第15話
過酷な学園生活は、その後も続いた。
三回生が卒業した以降、新制野球部となった紫水学園は、相変わらず猛烈な練習をこなしていた。
野球特待生は、甲子園で全国制覇という至上命題を達成するため、特別な練習メニューが組まれており、一般入学生とは異なるスケジュールで生活することが認められている。
学校の名誉を背負うため、そのプレッシャーは、想像を絶する厳しさがある。
「最近はプロ野球を見ても、生温い選手が増えたものや。昔は連日登板も普通だったが、今や中四日でキツイなどと吐く選手がおって、根性がなっておらん。野球に命を捧げよ、野球で怪我をしたら寧ろ本望だと思え、野球が出来なくなったら、生きている意味などないと思え、そしてグラウンドで死ね」
栃丸監督は、鉄下駄、ウサギ跳び、タイヤ引き、声出しなど、容赦のない練習メニューを思い付いては、選手に強いたのである。
また部活動中に水分補給が禁止されているため、選手たちは隠れて便所の水を飲むなど、現代医学を度外視した古い根性主義が、野球部内において、当然の様に蔓延っているのだ。
飛騨高山の麓には、ブナや杉、檜など、手付かずの原生林が広がっているが、その一部に「紫水平野」と呼ばれる不自然に切り拓かれた禿野原がある。
十一月から二月のオフシーズンにかけて、深雪の積もる極寒の飛騨高山では、斧で木を切り倒す「木こり訓練」たる練習が行われる。
木こり訓練では、部員らは心身を鼓舞するため褌一丁で雪山に出て、七キロの斧を野球のバッドのように振り翳し、大木に切れ目を入れ倒すのでる。
大木は、切れ目の方向に倒れる性質があるため、ある程度切れ込みがついたら、反対側に回り蹴り倒す。
半ば強制労働にも近いこの訓練は、選手らの腕力を鍛えるだけでなく、地場の土木業者に大木を販売することで相当の利益が見込めるため、紫水学園として重要な資金源にもなっていた。
「おら、もっと倒せ。今日のノルマは一人五本だぞ。五本倒すまでは寮に帰って来るな」
顧問の栃丸も、実益のため、この時ばかりは容赦を辞さなかった。
紫水平野には、代々の野球部員が流した血の泪が染み付いており、この季節になると部員らは恐怖で恐れ戦くのである。
そんな無謀ともとられる野球部の練習の中でも、最もキツいとされるのは、ペットして可愛がって育てた犬や鶏を食べる訓練であった。
御嶽寮の献立は、玉蜀黍粥や稗といった精進料理ばかりで、動物性蛋白質が欠損し、筋成長を阻害する。
そこで野球部では、貴重なタンパク源を補給する目的で、家畜代わりにペットを食すのである。
入学して一年半が経ったある日の下校中、二回生となった豪田は、道端で一匹の野良犬を見つけた。
「こんなところに野良犬とは珍しいな」
豪田は、凍える犬に藁を敷いてやると、その日は真っ直ぐに家路に付いた。
しかし翌日も同じ場所に子犬がいるのを見かけると、とても見捨てる気にはなれず、寮へと連れ帰ったのだ。
「どうしたんだい、その犬っころは」
茶色に、所々、黒渕の混じった子犬は、やせ細ってブルブルと身を震わせていた。
鮫島と入れ替わって新たに寮長の座についた郡司良平は、豪田を呼び出すと、子犬について問うた。
「昨日から学園内に迷い込んだようで、とても見捨てる気にはなれず…」
心優しい豪田は、子犬を見殺しにする気も起きず、寮まで犬を連れ帰ってきてしまったのだという。
寮則には、ペット厳禁の文言こそなかったものの、当然、犬を連れて寮に帰るなど、お眼鏡かと思い気を張らしていたのだが、郡司の口から飛び出したのは意外な答えであった。
「やむなしだな、そのまま見殺しにするのも気が引けるじゃろう、しかし、お前が連れ帰ったのだから、お前が責任を持って面倒を見ろよ」
と、快諾したのであった。
「ありがとうございます」
「物置小屋が空いているから、そこに茣蓙を敷いて犬小屋にすれば宜しい。餌は玉蜀黍と薩摩芋、牛乳があるだろう。散歩は貴様が連れて行けよ」
豪田は、郡司の思い掛けない厚意に感謝すると、深々と頭を下げ、小屋へと向かった。
寮の敷地内に併設された物置小屋は、決して清潔であるとはいえないものの、畳六条ほどの広さがあり、大型犬一匹を飼うには十分過ぎる環境であった。
