか、ようやく気づいた。
退けない理由を見つめることで、自分の退路を断つためだ。
魂を魔力炉にくべても。
もしかしたら、助かるかもしれない。
「無茶だ! 考え直せ!」
「いやよ。もう考えない」
どうしてナタが戻ってきたのか。本当にヒロが寄与したのか。どうやって帰すことができたのか。なに一つ分からない。
なのに。
それだけが、最初で最後の希望なのだ。
「ヒロ。私を覚えて」
吐息が頬に触れる。しびれるような甘さに耳たぶが腫れあがる。
「……ごめん、ナタ」
あふれかけた制止の声を。
カナの唇がふさいだ。
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