第6話 飴色エンカウンター

「散々だな」


 宵の帳は世界に自分が一人だけになったような錯覚を与える。

 打ちのめされたヒロにとって、街灯で区切られた夜の闇は心地いいものだった。


「俺がいるここは、果たして現実なんだろうか」


 異世界に飛び、ロボットに乗って、美少女のパンツと、そして全裸を見た。

 常識が崩壊するような出来事の連続で、ショックのあまりヒロは自分が立つ現実を見つめ直したくなっている。とりあえず静かに考えたい。

 誘蛾灯に惹かれる虫のように近所のコンビニに入り、棚の間でヒロは顔を上げた。


「んー……」


 幼女がいる。

 夕日のような金髪をふわっと広げたウェーブにベレー帽をかぶり、妙に上質なローブコートを羽織っている。ブーツも登山に行きそうなガッシリしたものだ。飴色の瞳が眠そうなまぶたに隠れている。


「子ども? それとも童顔?」


 珍しい身なりと整った顔立ちで、年齢感覚が鈍る。

 彼女は棚から板チョコを取ると、てちてちと手のひらに叩いてみて、パッケージの表裏を眺めた。


「?」


 小首をかしげる。

 もしや。ヒロは身構えた。

 字が読めないのでは。外国人か。きゃにゅーすぴぃーくじゃぱにぃーず。

 幼女のつぼみのような唇が開く。


「スコーンがいいな……」


 しゃべれた。

 なんだよ、と肩を落とす。

 幼女はパイ菓子を手に取ると頷いて、コートのポケットに入れた。


「うォオおおおおいッ!」

「ひっ!?」


 小動物のように身をすくませた幼女は、涙目でヒロを見上げた。

 ぷるぷる震えてレジのバイト青年に助けを求める目を向ける。


「いやいや、おかしい。なんで俺が不審者みたいな反応してるの。ダメだろ万引きは。泥棒だぞ」

「な、なにも盗んでないよ」


 ヒロがコートのポケットからはみ出したパッケージを指差す。

 幼女はパッケージを取り出して、


「盗んでないよ」

「おい待て。どういう理屈だ」

「じゃあ、これは誰のものだって言うの」

「お店のものだお店の」

「……?」


 幼女は真剣に不思議そうな顔で首を傾げる。

 その目に「ひょっとして自分は悪いことをしているのではないか」という動揺が走ったことを、ヒロは見て取った。

 屈み込む。視線を合わせ、語調を緩めて語り掛けた。


「ここはお店だ。分かるか?」

「お店って……あっちでしょ?」


 幼女は店員の後ろを指差す。

 チラ見しつつも一切関わろうとしないバイト青年の背後には、タバコや電子レンジなどが並べられている。


「あれも商品だけど、こっちの棚……この建物に並べられているものは、あの兄ちゃんにお金を払って受け取る、全部商品だ」

「えっ。見えてない場所もあるでしょ。そんなところにも商品を並べるの?」

「露天商じゃないんだ。出入り口を閉めた店を構えていれば、商品そのものが見えなくてもいいんだよ」


 本当は商品タグもあるのだが、説明は省いた。

 幼女は心なしか金髪がしおれて見えるほど肩を落として、両手で持ったパッケージをじっと見つめる。


「じゃあ、これは売り物?」

「なんだと思ったんだ」

「んん……なんだろうって。とりあえず一つ見てみようって」

「そりゃリスキーすぎる」

「そうだね……ごめんなさい……」


 がっかりとうなだれる。

 ヒロは頭をかいて、幼女の手の片方を取った。


「今日は特別だ、親切な兄ちゃんに会ったことを感謝するんだな」


 財布から小銭を取り出し、握らせる。


「これで買っといで」

「あ……ありがとう!」


 にっ、と浮かべた笑みも、重そうなまぶたに引きずられて少し不器用な感じだ。

 純朴な幼女はレジに駆け寄って、青年にパイ菓子と小銭を背伸びして渡す。背中を見ると完全に子どもだ。お釣りをきちんと受け取ると、レシートを不思議そうに眺めてから、ヒロを振り返る。両手を掲げて収穫物を誇った。

