第2話

―岐阜県山県市にある安徳工機第三鋳造工場は、建家に入った瞬間に鼻を突く焦げたコークスの臭いと、溶けた鋳鉄によって引き起こされる熱気により、纏わりつくような不快な空気を伴っていた。

特に冷え込む山間の立地において、七百度のアルミ鋳鉄に晒された工場内は、真冬でも四十度近くにまで気温が上がる過酷な環境であり、その上、作業員は、保護眼鏡、手甲、皮製手袋、踝まで隠れる安全靴などの装備を施すため、体中から汗が吹き出、夏場ともなれば、一時間おきに五十グラムの塩塊を冷水で流し込まないと、熱中症で倒れるほどであった。

創設四十年を超える岐阜第三工場であるが、鋳鉄工場は創設当初から存在し、鼠色に煤けた天井には、オレンジ色に光る溶けた鋳鉄の焔が不気味に反射し、峻厳な雰囲気を助長している。

ここが現在の豪田の職場である。

かつて甲子園という華やかな舞台を賑わせた男にとっては、些か本意ない場所であるように思われた。

通常、岐阜工場の始業は朝八時であるが、始業三十分前に行われるQCに参加するため、豪田は遅くとも七時には出社する。QC報告の準備と、また広い工場の敷地では、豪田のデスクのある管理課オフィスから鋳造工場までは徒歩で十五分以上あり、早めに出社しないと間に合わないからである。

岐阜第三工場には、組立工場だけでなく、鋳造、鍛造、機械加工、溶接、圧造、さらには開発拠点を含むため、敷地面積は三百ヘクタール以上あり、これは安徳工機の国内工場としては最大規模である。そのため、少しの移動でも構内バスを利用しなければならないのだが、早朝時間帯はバス本数も少なく、豪田は駆足で鋳造工場へと向かった。

QCへの参加には、かなりの早朝出社が必須となり、またQC活動自体は業務でなく、あくまで社員の自己研鑽と見倣されるため、残業代が出ない。そういった背景から、ほとんどの社員がQCの参加を厭うため、以前は当番制を敷いていたのだが、今では専ら豪田のみが報告している状態である。真面目な豪田は、他の社員が厭う仕事でも積極的に引き受けるため、早朝、深夜の課外業務、休日出勤、また組合活動など、面倒な仕事を押し付けられる傾向にあった。

また、豪田自身も、

「自分は、まともに勉強して学校を出た社員に比べて覚えが遅いため、人の二倍も三倍も努力しないと追いつけませんから」

と謙遜するため、誰もが臭い仕事を豪田に丸投げした。

工場に着くと豪田は、規則的に並べられた一メートル四方の石膏鋳型を縫うようにして歩きながら、QCの行われる事務所へと向かった。

事務所と言っても、四辺に圧痕が付いた薄汚いボードがあるだけで、隙間だらけの扉からは、やはり鋳鉄の熱気とコークスの臭いが漏れていた。

既にホワイトボードには、昨夜勤時に挙がった課題がビッシリと記されており、豪田はひと通り目を通すと、逐一記録をとった。

「製造課は直二十台分の遅れがあるが、早番で追加残業三十分を行って挽回対応。品質管理課からは特記事項なし、製造技術課は三ヶ月設備点検の対応のため休日出勤予定、生産管理課からは納入異常報告はなし―」

QCには、各工程監督者一名ずつに加え、物流、生産管理、生産技術、品証といった事務スタッフが参加していた。

夜勤と昼勤の交代時間であるが、鋳造工場に休み時間はなく、QCが行われている最中も、ハンマーで型を調整する叩音が鳴り響き、大声で話さないと内容が伝わらないほどであった。

各課の生産状況を集約しボードにまとめる作業だけでも一苦労であるが、これが新製品の立上げ時期や、不具合が発生すると大変で、責任部署はその場で面罵されるだけでなく、山のような課題を持ち帰り、その対応策や報告に追われる。

