第20話
翌朝、浅野の運転する車に乗り込むと、昨日通ったルート八を逆行し、再び空港へと向かった。
ヒューストンからサンディエゴまでは国内線で九十分だが、昨夜の酒の残りと、慣れない米国生活での弾丸旅行と、終始緊張の糸が途切れない。
上空からコロナドの砂嘴を眺めながら、豪田を乗せた飛行機は遊回しながらサンディエゴ国際空港へと到着した。
そこで、浅野の同僚でロサンゼルス支店に勤務する西尾と顔を合わせた。早速、一行はドルをペソへと換金し、タクシーを捕まえ、右手にサンディエゴ湾を眺めながらルート五を南下すること僅か二十分、メキシコ国境へと到着した。
「パスポートは見せなくてもいいのかい?」
豪田が問うと、
「アメリカからメキシコに向かう分にはほとんどパススルーだが、逆は入国審査が必要なのだ。見てみろ、反対車線は大渋滞だろう」
と浅野。
浅野の説明通り、メキシコ側の入国ゲードには延々と渋滞が続いており、入国審査に三時間ほど待たされるのは普通であるという。
「あれはメキシコからの不法入国者や密輸を取り締まるためだ。鉄格子で隔たれた僅か数メートルの間で、十倍もの賃金格差があるというのだから、世の中は本当に平等でないと実感するね」
アメリカ有数のビジネス街であるサンディエゴ。車で数十分のメキシコでは、安い賃金で労働力を得ることができる。そして週末には、サンディエゴで稼いだ金でティフアナの安風俗に行くのが日課というのだから、現代社会の闇を思わせる。島国日本にはない国境沿いの事情を、豪田は初めて肌に感じた。
手慣れた様子の浅野らと共に国境を越え、ルート五から直結するビア・オリエンテを右手に曲がり、ほとんど水の流れていない人工河川のティワナ川を通過すると、その先にティフアナのダウンタウンが広がる。
ティフアナ中心部は、格子状に張り巡らされたショッピングストリートが広がり、西は海岸線、北はアメリカ国境まで繋がるが、旅行者が多く、拍子抜けするほど清潔感を伴っていた。
豪田は当初、メキシコ随一の性風俗街と聞いていたものだから、治安に対し些かならず不安を抱いていたが、そこは家族連れが多く訪れる観光地であったのだ。
正午を過ぎたばかりのダウンタウン「ソナ・セントレ」のレボルシオン・アベニューには、ソンブレロ帽子姿でアコーディオンを奏でる陽気なミュージシャン、白黒縞模様にペイントされたポニー、トルティーヤの描かれた飲食店の看板、そして赤、白、緑の縦模様に蛇を咥えた鷹の国章の入った国旗と、分かり易いほどステレオタイプの散りばめられた光景が広がっていたが、これらはどれも観光者向けの虚像であると、後に分かった。それは、メインストリートから一本隔てると、豪奢とした街並みから一変し、貧困層らしい背の低い家々があったからだ。
等間隔に椰子が植えられ、整備されたストリートでマリアッチがラテン系の民謡を奏でると、道行く観光者は皆、足を止めカメラを向ける。
舶来品に目がない豪田もまた、その様子を目で追いながら、初めて訪れるメキシコの地を楽しんだ。
朝から何も口にしていなかった一行は、レボルシオン通り沿いのカフェ「マリオ・ココス」に入店し、まずは旅行の道程について計画を立てることに決めた。
現地の風俗案内雑誌を片手に、タコスとコロナビールを注文する三人。
「夕方になったらマカオ・クラブに入ろう。ここは色々な人種の女の子がいるし、皆、若くて美人だから、ハズレはないよ」
この日、宿泊するホテルやクラブなど、下世話な会話に華を咲かせる浅野と西尾に対し、豪田は一塊の興味も示さず、窓から見えるストリートに目を向けたままだ。
年間を通じて温暖なティフアナでは、半袖シャツにジーンズという軽装姿が多い。
メキシコ人男性は彫りが深く、健康的に日焼けし、男らしく野性的な無精髭を蓄えている。豪田はいてもたってもいられなくなった。
「おい、そんなジロジロと見るなよ」
「申し訳ない、つい…」
窓外にはやはり、青、黄、赤に塗装されたカラフルな建物に、スペイン語と英語の混じった表記が溢れ、ここがアメリカでなく、中米メキシコであることを実感させた。
気を取り直して浅野はトトポスを平らげると、ライムの刺さったコロナの瓶を片手に、テーブル上に広げられた観光地図を指差し、熟れた様子で言った。