豪田は、それからというもの、食事、散歩、糞便の処理など、犬の世話を続けるのであった。
茶色いブチ色と大柄な体躯から、土佐犬に似ていたため、「土佐五郎」と名付けたその犬は、出逢った当初こそ弱りきっていたものの、豪田が献身的に食事を与えることで、一ヶ月でみるみると元気になり、半年も経った頃には、まるで本物の土佐犬の如く立派な成犬となった。
豪田は、毎朝十キロのランニングを散歩代わりに行なったため、土佐五郎の方もまた、いつのまにか屈強な体付きとなった。
「土佐五郎、今日は甲子園の地区予選があったのだ。試合には勝ったものの、俺は大事な場面で二度も凡打してしまった。この悔しさをバネに、明日以降、これまで以上に練習に励みたいと思う」
親元を離れて孤独な寮生活を強いられた豪田にとって、土佐五郎は、唯一、心を許せる存在であり、学校から帰るとすぐに土佐五郎の元へと向い、その日あった出来事を話すのが日課になっていた。
言葉の分からない土佐五郎であるが、豪田の喜怒哀楽の表情を知り尽くしたように、主人が帰ると尻尾を振って喜びを露わにし、また主人が意気消沈しているときは、豪田の頬を舐め勇気づけた。
そんな土佐五郎との生活が半年近く続いたある日、この日も日課となった十キロの山岳散歩を終えると、豪田は、郡司を先頭とした隊列に入り登校した。
土佐五郎と離れるのは心細いが、寮に戻ればまた尻尾を振りながら出迎えてくれる。
土佐五郎の存在は、孤独な寮生活で寂寥する豪田の心の溝を埋めた。
夜八時、寮の西方飛騨山脈の方角に陽が完全に落ちると、部活動が終えた豪田は、嬉々とした様相で寮に戻った。
しかし豪田が真っ先に犬小屋へと向かうと、そこにいるはずの土佐五郎の姿が陰形も無くなっているのであった。
「土佐五郎がいない!」
すぐさま辺りを見渡したが、あの愛嬌のある茶毛の犬の姿はなかった。
「まさか、脱走したのか…」
豪田は、その夜、夕食も惜しんで寮内を探したが、どこにも土佐五郎の姿はないのであった。
「申し訳ございませんが、この辺りに大柄な体躯をした犬はおりませんでしたか?」
望楼にいた看守に問うても、
「さあ、犬畜生など見かけなかったが」
と、終には手掛りを得ることができなかった。
果たして、土佐五郎はどこかへ逃亡してしまったのか、それとも――。
真冬ともなれば深雪の降り積もる極寒の山中において、土佐五郎が一匹で生き残れるとは思えない。
豪田は、一晩中、周辺を探したものの、結局、その日中に土佐五郎を見つけ出すことは出来なかったのだ。
土佐五郎の喪失感は思いの外、大きかった。
授業中も、部活動中も、土佐五郎のことを思っては、上の空の様相で、何事にも身が入らない。
教室の窓外には、雪化粧を施した飛騨の山々が見える。
あのような料峭な環境で犬一匹が生き残れるとは到底、思えない。
土佐五郎の失踪は、豪田にとっては家族を失ったのも同然で、それからというもの、塞ぎ込むことが多くなった。
―土佐五郎を失って数日が経ったある日の部活動中、監督の栃丸が皆を集めると、こう言ったのであった。
「今日は貴様らに特別なプレゼントがあるぞ」
栃丸は、木製の台の上に巨大な藁袋を置くと、手を拱いて部員を集めた。
部員らがそれを見ると、なにやら袋が小刻みに震えており、中に生き物が動いているように見えた。
部員達は不穏な表情でその様子を見つめていると、徐に栃丸は袋を開けて、中にいる生物を取り出してみせた。そして、そこに入っていた動物を見た瞬間、思わず豪田は声を上げるのであった。
「土佐五郎!」
栃丸の持ち出した藁袋の中にいたのは、紛れもない、二週間前に失踪したはずの土佐五郎の姿であった。
しかしその姿は、原型こそ留めていたものの、酷く怯えた様子をしており、豪田が叫ぶと同時に、今にも飛び付かん勢いで駆け寄ったのであった。
「畜生め」
豪田は、土佐五郎を抱きしめようと駆け寄ったが、上級生に手足を掴まれると、身動きを封じられてしまった。
「な、何をするのでしょうか」
栃丸の冷酷な表情から、不穏な空気を感じ取った豪田は、懇願するように問うた。
「これから、この犬畜生を食すのだ」
「食す? 土佐五郎をですか」
豪田は、栃丸の言う意味が分からず、堪らず聞き返した。
「ああ、そうだ」
