第18話
安徳工機では半期に一度、人事考課制度を敷いており、年度の業務目標の達成度の他に、社員の将来的な職種の志望などを聞いていた。
健全な企業活動を遂行する上で、社員ひとりひとりの希望を最大限聞き入れるのは当然だが、一方で会社は慈善団体ではないため、必ずしも希望が適う訳でないのも、また真だ。
「お前は勤務態度も真面目だし、向上心も強い」
岐阜工場二階の応接室は、曲がりなりにも来客用ソファが用意されているが、建物自体は古く、やはり工場という雰囲気を醸し出していた。
九月も下旬に差し掛かった日、豪田は、ジョーを前に緊迫した様子で背筋を張り、終始キビキビとした気持ちの良い態度で応えた。
「お前には、もっと、幅広い経験を持ってほしいと考えている」
「ありがとうございます」
社員一万人を超える安徳工機において、人事部長が直接、面談をする人物は限られている。
逆に言えばジョーと直接対面することは、つまり何か大規模な異動があることを暗に仄めかせていた。
「お前、賭け事には興味はあるか」
「賭け事、ですか?」
突拍子もない質問を投げ掛けるジョーに対し、不安な表情を浮かべた豪田。するとジョーは鞄からある冊子を取り出し、豪田の目前に置いたのであった。
「これを見ろ」
そこには、ある有名政治家が野球賭博に関与して逮捕された新聞記事があった。
それを見て豪田は、恐々とした様子で、次にジョーの口から出る言葉を予測しながら待った。
「存知の通り、野球賭博は違法だ」
豪田は、毎年行われる甲子園大会において、勝敗を賭けて、金銭を授受していた疑いを掛けられていた。
勤務時間中にも関わらず、社内で大々的に賭博をし、会社の経営資源を使用するなど、賭博の胴元として捉えられてもおかしくない行動を繰り返した。これまで何ら罰則が下りなかった方が不思議と思われるほどの大胆さであった。
「貴様、木ノ内部長が山村学園の優勝を当てたのを知っているだろう」
直属の上司の名前がジョーの口から発せられると、豪田の背筋が凍った。
豪田は、
「ええ、まあ、知っております」
と言葉を濁すように応えると、さらにジョーは捲し立てるように、語調を荒げた。
「お前が手を貸したのか」
「ま、まさか!」
賭博幇助の疑いをかけられた豪田は頑なに否定してみせたが、ジョーの目は誤魔化せない。
「今年は横浜学園が圧倒的に人気があった一方で、わざわざ東東京の山村学園に二十万円を注ぎ込んだのは、木ノ内部長の判断によるものなのか」
バンっと握り拳をテーブルに叩き付けると、忽ち乾いた音が応接内に木霊した。
高校、大学と、体育会で鳴らし、厳しい扱きに堪えた豪田でさえも、ジョーの迫力はそれに勝るものがあったのだ。
「なぜ山村学園が優勝すると予想した、答えろ」
尋問を繰り返す近いジョーの勢いに、これ以上の黙認は無理であると、漸く豪田は折れたのである。
「申し訳ございません」
「賭博に関与したことを認めるな」
「はい、認めます…」
豪田は、ジョーの剣幕を前に、真相を話し始めた。
「山村学園は、三年前からスカウトを強化し、当時、入学した生徒が、今年で三年になる。高校野球はスカウト力が勝敗に物を言わしますから、今年の山村学園は、分があると予測しました」
「それだけか」
「いえ、同校はプロ野球チームでも指導経験のある宮本氏を強化顧問に出し抜いたり、野球部のために室内練習場を完備したりと、特別な環境を作り上げてきました。一時は経営難に見舞われた山村学園ですが、ここ数年は経営も安定しておりますし、野球部に投資するには好適だったのでしょう」
山村学園は、生徒から巻き上げた学費の大部分を、金満理事長が投資に充てるなど、米国金融以降、財政難に陥っていた。
その後、景気回復の後押しもあり、漸く黒字転換した段階で、再び校名を世間に広めるため、最も手っ取り早い運動部にテコ入れしたのである。