「観光地としてのティフアナはソナ・セントロと呼ばれる区域だ。場所で云うと、我々がいるレボルシオン・アベニューや、カリージョ・プエルト、ベニート・ファレス、カレ・プリメラなどで、ここから一本路地裏に入ると、赤線地帯らしい光景が広がっている。スリや警察の汚職も多いから、なるべく近付いて歩こう」
「そうか…、それなら名案がある、俺たちゲイの振りをすれば、きっとポン引きにも目を付けられないんじゃないか」
豪田は、思い付き様に言うと、西尾の顔を覗き込んだ。
西尾とはこの日、初対面であったが、学生時代、ラグビーで鍛えたという太い首元は、豪田にとってとても魅力的に映っていたのだ。
「あはは、豪田、君は面白いことを思い付くね」
他愛もない会話を交えながら店を出ると、さすがは海沿いの街だけあって、時折、肌を撫でる湿潤な潮風が心地よかった。
夕刻になるとネオンが怪しく街を彩り、ダウンタウンには身を寄り添って歩く男女の姿も増えた。
そんな中、豪田は宣言通り、西尾に腕組み寄り添った。
「この辺、やたらと薬局が多いのは、常備薬がアメリカ国内に比して三割も安く入手できるという理由だけでなく、アメリカでは決して手に入らないような向心薬物や精力増強剤を販売する店が多くあり、こういった背景から、密輸に対する水際対策が強化されている」
「なるほど、歓楽街と薬物。ここには週末の若者達を賑わせる娯楽が不断にあるのか」
浅野の言った通り、コアウィラ周辺の赤線地帯に一歩足を踏み入れると、背の低い家々が立ち並び、そこにはさきほどまでの観光地的な活況とした風景はなくなっていた。
退廃的な鼠色の建家は、家というより置屋といった方が相応しく、壁面には低俗な落書きがなされ、また時折すれ違う現地人も、下げずんだ目で豪田らを睨みつけた。
「コアウェラ通りの先に、有名なマカオ・クラブを含めた歓楽街がある。路脇にも多くのフッカーが立ち並んでいるから、やはりゲイのフリをして切り抜けるのがいいだろう」
レボルシオン・アベニューをアメリカ国境方面に北上するに従い、路幅が狭まると同時に、客引きの数が増えていくように見えた。コアウェラ通りに差し掛ったすぐ左手にゲイバーが林立しているのを見ると、豪田はつい垂涎の眼差しを向けた。
西海岸屈指のビーチリゾートでもあるティフアナには、四月であるというのに水着姿で浜辺に向かう若者が散見された。
サンディエゴに勤めるビジネスマン達が、週末に挙ってティフアナに立ち寄るため、観光客のほとんどが米国人であったが、なかには日本人と思しき団体もあった。
「ニーハオ、コンニチワ、本番ファイブ・ダラーズ」
低俗な呼び込みをすり抜けながら、一向はティフアナでも最も規模が大きいと呼ばれるストリップ・クラブの「マカオ・クラブ」へと到着した。
マカオ・クラブは、マッサージパーラーやゴーゴーバーの林立するティフアナにおいても最も高級店に部類されるが、入場料、ベッドルーム使用料、サービス料をすべて含めても五十米ドルに満たない格安で、また在籍する女性の数も質も高く、初心者には至れり尽くせりの環境が揃っていた。
店先のボーイに視線で合図を送りながら一行はマカオ・クラブに入ると、浅野は手慣れた様子で受付を済ませた。
言語に疎い豪田であるが、浅野がスペイン語でなく、英語で会話を進めている様子はすぐに理解できた。
ティフアナに立ち寄る観光者は多くが裕福なアメリカ人であり、現地人はほとんどいないため、英語は勿論、場所によっては簡単な日本語ですら通じるのである。
「では、地上の楽園に入ろうとするか」
夕刻八時を過ぎた店内は既に満席で、中央にはお立ち台があり、雑誌「プレイボーイ」の表紙を飾りそうなラテン系の美女たちが、腰をくねらせ踊り深けていた。
またそれを目前の席の男性陣が、嬉々とした表情で顔を近付けて見る。
大胆な行動であるが、当の女性達は憚ることなくそれを受け入れた。
豪田らが店奥の席に座ってカクテルを注文すると、すぐに女性らが新規客の存在に気付き、微笑みながら歩み寄ってきた。
「y vostros "Chino"? (あなたたち、中国人?)」
女性のうち一人が話しかけると、「Que no, japones(違うよ、日本人だよ)」と浅野が返事をした。
女性は大胆にも浅野の膝に座ると、「Vamos a tomar una copa(一緒に飲んでもいいかしら)」と肌を曝け出しながら誘惑してみせた。
浅野は品定めをするような目付きで女性らを一瞥すると「yo soy maricon(いや、実は僕らゲイなんだ)」とあしらってみせた。
