第17話
「―ほう、なるほど、あの豪田とやら、そんな過酷な学生生活を送っていたのか」
安徳工機本社のある横浜みなとみらいから徒歩五分、野毛の居酒屋で管を巻くのは、安徳工機で人事部部長を勤める「人事部のジョー」こと城山丈一郎と、部下の掛布茂雄であった。
冬の寒さが和らぎ、世間は卒業や異動といったシーズンを迎える些かノスタルジックな小春の日。来月末から始まるプロ野球開幕戦を直前に心を弾ませた二人は、酒を交えながら、来年度の人事について意見を交換していた。
掛布は、生ビールジョッキ三杯と、ハイボールを二杯、さらには熱燗二合を空にする酒豪振りで、ブラウン管から流れるプロ野球ニュースを見ながら、選手の調整状況を確認した。
二月ともなると、プロ野球各チームは、紅白戦やオープン戦を交えながら、選手の様子を伺う。
特にルーキー達は自らの存在感を示そうと、未だ二月というのに果敢にせめぎ合い、開幕一軍、あわよくばレギュラーの座を奪わんと凌ぎを削っていた。
「高校、大学と寮に入っていた豪田は団体生活の習慣が根付いており、プライベートを重んじる昨今の若者には逆行しているが、会社員としては、彼のようなタイプの方が使い勝手が良い。今時、殻に閉じ篭る若者が多い中で、彼のような人物は貴重だ」
ジョーは、鯵の梅味噌和えを箸で啄くと、豪快に口に放り込んでビールで流した。
梅の酸味と白味噌の仄かな風味、そして新鮮な鯵の歯応えが、麦の香りと相まって、実に味覚を喜ばせる。
「今時の若者は皆、情報過多だから、全体主義の中で育った体育会系の方がいいのは、頷けますな」
掛布は上司の前にも関わらず、豪胆に胡座をかきながら、調子を合わせていった。
「紫水学園は、朝起きてから夜寝るまで、一日中、寮生と共に暮らすため、プライベートという概念が全く存在しない。飯を食う時も、風呂に入る時も、寝るときも、皆一緒なのだ。しかも、極寒の飛騨高山において、遮熱性の低い築六十年のボロ寮に住み、携帯もインターネットも通じない環境で生活した豪田は、仮にインドやロシアといった過酷な環境に飛ばしても、全く動じない忍耐力がついているだろう」
「仰る通り。体育会系ゆえに数字には弱いが、責任の伴う仕事でも嫌な顔せず引き受けるし、朝は七時から、夜は十時過ぎまで会社にいても、小言ひとつ垂れない」
掛布は調子を合わせると、
「うむ、早朝四時から夜十時まで、理不尽な校則と過酷な野球の練習に耐え忍び、甲子園という大舞台で戦った豪田にとって、激務と言われ嫌煙されがちな工場の仕事さえも、生温く感じるくらいだろう」
と、上機嫌にジョーは言った。
豪田の在籍する工務部生産管理課は、ギリギリの在庫管理で工場を運営しているため、少しの発注ミスで部品在庫を切らしたり、また急な天候不良や設備トラブルによる突発対応で、自ずと長時間勤務が強いられるため、社員の定着が特に悪かった。
新卒社員の多くが五年以内に工場を去る一方で、豪田は率先して現場との調整を行った。
作業服を着て現場に出ることも、強面の現場監督者との交渉も、昼食を抜かして働くことも厭わない。
そこには、紫水学園で経験した猛烈な扱きが裏付けにあったのだ。
「玉蜀黍粥や稗粟、挙句の果てに飼い慣らしたペットを喰わされる学校にいたもんだから、生産工場どころかインドの不衛生な食環境でも下痢も起こさんし、休日出勤も厭わないし、テレビ、ガス、水道も通っていない上俵山に三年間住んでいたものだから、インフラの整っていない外国の僻地でも問題ない。これ以上に頼もしいことはあるか」
「豪田のような、何でも肯定的に捉えるイエスマンは、今時、珍しいですからね」
「社員は会社にとって捨て駒だからな、組織に楯突くような斜に構えた奴は要らんのじゃ、がっはっは」
プロ野球ニュースでは、調整を続ける選手達の姿が、キャスターの談笑とともに映し出された。
掛布は、殆ど空になった徳利を手酌しながら、選手達の姿を見て溜息混じりに言った。
「しかし、まあ、豪田も怪我さえなければ、今頃、ああやって、主力として戦っていたのかも知れませんね」
その後、大学時代もドラフトにはかからず安徳工機野球部に入部した豪田である。一時期はクリーンナップを打っていたが、成績は鳴かず飛ばずで、打率は二割中半、また自慢の本塁打も影を潜め、中距離打者に落ち着いてしまった。挙句の果てには二十九歳の冬、自主練習中に右肘靭帯を損傷する大怪我を負ってシーズンを棒に振るった。そして終にその年の暮れには、社会人野球部を引退する決意をしたのである。
今年三十六歳になる豪田は、野球人としてはまだまだ現役の年齢であるが、その右腕は日常生活にも支障を来すほどの障礙を伴った。
「引退後、豪田は安徳工機の正社員登用試験に臨んだ。体育会出身だけあって面接の印象も頗る良く、岐阜工場に配属となった。確かに数字には弱く、偶に発注ミスなども起こすが、勤務態度はいたって真面目で、向上心も強い」
ジョーは終始、豪田を称える言葉を並べた。
ジョーにとって、豪田という存在はどのように映っているのか。
個を尊重する昨今の風潮に逆らい、自己犠牲精神を持つ豪田は、少なからず組織で働く上で評価に値すると、ジョーは考えているに違いない。
ジョーは、手にした箸をだらしなく皿に置くと、急に声調を落として言った。
「しかし彼には一点、どうしても目を瞑れない汚点があってだな…」
「汚点? 汚点とは何ですか」
掛布は、酒を持つ手を止め問うた。
ジョーは、一旦、短く咳を払うと、次のように応えた。
「実は、ホモなんだよ」
掛布は絶句した。
まさか、あの真面目一辺倒な青年が―。
衝撃の事実に、掛布は返す言葉もなく驚嘆していると、間髪を入れずにジョーは続けた。
「少々、男癖が悪くてな。そんな豪田だが、この春、出向の候補となっているのだ」
「出向、ですか」
「ああ、そうだ。彼には、会社を去ってもらわねばならない理由がある」
先ほどまでの豪田称賛の雰囲気とは打って変わって、ジョーは豪田に出向させる意思があることを仄めかした。
当然、掛布は、その理由が解せず、ジョーに真相を問うたのであった。
「ほんで、その豪田が、なぜ今度の人事で飛ばされるのだ。やはりホモが災いしたか」
「いや、そうじゃない。実は派手に野球賭博が目立ってな」
豪田は、毎年行われる野球賭博大会において、大会を運営する有志の中心的な人物であり、特に野球に知見が広いため、あまりにも社内で名前が知れ渡り過ぎてしまっていた。
言わずもがな野球賭博は違法であり、また最近は政治家やスポーツ選手の汚職で話題となっており、安徳工機として、無視できない状態にまで発展していたのである。
「なるほど、それは企業としては目を瞑れんな」
「うむ、来週、人事考課があるのだが、そこで出向を命じようと思う」
ジョーはジョッキの氷を舐め尽くすまで飲むと、颯爽と店を去っていった。
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