練習環境の整備や、有名指導者の誘致、そして選手のスカウティングと、山村学園が野球部に賭けた投資額は莫大であった。
「随分と検討が深いな」
普段は数字に疎い豪田が、これほどまで雄弁に経営について語るなど、不自然な感があった。
寧ろ、それだけ豪田が賭博に入れ込んでいた裏付けでもあったのだ。
豪田は更に続けた。
「私も、かつて紫水学園にいた頃は、練習環境や監督、そして同期の選手達の力によって甲子園に連れて行ってもらったようなものですから。個人の能力だけでは、甲子園で勝ち抜くことは出来ないのです」
豪田の出身校、紫水学園は、超がつくほどのスパルタで知られ、また選手層が厚いことも周知である。
実際、岐阜県内の有能な選手を一手に集め、毎年のように甲子園に出場していた。
「連日連投の高校野球では、投手は最低でも三人は必要。山村学園は、絶対的なエースは存在しないものの、四番手投手までが安定した成績を残している。また四人中二人が変則派、残り二人が左の技巧派ときたものですから、初見では打ちにくいでしょう。それに、超高校級投手がいない分、変にマスコミに取り上げられなかったため、他校から対策もされ難い。野手ばかりが目立ち、投手は陰に隠れていたが、実は投手力で優勝したようなものです」
「なるほどな」
豪田の口から放たれる洞察の数々に、ジョーは唯々、嘆息するばかりであった。
「投手力に加え、定評のある打撃力。一番から九番まで、全員が本塁打を量産できる。その背景には、全寮制で三食、栄養士に管理された食事メニュー、睡眠、そして休息管理も徹底されている。山村学園の選手は皆、体格が良い。それはプロの徹底した管理下による効率的なトレーニングから生まれる賜物です」
豪田は、自らも学生時代に全寮制で、完全に管理された生活を強いられていたことを思い返しながら語った。
徹底した栄養管理と休息の確保。一方で根性主義の紫水学園は、食事といえば玉蜀黍粥や稗粟が主菜で、古い風習が抜け切れておらず、毎日、鉄下駄で登校させられるなど、その差は歴然としていた。
「蓋を開けてみれば、山村学園は初戦から決勝まで二桁安打を続け、決勝戦も、優勝候補の横浜学園に十対一と、圧倒的な強さで関東勢対決を制した。山村学園の優勝は必然でした。誰がどう考えようとも、優勝は山村以外には有り得ないと予測していました。マスメディア各社が横浜学園に熱い視線を送る中で、山村学園のオッズが上がって行き、ここに二十万円を投じれば、数百万円単位の利益が獲得できると判断しました」
既に言い逃れ出来ないと感じた豪田は、自ら犯した罪について、余すことなく曝け出した。
豪田は、木ノ内部長に入れ知恵しながら、山村学園に大金を注ぎ込ませると、自身も多額のマージンを受け取っていたのである。
罪悪感がなかったといえば嘘になるが、直属の上司の容認もあり、豪田の感覚は完全に麻痺していたに違いない。
釈明する豪田の瞼には熱いものが溜まり、がっくりと肩を落とした。
「私には人生で僅か一度、欲が出てしまったことがあります」
「ああ、知っておる」
ジョーは腕組をしたまま、消沈する豪田に、悟すように言った。
「第七十九回、夏の甲子園大会。今からもう、二十年近くも前のことだ。決勝の舞台で最終打者となったお前は、初出場の沖縄水産高校の好投手、島袋の投じたスライダーに、欲をかいてバッドを差し出してしまった。冷静に考えれば、打者の手前でワンバウンドするような糞ボール。冷静さを失った貴様の負けだ」
「なぜそのことを?」
「ワシも一端の野球狂だから、お前が甲子園で活躍していたのを、目の当たりにしていた」
豪田は、古傷に触られたような、言い様もない悔しさを感じながら、ズボンの膝下あたりを強く握った。