 ヒロは手を振り返す。

 目を輝かせてうずうずと足踏みする彼女を見て、待っていることに気づいた。苦笑して立ち上がる。


「送っていくよ。帰るところは?」

「んー。ない」

「そっか」


 コンビニを出たところで、ヒロは客観的に見て交じりっ気なしの児童誘拐犯であることに気づいた。

 慌てて振り返ったが、店員は相変わらず無関心な顔でレジに立っている。通報する様子はない。それもそれで嫌だった。


「どうしたの?」

「あー、いや。どこか座れるところに行こう」

「あっちに公園があったよ」

「じゃあそこだ」


 自分を通報しろと文句をつけに行くのはさすがにためらわれた。

 悪いことはしていないし、するつもりもないし、今は優先すべきことがある。

 ヒロは幼女を連れて、ひと気のない夜の公園に向かった。




 夜の街灯が煌々と照らすベンチに座らせて、ヒロも隣に腰を下ろす。足をぶらぶらする幼女のベレー帽を見下ろした。


「きみの名前は……」

「ないしょ」

「イデアだよな」

「ん」


 イデアはうなずいた。


「そういうお兄ちゃんは、ナタやカナと一緒に乗ってた人だよね」

「分かったのか」

「イデアを知ってるこの世界の人は、お兄ちゃんしかいないもん」


 そりゃそうか、とヒロは自分のこめかみを撫でる。迂闊だった。

 イデアにヒロを取り殺そうという気配はない。視線はすっかりパイ菓子に夢中だ。


「開け方わかるか?」

「んーん」

「字は読める?」

「読める。あけくち?」

「そう。そこに指をかけて、点線に沿って破くんだ」


 べべべべべ、と蓋を開ける幼女を見守りながら、ヒロの胸中を疑念がよぎる。

 なぜイデアは落ち着いているのだろう。彼女の姿からは、邪魔者を蹴散らしてまで目標に向かおうという熱が、まったくと言っていいほど感じられない。


「写真と違う」

「銀袋も手で開けられるよ」

「これも袋? あ」


 にへら、とイデアの頬が緩んだ。

 裂けた袋からパッケージ通りのパイ菓子が覗いている。

 指でつまんで、嬉しそうに食べた。


「んぶっ。ふお、こほ。甘、甘い! んけほっ! こほっ!」

「あーあー口に入れたまましゃべるから。ちょっと待ってろ、飲み物買ってくる」


 腰を浮かせる途中で止まった。

 イデアが服の裾を握っている。

 苦しそうに口を押えたまま、大きな瞳を潤ませてヒロを見上げていた。


「……イデアちゃん?」

「んぐっ、大丈ぐふぅ! だいじょ、ダイジョブ……っふぅう!」

「めっちゃ咳き込むの我慢してるじゃん。すぐ戻るから」

「んーっ!」

「じゃあついといで。すぐそこだから」


 すとん、とイデアがベンチから飛び降りた。けほけほけっほ! と咳き込む。

 自販機まで駆け寄ってオレンジジュースを買い、渡す……前にプルタブを開けてから手渡す。んくっと飲んだイデアは再び瞠目した。


「あまぁぁぁぁ!」

「いいリアクションする世界だな」


 ナタもパフェを食べて同じことをやった。

 ぷふう、と一息ついたイデアは、ふと思い出したようにヒロを見上げる。


「お兄ちゃん。親切にしてくれてありがとう」

「お……」


 ぺこりと下げられたベレー帽に、呆気にとられる。


「どういたしまして。なんだ、しっかりしてるな」

「優しくしてもらったらお礼を言おうねって教わったの。ナ……」


 言いかけて凍りついた言葉。ヒロは続きを悟った。

 ナタだ。

 妹のようなもの、というのはどうやら本当らしい。それも馴れ合いの仲ではない。本当の姉妹のような。

 ナタのことを思い出して、ヒロの笑みも枯れていく。


「なあ、イデア。面白くないことを聞いてもいいか?」

「ナタを殺すのは止めないよ」


 閉口する。

 幼い口から物騒な言葉が出てくること、だけではない。

 その冷淡な決意を露わにしてもなお、ヒロの目にはイデアが悪人に見えないのだ。


「それを頼むのは追い追いだ。今は……なんで、エクスマキナに乗ってるのか。教えてほしい」


 カナには止められた。知る必要がない、と。

 ナタは嘆いていた。止めなきゃいけないのは間違いないと。

 それでもヒロは聞かずにはいられなかった。


「ん」


 イデアはベンチを指差す。座ろうということだろう。

 街灯に切り抜かれた夜を歩きながら、イデアは口を開いた。


「お兄ちゃんは、ママとパパ、いる?」

「ああ、そりゃいるさ。父さんは最近仕事が詰まってるみたいだけど」


 うん、と頷いたイデアはベンチに腰掛けた。

 ぼんやりとした顔のままパイ菓子をつまんで、夜に掲げる。暗いお菓子を見上げながら言った。


「イデアの両親は、いないよ。二人とも死んじゃった。パパは、赤ちゃんのときに。ママは、おととい」


 息を呑む。

 だが、イデアの言葉は終わらなかった。


、ママに会いに行くの。エクスマキナで


 ヒロは。

 雷で打たれたように動けなかった。指先まで痺れている。倒れないのが不思議なくらいだ。

 カナもナタも、なぜあんなに苦しそうなのか。

 なぜイデアを止めることに迷いがないのか。

 なぜヒロを巻き込みたがらないのか。

 理由を知れば自明のことだ。

 イデアだけが、飴色の瞳に夜空を映す。


「ママに、イデアのこと愛してるよ、って言ってほしいんだ」


 甘い甘いお菓子を頬張る。

 幸せそうに微笑んだ。

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