第25話

渡米当初は心配していたアメリカ生活も気が付けば半年が経っていた。

一年を通じて温暖湿潤なヒューストンは、冬でも滅多に雪が降ることがなく、平均して摂氏十度を超え、酷暑の夏に比べれば、幾分過ごし易く感じた。

アメリカは日本の企業のように一斉入社、一斉異動という概念は薄いが、日本資本のガス採掘会社は、四月と十月に辞令が交付され、特に海外転勤や出向を伴う異動は前年の暮れに言い渡されることになっており、どことなく落ち着かない空気が漂っていた。

一方で、人事は基本的に三年でローテーションと公言する安徳工機において、それは出向者も変わらず、未だアメリカでの在籍期間が一年に満たない豪田は、異動などどこ吹く風といった様子で、他人事のように思っていた。

その日、珍しく日本からの国際電話を受け取った豪田は、思い掛けない人物の声に、一瞬、背筋をビクつかせた。

「どうだ、アメリカの生活は」

電話越しであっても、ドスの効いた声によって、独特の威圧感が伝わってくる。声の主は、人事部のジョーである。

「お蔭様で、とても充実しています」

豪田は慇懃に応えると、

「ほう、そうか。アメリカでの活躍は日本でも噂に聞いているよ。島流しにしては、少しばかり環境が良過ぎたみたいだな」

相変わらずの辛辣な物言いでジョーは言った。

凡そ一年ぶりに耳にするジョーの声であるが、どこか懐かしくも感じられた。

思えば今からちょうど一年前の人事考課で、突如アメリカ行きを伝えられた豪田である。

初めての海外出向、しかも安徳工機本体でなく、グループ会社の安徳鉱研と聞いて、驚嘆したのは記憶に新しい。

当時は、耳慣れないシェールガスの採掘プロジェクトと聞いて不安に感じたが、半年を過ぎ、その心境はまるで変っていた。

しかし一方で、なぜジョーがこのタイミングでわざわざ豪田に電話をしてきたのか、解せ切れずにいた。

人事関連の話だとしても、もともと豪田に言い渡された任期は三年であり、いまだ一年も経過していない。

またガス採掘プロジェクト自体も今のところ順調に推移しており、今更日本に緊急帰国を命じられる理由もないのだ。

「いや、実はだな、仕事の話じゃなくて、折り入って相談があるのだ」

「なんでしょう」

仕事の話でないと聞き、豪田は頓狂な声調で問うた。

「今年のワールドシリーズはどこが勝つと思う」

「ワールドシリーズですか?」

何事かと思えば、ジョーの口から放たれたのは、全く予想もしない質問ではあったが、根からの野球通の豪田は次のように即答した。

「テキサス・レンジャーズです」

「ほう、なるほど…」

国際電話であるためか、会話と会話の間に一瞬、空白が流れたが、さらに長い沈黙の後、ジョーはその勝因を問うた。

「ありがとう、しかし何故、レンジャーズが勝つと思った?」

「ええ、アリーグ西地区で今季、優勝したエンゼルスは怪我による離脱者が多く、ワイルドカードで勝ち上がったテキサスの方が有力視されています。MVP級のタレントはいないが、平均年齢が二十七歳と若く、若手の安定した戦力が揃っている。それでいて打率は全チーム中三位だから、短期決戦では爆発力を見込めます」

「ふむ、では投手力はどうだね」

「かなりいいでしょうね。パークファクターが高く打者有利なアーリントンにおいて、防御率は堂々の三位ですから。これは、一四球当たりの奪三振数が十五と中継ぎ陣が安定していて、また被本塁打も少ないためです。最近は投手のコントロール指標もデータ化されておりますが、レンジャーズは小粒でも精確な投手が多いのが特徴です」

「なるほど、他にはあるかね」

ジョーは、野球のこととなると急に饒舌になる豪田に感心しながらも、先の回答を急いだ。

「小技もよく、犠打成功率は堂々の二位。足の速い選手は多くはいないものの、堅実な走塁指示を出す傾向にあるため、盗塁成功率は全球団一位、これは実に七十五パーセントを超える高い成功率です。これらの指標から、大手のブックメーカーもレンジャーズを優勝候補の筆頭に置いていますし、実際、プレーオフに進んだ全球団の中でオッズが一番低いです」

「さすが、君の野球に関する情報力には感服させられるよ」

豪田は、もともと野球に知見が深いだけでなく、週末はほとんど家に引き篭って野球ばかり見ていたため、最近のチーム事情について事細かに情報を伴わせていた。

「鋼管をミリオン単位で誤発注する奴が、セイバーメトリクスを語るとは皮肉なもんだな、がっはっは」

豪快に笑って見せるジョーに対し、一方で豪田は釈然としない面持ちで受話器に耳を傾けた。

野球の話をするために、ジョーがわざわざアメリカまで国際電話をかける理由が、豪田にはどうしても解せないでいたからだ。

「しかし、どうしたんですか。突然、野球の話など」

豪田は、動機を探ろうと、何の気なしに問うてみた。

「実はだな、今度、社内で賭博大会があってだな、ワールドシリーズはどこが勝つか、皆で懸けていたのだよ」

「え、しかし、賭博は禁止されたはずでは―」

渡米前に聞いた説明によると、豪田は、夏の甲子園大会の優勝校予想を題材に大々的に賭博大会を開催した中心人物として、懲罰的に出向を命じられたのである。

当然、その後の社内賭博は禁止になったはずであるが、この期に及んでワールドシリーズの優勝予測をするとは、納得がいくはずがなかった。

しかし、豪田に島流しを命じた張本人は、悪びれる様子もなく飄々とした口調で応えたのだ。

「ああ、そうだよ、表向きにはな。しかし賭博というのは、常に人の目に見えん所で行われるのだ」

「そ、それじゃあ、僕は何の為にアメリカに…」

ジョーのいる受話器の向こう側では、なにやら賑やかに騒ぎ立てる声が聞こえたが、それはどうやら賭博にかける社員らの喧騒であったようだ。

「細かいことは気にするな。そっちは朝かな、こっちは夜だから、それじゃあお休み」

電話は一方的に切れた。

ツー、ツー、ツー、と耳を突く終話音が延々と流れ、受話器を置いた豪田は、胸の奥底で言い様もない虚脱感を抱いた。

人事は基本的に三年でローテーション、会社の指示は絶対、出向を命じられればそれに応じ、理不尽な要求も呑み、死ねと言われれば死ぬのがサラリーマンの本望であると信じていた豪田は、十一月のテキサスの乾風の中で、初めて組織の不条理を実感したのであった。

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