製造現場は常に止まることを知らないため、対策は刻一刻を争うのだ。二十四時間稼働する鋳鉄工場は特に、不夜城と呼ばれる忙しさであった。

「―以下、報告事項はあるか、なければ本日のQCは終わりにする」

門前鋳鉄製造A班係長が、追加報告事項の有無を問うたが、誰も反応は示さなかったため、この日のQCは終わった。


事務所に戻ると、ちょうど八時を目掛けて出社する社員とすれ違う。

明るく挨拶はしたものの、返って来るのは下げずんだ視線と覇気のない返事ばかりだ。

近年、女性の雇用も進み、管理課オフィスには女性スタッフの姿も増えたが、その分、現場気質の社員が減った。臭い仕事は豪田のような若手の男性社員に丸投げで、当の本人らは何ら付加価値のない事務作業のみをこなし、「家事・育児がある」とか「死にかけの両親がいる」とか、事あるごとに理由を付け、朝は遅く出社し、夜も早々と帰宅した。

薄汚れた作業着にヘルメット姿の豪田は、そんなオフィスでは一際浮いた存在で、豪田にとって些か居心地の悪い空間となっている。

八時の朝礼が終わると、豪田は再び現場へと向かった。

体育会系出身の豪田は、オフィスよりも現場の方が性に合うようで、毎日のように律儀に現場に顔を出しては、些細な課題や稼働状況などを聞き回った。こうすることで、他人よりも早く仕事が覚えられる。一見、地味に見える行為だが、豪田は初心を忘れなかった。

産機用鋳物の溶炉からは、赤くドロドロとした鋳鉄が流れ出る様子が確認できる。

鋳鉄工場では、特に厳しい労働環境と単純作業の繰り返しに、若手の募集は集まらず、外国人労働者の比率も増えた。


「―豪田、いい所に来たな、これを手伝ってくれないか」

さきほどQCを終えたばかりの門前が豪田を呼び止めると、豪田は足を止め声の方向を振り向いた。

門前は、煤で鼻先を黒くしながら、両手いっぱいに抱えた工具を豪田に手渡した。

五十歳を超える門前であるが、身長は豪田が見上げるほどで、若々しく現場気質のため、周囲からの信頼も厚かった。豪田は門前から工具を受け取ると、言われるがままに「雑用」をこなした。

「お前は礼儀があり、可愛げがあるが、一方でミスも多く、どうもパッとせんなあ」

雑用中、門前は鼻で笑ってみせたが、その一言が豪田の胸に響いた。

学もなく不器用である豪田が信頼を得るには、多少なりとも体を張るしかない。そんな自分の評価を、豪田自身が一番理解していた。

豪田は、言われるがままに門前の背について工具庫に向かった。その途中、突如、工具を持つ右手を抑えると、顔を顰めた。

「痛ッ…」

激痛から、豪田の表情は苦悶に満ちたが、数秒して痛みが引くと、すぐに気を取り直した。

「まだ痛むのか?」

心配した門前は足を止めると、豪田の方へ歩み寄って言った。

「ええ、普通に生活している分には良いのですが、重い物を持つと、時折、痛みます」

豪田は、学生時代、甲子園にも出場した経験がある有望選手であったが、社会人野球部に在籍していた二十九歳の冬、練習中に右肘靭帯を損傷する大怪我をし、それ以来、野球界から足を洗った。

心残りがなかったといえば嘘になるが、一方で、高校卒業後は思うように成績が伸びず、三十歳を前に限界を感じていたのも間違いない。そうした情況下での怪我であったため、引退を決断した豪田の心は、意外にも晴れやかであった。

社会人野球部を引退すると、岐阜第三工場総務部に一年半在籍し、挨拶の仕方から電話対応など、社会人のイロハを学んだ。

しかし、二十代後半になるまで野球一筋で、まともに勉強らしい勉強をしなかった豪田は、パソコンは使えない、簡単なグラフも書けない、当然、語学力もなく、とても仕事らしい仕事が出来ないでいた。

製造現場において、特に数字に弱い豪田は致命的であり、工場の生産管理グループに移った後は、錆びやすいアルミ鋳造素材を誤発注して、山のような在庫を抱え、二千万円の赤字を出したこともあった。

豪田の仕事振りを言い表すとすれば、生真面目だが鈍臭い。

プロ野球という栄光の梯子を外され、このような地味な鋳造工場で罵倒される毎日は、豪田にとって不甲斐ない事実であるに違いないが、野球で鍛えた持ち前の精神力で堪え、本日まで至っている。

「来週から増産が始まるから、またいつかみたいに発注ミスなんて起こしてラインを止めるなよ」

門前は工具を拾い踵を返すと、足早に去って行った。

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