「その後、お前は大学に進学し、一方で島袋は、甲子園優勝投手として、鳴り物入りで巨人軍に入団。その後、二十八歳でメジャーリーグに挑戦すると、テキサス・レンジャーズで七年もの間、先発ローテーションを守った。三十六歳で中継ぎに転じたものの、ここまで積み上げてきた白星は日米通算百五十勝。日本人を代表する大投手となった」
あの日、沖縄水産高校のエース島袋は、決勝の大舞台でも一失点の好投で、強豪紫水学園を破った。
最後のバッターとなった豪田は、変化球に態勢を崩され、甲子園の土の上に伏した。
「あの時、貴様が欲を出していなければ、紫水学園が優勝して、お前もドラフトにかかっていたかも知れない。プロでしっかりと土台を築き上げれば、二十代半ばで何処彼処の球団でレギュラーに定着し、今頃、強打者になっていたかもな」
「たられば論は聞き飽きましたよ」
豪田はひとつテーブルを叩くと、声を荒げて嗚咽した。
豪田自身、一つ年下の松坂世代に隠れ、影の薄い世代であり、唯一、同世代で活躍する島袋には特別な思い入れがあった。
強打者だった豪田は、それまで重要な打席で代打を出された経験は一度もなく、今の自分の姿を許容できる心の余裕はない。
強気になってジョーの言葉を跳ね除けたものの、今の豪田は、野球エリートでも何でもなく、「代打は腐るほどいる」単なる工場従業員である。
誰の注目も浴びることなく、ただ直向きに仕事に向かうことで、過去を忘れようとしていたが、毎年、夏の甲子園の時期に差し掛かると、どうしても体が疼いてしまうのであった。
ジョーは、傷心する豪田を前に、いよいよ本題に入らんと、前のめりになった。
「豪田、罪を犯した者は、会社にはおられんのだよ」
「そ、それは、つまりどういった意味でしょう」
「賭博に関与していた、いや、むしろその中心で賭博を盛り上げていた張本人の処分は、ただでは済まされんのだ。日本で賭博は違法とされている。最悪の場合、君は逮捕されてもおかしくないのだ」
「なんと…」
ジョーの発した「逮捕」という言葉を聞き、豪田は自ら犯した罪の重大さを実感すると、血の気が引いた。
挫折はあったものの、真面目一辺倒で生きてきた真人間に、逮捕という言葉はあまりにも衝撃が大き過ぎた。
煙草の火を点けたジョーは、一度大きな咳払いをし、長い沈黙の後に、声調を整えこう言った。
「しかし悪いのは君だけではない。ここまで事態を黙認していた会社側にもある」
賭博に関与していたのは何も豪田ひとりではない。
実際に金を賭けていた社員、そして賭博の事実を知っていながら黙認していた社員を含めると、寧ろ野球賭博に関わりのなかった社員の方が少数派であった。
そこでジョーは、豪田に対し、ある提案を投げ掛けるのである。
「そこでだ、ある意味、雲隠れということではないが、一定の間、熱りが冷めるまで、海外で身を隠した方が良かろう」
「海外?」
海外と聞いて、背筋に妙な汗が流れた。
「ちなみに、行先はどこですか」
「テキサスだ」
「テキサス?」
豪田は頓狂に言った。
「テキサスというと、アメリカのテキサスでしょうか?」
安徳工機の北米支社はアリゾナにあるが、テキサスには事業所は存在しない。
つまりテキサスに出向ということは、本店以外への出向を示すのであった。
「ああ、君には、米国子会社に出向してもらおうと考えている」
飄々とした様子で告げたジョーであるが、豪田の頭には、一抹の不安が過った。
初の海外出向、しかも本店でなく、子会社への出向。これは島流し以外の何物でもない。
そして何より、体育会系の豪田は、学生時代、勉強らしい勉強などしたことはなく、まして海外生活など想定もしなかったため、簡単な英語の読み書きすら出来ないのだ。
「では、活躍を期待しているぞ」
豪田の肩を叩くと、ジョーは踵を返し、所々、壁の剥がれた応接を後にするのであった。
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