「Perdon, para siempre(あら、ごめんなさい、失礼)」
浅野は何故か、せっかく自分達に好意をもった女性らを振り払ってしまったのだ。
どうやら彼女たちは、浅野にとって好みのタイプでなかったらしく、豪田の方を見て笑いながらこう言った。
「さっき豪田から教えてもらったテクニック、使えるな」
冗談めいてみせる浅野であるが、しかし、当の豪田は複雑な心境に陥った。浅野にとっては冗談に過ぎないが、一方で豪田は、紛れもなくゲイなのである。
浅野は、その後もカクテルを追加しながら好みの女性を探し、同様のやり取りを繰り返すと、「せっかくティフアナまで来たのだから、ステージ前の席に行こう」と提案した。
相変わらずステージでは、激しいテンポの音楽に合わせ、ランジェリー姿のストリッパーが腰を振って踊っている。
午後九時を過ぎ、ついにストリッパー達が下着を脱ぎ捨てると、店内はさらに熱気に包まれた。
「Amigo, Que empieza especial espectaculo! (アミーゴ、これから素敵なショーが始まるよ!)」
MCの掛声とともに、店内の照明が、一瞬、暗くなったと思うと、店中の嬢達が一斉に壇上に登り始めた。
豪田は、何事かと思い経緯を見守っていると、嬢達はスプレー缶を持ち出し、それを胸や股に吹き付けてみせたのだ。
「あれはなんだい?」
不信な様子で豪田が問うと、
「見てのお楽しみだ」
と浅野は勿体ぶってにやけてみせた。
豪田は言われるがままに黙ってその様子を伺っていると、ストリッパーは互いの胸や股に生クリームを吹き付けて、目前にいた客をステージ上に呼び出し、それを客に舐めさせるという、下世話なショウが始まったのであった。
「これがティフアナで人気なのだ」
浅野は、昂奮して鼻の下を伸ばしながら女性に釘付けになったが、対照的に豪田は興味なさげにその様子を眺めた。
その後も、他の客達が続々とステージ上に駆け上がり、嬢の裸体に飛び付いていく。
そしていつの間にか、浅野もその渦の中に巻き込まれていくのであった。
仮にも一流企業に勤める者が、このような低俗な遊びに夢中になるなど想像もつかなかったが、商社という激務の仕事のなかで、日頃のストレスから解放された浅野は無我夢中でクリームを舐めてみせたのである。
目前で繰り広げられる非現実的な日常。
そして次の瞬間、浅野の口から、思いも寄らない言葉が飛び出した。
「豪田、お前も舐めろよ」
浅野が豪田に手を拱くと、女性らも豪田の方を見つめながら、クリームを追加し股を開いてみせた。
「いや、僕はいいよ」
「いいから舐めろ!」
不本意な要求に、豪田は首を振ってみせたが、酒に酔った浅野は、調子に乗って豪田の頭を掴み、クリームの塗られたストリッパーの股に顔を押し付けた。
このとき豪田の脳裏には、学生時代の苦い思い出が蘇った。
紫水学園時代、素手で清掃した便器を無理矢理に舐めさせられた豪田であるが、今回ばかりは絶対に舐められないと、思い切りに力を入れて踏ん張ってみせたのである。
「やだ、舐められない、僕には舐められない」
「恥ずかしがるな、どうせ俺ら三人しかいないのだ」
店内では、ラテン美女の股に顔を突き付ける日本人の姿に対し、「!Chupo, mamada!(早く舐めろ!)」と囃し立てる声が拍手喝采と共に湧いていた。
豪田にとって女性は同性である。同性の性器を舐めるなど言語道断、これ以上に不快な行為はない。
しかし豪田の目前には、クリームの塗りたぐられた女性器が迫っている。絶体絶命の危機に、豪田は絶対に口に出さまいとした言葉を吐いてしまった。
「yo soy maricon! (僕、ゲイなんですよ!)」
その瞬間、豪田の頭を押さえていた浅野の腕の力が弱まるのと同時に、店内は静まり返った。
呆気にとられた浅野や嬢達は、口を開けたまま豪田を見つめた。
「!Que barbaridad! (なんてこった…)」
「あたし、もう限界だわ、いてもたってもいられない!」
豪田はそう叫ぶと、駆け足でマカオ・クラブを後にし、先ほど過ぎ去ったゲイバーに逃げ込んだ。
かくして豪田は、言い様もない屈辱のなか、渡米二日目にして自らゲイであることを周知にしてしまうのであった。
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