「ちょっと待って下さい、土佐五郎を食べるなど、とてもそんなことは…」
「貴様はひ弱な体型をしておる。なぜか、それは動物性蛋白質が不足しているからだ。どんなに過酷な訓練を行っても、それを補う栄養分が無ければ、それ以上の肉体の成長は有り得ない」
「しかし、土佐五郎を食べるなど、そんなことは到底できるはずはありません、土佐五郎は家族以上の存在であります!」
豪田はこのとき、生まれて初めて目上の人間に反論してみせた。
幼少時から厳格な家庭に育った豪田は、目上の人間に楯突くなど言語道断と教育され、それは厳しい上下関係を強いられる紫水学園に入学したあとも変わらなかったのだが、愛犬を始末して食すなど想像にも寄らず、今回ばかりは反駁せざるを得なかった。
「たわけ!」
しかし、反論も虚しく、泣きつく豪田に対し、栃丸はその顔面に鉄拳を振るった。
忽ち豪田の体は地面に叩き付けられ、顔を踏み躙られてしまったのだ。
「顧問に楯突くなど言語道断、貴様、いつからワシにそんな口が叩けるようになったのだ」
栃丸は、豪田の顔に唾を吐いた。
「それに、貴様が土佐犬と思って育てた犬、それは土佐犬ではなく、食用犬だ」
「なに?」
豪田が土佐五郎と名付けた犬は、実は土佐犬ではなく、主に中国広東省で食用犬とされるチャウチャウであった。
「なるほど、通りで毛並みが良い訳だ…」
一般的に犬食は禁止されているが、紫水学園で世間の常識が通用するはずもない。
何度も殴る蹴るの暴行を受けた豪田であるが、尚も栃丸に訴え続けた。
「しかし、食用犬といっても、これまで半年以上もの間、食事や糞便の世話をし、一緒に散歩に行くなどした間柄は変わりません」
「そんなことは百も承知だ」
「どういった意味でしょう?」
「もともと、これは、ワシが仕掛けた罠なのじゃ。ペットとして育てた犬畜生を自らの手で殺害し食すことで、肉体だけでなく、精神をも鍛える目的がある。わざわざ貴様のいる近くに子犬を置き、寮の物置小屋で育てさせた。貴様と犬の間に愛情が芽生えた時点で、貴様から犬を奪い取り、そして貴様の手によって犬畜生を捌くのだ」
そう言うと栃丸は、豪田に短刀を手渡した。
依然、土佐五郎は、助けを求めるような眼差しで豪田を見つめている。
「豪田、心を鬼にしろ」
栃丸は諭すように言ったが、当然、豪田には土佐五郎を切り捌くことなどできるはずもなく、短刀を持ったまま、身を硬直させてしまった。
その横では、他の部員により大鍋が準備され、薬味とともに、汁を煮沸させている。
どうやら他の部員達も、犬食の事実を裏で知っていたようであった。
「いいか、これは将来を有望された者だけに与えられる試練なのだ。貴様は、野球特待生として将来を有望視されているだけでなく、生活態度も真面目で、次の寮長候補に名前が挙がっている。貴様は学園を卒業した後も、社会できっと活躍できる重要な存在なのだ。しかしそのためには、今よりも一回りも二回りも成長しなければならない。これから土佐五郎を食すことで、強靭な精神力を手にすることができるのだ」
豪田は、この時点で既に血の涙を流し、その顔は唾液や鼻水など、体液という体液でグチャグチャに濡れていた。
味わったこともない過酷な試練に自我が崩壊し、今にも発狂しそうな状態であった。
「何を泣いておるのだ、土佐五郎の肉を食すことで、その血肉が貴様の一部になるのだ、なんら悲しいことはない」
犬食訓練は、紫水学園が創立して以来続く伝統であり、歴代寮長になった者は、皆、経験してきたのだが、あまりの辛辣さに、皆、発狂するほどであった。
ペットとして飼い慣らした畜生を食べる訓練は、強靭な精神力を得る上で必要であった。世の中は無情、弱肉強食、時には仲間を捨て上に這い上がる残忍さも必要なのである。
「どうせ死ぬなら、痛みを伴わぬように殺してやれ」
「すまない…、すまない、土佐五郎」
豪田は、一度、土佐五郎を強く抱き締めると、小刀で思い切りに喉をかき切った。
豪田は、首元から噴き出る血吹雪に顔を真っ赤に染め、土佐五郎を抱き抱えながら、いつまでもその場に跪き続けるのであった。
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